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俳句のいさらゐ・物語仕様 ✧☽✧「松尾芭蕉/影法師①」

🎬 以下の文は、「俳句のゐさらい  松尾芭蕉『続猿蓑』より。「埋火 ( うずみび ) や壁には客の影法師」と「同 松尾芭蕉『奥の細道』その六。「世の人の見付ぬ花や軒の栗」の記事をもとに、読み物として仕立て直したものです。

   元禄五年霜月 (十一月 ) 某日の午後、芭蕉は深川の庵を出て、川岸近くを一本の木切れが、己の歩みとちょうど同じ速さで流れてゆくさまを、我が孤影を映しているかとも感じながら清洲橋を渡り、水天宮の参道へとさしかかった。すでに今日の雇仕事を終えたと見える大工が、軽々と道具箱を肩に担いだまま、行き違うときにちらりと芭蕉に目をやって、急ぎ足で過ぎて行った。いつもながらこの辺りの人出は多い。

歌川広重 「江戸名所 赤羽祢水天宮」より部分

 八丁堀にある徳川家譜代、近江国膳所 ( ぜぜ ) 藩 、本多隠岐守七万石 の上屋敷へゆく道すがらである。親藩譜代の諸大名の武家屋敷が並ぶその方面には、芭蕉はふだん足を向けることはない。芭蕉が自分の右腕と言ってもいいほど頼りとしている近江の門人で、江戸勤番となったことを告げて来た膳所藩の中老職 ( 家老次席 )にある菅沼曲水によって、藩邸に招かれたのである。
 
 申し合わせた時間からすれば早めに庵を出て、水天宮に寄ってゆくつつもりで歩いていると、さほど遠いとは思われない方から犬の遠吠えが聞こえ、芭蕉は一瞬どきりとした。近づいて来るような気がしたのである。
 近頃では、往来で犬の姿を見ることがない。生類を憐むべしというお触れが厳格に運用されていて、御囲と呼ばれる広々とした一画に野良犬も保護されているからである。こういうお触れの出ているご時世に、犬と鉢合わせしようものなら、どんなとばっちりを受けるやもしれない。水天宮詣は今日はやめて、先を急ごうと芭蕉は思いなおした。膳所藩の屋敷まであと半里ほどである。

嘉永2年-文久2年 ( 1849-1862 )刊〔江戸切絵図〕 築地八町堀日本橋南絵図より
膳所藩  (本多隠岐守)
 上屋敷周辺部分  現在京橋付近

 藩邸の屋敷の門番に名を告げると、すぐに門の処まで曲水が出てきて芭蕉を迎え深く頭を下げた。曲水は自ら門外に出て、芭蕉が来る姿を認め迎えたいのが本音であったが、自分と芭蕉の仲は俳諧の縁による私事である以上、藩邸に迎えるとあっては、そこまで私感情を表に見せた行動はとれない。それゆえに曲水は、内心今か今かと、気もそぞろであったのだ。
 
 三十代半ばの曲水は、見るからに壮年の気迫を漂わせている。芭蕉の庵なら百ほども入ろうかというほどの広さの敷地を導かれてゆく道すがら見る庭は、掃き清められ、澄んだ池の水がいやおうなく静寂を高めている。過ぐる年、みちのくの旅において黒羽で館代屋敷に宿を得たこともあり、鄙(ひな)にあっても武家の権威を示す屋敷の風格には感じ入ったものだったが、この夏門人に加わった彦根藩藩士森川許六が住む彦根藩江戸藩邸に招かれたばかりでその記憶もまだ鮮しく、さすがに幕府譜代重藩の江戸藩邸ともなると、整いに一段と念が入っていると芭蕉は感心した。
 膳所藩中老職にある菅沼曲水は、藩邸の敷地内の一棟に住まわっていて、公用には使うことのない六畳ばかりの瀟洒な部屋へ、芭蕉を導き入れた。師の嗜好を考えて、肩ひじ張らない応対をしたいという配慮からである。

