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T氏への異常な愛着。

 私はいまでも覚えている。新入生歓迎コンパの一次会。テーブルを囲んでみんなが順番に自己紹介をしていた。恥じらうものもいれば、堂々たる姿勢を崩さず饒舌な者もいる。私は躍起になって一回生の顔と名前を覚えようとしていた。彼が自己紹介を始めたとき、場の空気が一瞬ゆらいだのかと私は不安になった。慌てて彼の顔を見つめた私を、さらなる衝撃が襲う。途端に私は意識の片隅で感覚を味わうことに夢中になった。

 彼のことをなにひとつ知らないのに、すべて理解したような気分になる。髪はそう、肩に若干かかりそうなくらいのほどよい長さで透きとおりそうな黒。純粋であろう心のうつし鏡のようだ。自然な眉のラインの下から覗く二つの視線は愛らしく、抱いてほしい、と私に訴えかけているように見えて困ってしまう。いっそのこと抱いてしまおうか。初対面の男に対して、こんな気持ちになるのは初めてだった。私は彼に一目惚れした。

 自己紹介と乾杯が済んだあと、後輩達と親睦を深めるため、我々先輩連中は席を移動しててんでばらばらに散った。私は当然彼の隣に割って入る。「はじめまして」席に着くと、彼が私にお辞儀をしてきた。
 ああ。天使のような声。ずっと聞いていたい。

「名前は何て言うの」
 もう既に心の内で暗唱しているのに、訊ねずにはいられない。彼はTとだけ名乗った。彼の至近距離にいると、先ほどの大まかなスキャンではとらえきれない数多くの情報が入ってくる。肌の一枚一枚が手に取るように見えた。なんて、きれいなの。できることなら入れ替わりたい。均整のとれた体に覆いかぶさるシャツの皺から、隙間から、すべてがわかってしまう。
 彼の顔を見ながら話しているふうでいて、その実、全身を隈なく捜索している。どうしよう。こんなに抑えきれない気持ちになるのは久しぶりだ。欲望の赴くままに突き進んだら、彼に嫌われてしまうだろう。
でも、抑えられない。彼を抱く瞬間、頬を寄せ合うひととき、がっちりとした体を穴があくまで眺める快楽が、実感を伴いそうなくらい映像としてくっきり顔面にうつしだされるから。

「どうしたん、気分でも悪いんちゃう」
 先輩が私の隣に陣取り、妄想はかき消される。邪魔しないでお願いだから。彼の視線が先輩に移ったのを見て私は焦った。
 あきらかに先輩は酔っていた。私を本気で心配してくれているのか、それとも彼を私から奪おうとしているのか釈然としないのである。

「いいえー。あたし、ベリーベリーハイですよぉ」
 先輩を適当にあしらったつもりが、私の声は先輩の耳には届かず、先輩は彼と楽しそうに話をしている。
 急に居たたまれない気分になり、私は他の席に移動した。
 その日はあまり言葉を交わせなかったが、彼への気持ちが失せることはなかった。

 ◇◇◇ (^L^) ◇◇◇

 彼への想いは日に日に増殖していく。このままでは、脳内にいくら容量があっても、オーバーヒートを起こしてしまうだろう。メモリは彼のことで九割も埋められていた。なけなしのネットワークを駆使して彼の情報を収集しようとしたし、友達を裏切ってまでも彼と友好を深めるためにいろいろと作戦も練ったのである。しかし、彼の私に対する態度は依然として以前と変わらぬように見える。私を女として見ていないのだろうか。それとも、付き合っている人がいてそいつに気兼ねでもしているのか。このままだと、私は朽ちた魚のように周囲に汚臭を撒き散らし、生涯を終えてしまうだろう。無理矢理にでも彼のハートを射止めないといけない。

 当初のピュアで乙女チックな愛が変容していくのを感じ、私は危惧を覚えた。今の私は彼の排泄物さえも愛おしく、それを食すのさえ勿体なく思うのだ。純真無垢な男の子であるところの彼は、すべてを超越したものとして私の前に君臨し、私のことを端から端まで理解している。一方の私も、彼のことで知らないことは何もなく、彼のわずかな成長も見逃さずに歳を重ねていく。なんて美しい愛の形なのだろう。私には誇れるものがひとつもなく、彼とは不釣り合いではないかという意見は却下する。美少年は公共のものだとわかっていても、独占したいという衝動は止められないのだ。

 ◇◆◇ (^L^) ◇◆◇

 彼と出会ってから二ヶ月後、彼といくらかの人間とで居酒屋に行った。運よく私は彼の隣に座ることができ、はやる気持ちを抑えつつビールをラッパ飲みした。

「よう飲みますねえ」
 機嫌がよいのか彼は、私の方を向いてニコッと笑った。
「おかわり。タンクに積んできて」
 私は怪しまれない程度に彼の表情を盗み見する。
「最近の私どう思う」
 彼は笑ったままで、返事をしてくれない。
 きれい? 彼の背中に手を触れると、小さく彼はうなずいた。

 抵抗しないから、私は彼の背中に指で字を書いて遊んでいる。
 「好き」という字を書きたいと私は思った。書いてみた。彼は気づかずに、出し巻き玉子を注文した。

「俺、女を抱きたくてしょうがないっす」
 何気ない彼のつぶやきに、私は好機を見てとった。
「あたしでいいなら、いつだって大歓迎ですよぉ」
「そうやって、先輩はすぐ冗談を言う」