曲水は、芭蕉にまずは茶をと、勧めながら小さな愚痴をこぼした。
「私どもより庵に伺って、ときに縛られず先生の話に存分に耳傾けたいのですが、不肖の身ながら藩の重責を担わされているとあっては、それもままなりませぬ」
「いや、あなたと江戸でまたこのように会えるとは思っておりませんでした。おおよそはわかっておりますが、実のところは江戸へはなにゆえに・・・・・・」
「このところ、厳罰伴う生類憐みの令が矢継ぎ早に出ておりますゆえ、ゆめゆめ江戸勤番藩士たちに不行き届きの行いがなきよう、このお触れの重大さを藩士隅々にまで知らしめ引き締めるために、急遽江戸へ罷りこすこととなりました。譜代と言えど藩士に過ちあれば、減封の命さえも出かねないほどの、幕府の威信を示すお触れと見ています」
「いやはや、そのとうりと見受けられます。先ほども犬の声を聞いたものですから、逃げるようにここへ走り込みました」
「それは賢明なご判断でした。ただ一方では、武威のみを重んじる世のあり方を変えんとする荒療治のような政 (まつりごと) でもあって、上様は文の道も大いに奨励しております。俳諧を論ずるも、御政道に適うという面もあるのは救いです」
「しかしあなたには、このような場を設けていただかなければ会えない。近江滞在中の幻住庵住まいの頃でさえ、あなたには思うようには会えませんでした。こうして、短くとも談笑の場が持てますのは、がんじがらめのこの浮世においては、得難い恵みです」

 近江在住の門人たちの世話役立場である曲水は、近江の門人たちからの依頼ごとを伝えたり、江戸の門人たちの動向を尋ねたり、芭蕉一門はこれからどうあるべきか一通りの相談したが、それは表向きの用件であり、曲水は、藩政の都合とはいえ江戸に出て来たのを好機として、他を交えることなく芭蕉の俳諧談議を聞きたい存念が先にあって、この場を設けたのである。
 ここより先は、詩と弟子相対した俳諧談議のときであり、曲水はさっそく座に酒を運ばせた。
「帰りは籠を用意いたしますゆえ、心置きなくお召しあがりください」
芭蕉は、曲水からの一献を受けたあとつぶやいた。
「《花間一壷の酒 獨酌相親しむ無し 杯を擧 (あ) げて明月を邀 (むか) え 影に対して三人を成す》」
 曲水もそれが何の詩かはわかっている。
「李白の『月下独酌』‥‥諳んじおられるのですか」
「ひとり居の私のふだんの晩酌の心境は、まさにその詩のごとくにありますが、今宵はあなたと一献傾けられる幸いを得て、李白が酒酌み交わす客と見た名月が、今宵の私にとってはあなた、ということです」
「それは私には過ぎたる言葉です。叶わぬことながら、毎晩でもこうして先生と盃を交わせたら、どれほどか愉しくあろうにと思うばかりです」
芭蕉は、盃を持つ手を宙に浮かせたまま、早くも灯された行燈の明るさを見つめて言った。
「この頃しきりに、短い間でしたが、一昨年近江の幻住庵にいた日々をなつかしく思い返します。身過ぎ世過ぎのため、身を裂かれる思いで仕方なく江戸に帰って来たわけですが、私には幻住庵での日々は、壺中の天地にいる思いでおりました」
曲水は、応じた。
「それはまことでしょうか。幻住庵に入って間もなく、濱田酒堂に先生が与えた吟を酒堂から教えてもらいました。ー 夏草に 富貴を飾れ 蛇の衣 ( きぬ )ー これを見たときには、あの草深い幻住庵で、先生の困り果てておられる顔が浮かんだものでした。夏草に、さらに蛇とは‥‥。いや、吟にこめた先生の諧謔はもちろんわかった上でのことですが、さすがにあの草深い庵を用意した者しては、何と申してよいかと」
「何と酒堂があなたに、あの吟を見せたのですか。あなたに見せてはあらぬ誤解を受ける吟だと思い、酒堂への書簡かぎりに添えたのですが。しかし、あの吟は破天荒ながら、幻住庵が壺中天地の場であることを寿いたつもりです」