 冗談じゃなくて本当よ、と返したかった。でも、眠っていたはずの第六感がダメだと主張して、無言のまま数秒が過ぎる。
 そんなこと言ったら、彼引くわよ。そうかもしれない。でも私はこの言葉を待っていたのに。第六感に馬鹿にされたということは、女の勘から見放されたといっても言い過ぎではない。女であることの怒りが急に湧いてきた。
 この気持ちをどこにぶつければいいのだろう。私は一緒に飲みにきたどうでもいい人たちを見つめた。むこうはといえば、焼酎をちびちび飲みながら楽しそうに語らっていて、私と彼の世界とは境界線で区切られているのだと認識する。

「先輩、もっと飲みましょうよ」
 出し巻き玉子が湯気を上げて到着し、私は箸で彼の分を切り分けてやった。アルコールで彼の顔はにわかに赤く染まっている。かわいいなぁ。いくら飲んでも顔が赤くならない私は、素直に表現できる彼を羨ましく思った。

 ◆◇◆ (^L^) ◆◇◆

 二人の間に一迅の風が吹く。居酒屋でそんなバカな、と思うのが普通であろう。でも、割り箸についている紙が飛んだのだから、風じゃないかしら。同時に、彼の匂いが私のもとへ運ばれてきた。私を誑かすのは、そう、この匂いなのだと瞬時に直感した。男の子じゃないと出せない、汗と体臭と色々な分泌物が混ざり合った、一度触れると癖になる香り。
 男になると、もうこの匂いを生じさせることはできないのだ。儚くて脆く危うい、男の子の存在そのものを体現した、女を心地よくさせる妙薬。
 忘れていた感覚が蘇ってくる。

 T。私は彼の名前を読んでみた。T。今度は最大限に甘ったるくべとついた声で彼を呼ぶ。口に出したら、酔いがまわってきて気分が悪くなった。

「なんですか」
 何も疑問を持たず、私が好意を抱いていることに気づいていないT。チェリーボーイで、うぶで大人の世界を知らないT。従順で眼が愛らしく、国家天然記念物に指定したいT。Tは軽く首をかしげて、いつものように笑った。

 ほしい。Tの体を、肉体を、感情をすべて。何もかも共有して、結合して、同一にものになってしまいたい。私が真剣な表情になっていたのか、Tは「どうしたんですか」とビールをグラスに注いだ。私はTに近づき顔を背中にあててTの匂いを思いきり嗅いだ。

「あのさあ」
 Tの顔を直視して私は言葉をふきかける。Tは笑うのをやめて真顔になった。真顔もかわいい。とか言っている場合じゃないか。

「今度さぁ、買い物にいかない。荷物持ちをお願いしたいのよぉ」
「いいですよ」
 始めからそのつもりでいたかのように、あっけなくTの口から言葉が出てきた。アドレナリンが体の四方八方から暴れだす。

「ありがとう」
 この気持ちを忘れないうちに、軽くTに頭を下げた。
「なんなんですかー」
 Tは笑いながらも、不思議な生物を見るような目で私を見た。暴走寸前の手を制御しようとして、テーブルに強く打ちつけてしまう。痛い。衝撃によって、ようやくここが居酒屋であることを思い出す。一緒に飲みにきた連中も、そういえばいたのだと気づいた。この恥ずかしい光景を見られてなければいいのに。Tは私が傷つけた手を見て「大丈夫ですか」といった。だが、決して手先を舐めてはくれなかった。

 ◆◆◆ (^L^) ◆◆◆

 私はいま、恋文を書いている。ラブレターというやつだ。明日はTと買い物を約束した日で、私にとって忘れられない一日となるだろう。買い物といってはいるが、実のところはデートなのである。そのことにTが気づいているかは定かではないが。

 Tへの愛情を言葉で表すと、とめどもない量の文章が生成されて、その文章をどのようにまとめたらよいか困ってしまった。取りあえず、吐き出せるものはすべて出そうとして、十二枚の紙を消費して書き続けているのだけれど、一向に終わりそうな気配がない。結局のところ、言葉が感情についていけなくて、どんな言葉も気持ちには勝てないような気がしてきた。

 私の愛は永遠のものなの。文字を書き連ねてみたところで、愛の証明にはなっても、愛のダイナミクスにはほど遠いのではないかしら。

 明日の予定は既に何度もシミュレーションしてある。昼食は、完全予約制のフレンチフルコースで、彼の口にあーんってするつもりなの。ランジェリーショップにもいって、顔を赤くするTに無理矢理夜の下着を選んでもらう。気分が高まったところで、ショップの隣にある観覧車に乗って、頂上まできたところで、恋文を渡す。手紙の厚さと内容の濃密さに驚いているところに、唇を重ね合わせるという寸法までばっちりだった。

 手紙を渡されたとき、Tはどんな表情を見せてくれるのだろう。私はそれがなによりも楽しみで、シチュエーションを完璧にするためにもこの手紙を書き続けている。果てのない喜びが身体を満たしている。どうか手紙が書き終わりませんようにと脳内物質が全速力で駆け巡る。緊張しないといったら嘘になるが、今日は夜を明かして愛の言葉を紡いでいこうと思う。

断捨離を推し進めた結果、男の子が寄ってこなくなりました。