 芭蕉のこの吟は、こういう意をこめているものだった。
 幻住庵は草が延びて、蛇が庭を跋扈 ( ばっこ ) している、そんな処だが、
 仏の教えでは、脱皮を繰り返す蛇は、どんどん姿を新しくするので、金運
 をもたらすものとされ、お守りにすると効果をもたらすそうだから、蛇が
 脱ぎ捨てた皮を庭の彩として置いておけば、私を富貴にしてくれるであろ
 う。( わが身一つが暮らすにはまことにふさわしいいい処である )

 曲水は、自ら口にした酒堂の名で思い出した件を芭蕉に問うた。
「その酒堂ですが、今江戸に来て先生の庵に出入りしているとか。そのように出来る酒堂が実にうらやましい」
「あなたに招かれたことを酒堂に話したとき、今あなたが言うたと同じことを酒堂も言いましたよ。酒堂がうらやましいと曲水は思うておるだろうと。酒堂が江戸に上ってすでにふた月ほどになりましょう。江戸滞在のうちに、連句集を編むつもりだと言うて意気込んでおりますな。酒堂が庵に来るのもまた一日のうちの愉しみです」
「何かと要領のよい男ですから、先生、頭から信用してはなりませぬ」

 芭蕉は、おや、こういう謹厳実直を極めたような男でも妬む心が言葉に出て来るのかと、改めて曲水の表情に目をやった。曲水は、芭蕉の盃に酒を満たしながら、やや渋い表情を見せて言った。
「酒堂も医家としての名声により豊かな暮らし向きで、膳所では贅を凝らした屋敷に住まわっておりますし、私とて家門のおかげで、このような困るところ何ひとつないお屋敷暮らしをしております。先生にすれば、破屋に住んでこそ俗念を排し、虚心に風雅の道のみを見つめ得るという信念でありましょうから、すでにして、酒堂も私も先生のお膝元に机を並べる資格すらないやもしれませぬ」
「生まれ持った宿命を投げ出さず、なおかつ風流を求める心こそが真の俳諧に近づく道でありましょう。あなたの俳諧は、譜代雄藩の重役であり歴とした武家である矜持の上に花開いていると私には見えます。そこにしかあなたの俳諧はあり得ぬでしょう」

 続けて芭蕉は曲水に諭すような口ぶりで言った。
「あなただから言うのですが、私が真に好きなのは、今すぐにでも戻りたいのは膳所です。みちのくの旅から帰った翌年の春、膳所で
ー 行春や あふみの人と 惜しみける ー
と詠みました。その近江の人とは、なじみのある幾人かではあるのですが、あえてただ一人選ぶなら、あなたしかいません。あなたは、私に幻住庵住まいを世話してくれるやりとりの中で、あの春の日、しみじみとこう仰せられた。私には先生のように、旅の風に身を吹かれる日々を持つことは叶いませぬ、ここ膳所の春を飽くほどに見つめ、ゆくを惜しむ、それが私に許された小さな風流です、と。そのとき、私も思いました。奈良で、高野山で、甲州でと、心もそぞろの旅先で、歳々にゆく春を眺めて来ましたが、膳所にいると、膳所こそが私には拠るべき土地であり、その地の春こそが、私が終の身にして迎え、送るべき春であろうと。
 あなたの、あの日のことばによって、あなたとともに美しい膳所の春がゆくのを惜しんだことが、私には喜びであったのです。ゆえに、衒 (てら ) いも企 ( たくら ) みもない、私の好きな俳句となったのでしょう」

「先生‥‥」曲水はただ一言そう言っただけで、瞑目し深々と首を垂れた。
 
                    以下「影法師②」に続く
                  令和6年6月      瀬戸風 凪
                                                                                                       setokaze nagi


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