ワタクシ流☆絵解き館その211 一流画家たちのアルバイト画業を見る④👉東山魁夷編
絵描きは本業(制作画)一本では食えないという悲哀を、今日著名な画家でも、生涯をたどれば、若い日には味わっているのがわかる。主に、挿絵・口絵・表紙絵といった注文が、画壇の地位を確立するまでは生活の一部を支えていた。
今回は、亡くなって後も、この画家を超えるほどの人気を持つ日本画家はなく、大規模回顧展が何度も開かれている日本画壇の大家東山魁夷が、戦後、日展で大きく羽ばたいてゆく以前の副業仕事を拾う。
■ 軽いタッチのスケッチ画
下の挿絵の昭和15年は魁夷32歳。1947年(昭和22年)39歳で「残照」が日展の特選となるまで、兵役をはさみ雌伏の時代が続く。
雑誌「詩と美術」は日本画の有力画家たちの作品を載せる雑誌だった。結城素明門下であった魁夷にも、師系のつながりから執筆依頼があったと思われる。魁夷の優れたデッサン力から見れば、簡素過ぎる感があるが、当時はこういう瞬時に印象を描きとる、素早いデッサンでの訓練を積み重ねていたのであろう。
昭和17年の下の絵は、当時の食糧増産の国策に沿った絵柄だ。雑誌の同号には、「米艦の日本下士官」といった記事も見える。
「国画」は、昭和戦前期に出版されていた日本画専門雑誌。昭和16年9月以前の雑誌名は「塔影」だった。
魁夷は平易であって、印象に残る文章を書く人だった。創作の心構えがよくわかる「我が好む風景」と題された短文とその挿絵を以下に紹介する。
■ 雑誌の表紙
下に掲げた蟹の絵には、これも魁夷なの?という感じがする。魁夷にこういった絵柄を注文した俳誌「ホトトギス」は、魁夷の絵もあまり知らないまま、日本画の人だから描くでしょう、という気持ちからだったのではないか。それだけに珍しい。
■ 紀行とその挿絵
1933年(昭和8年―魁夷25歳)から1935年までドイツに留学した。その当時のスケッチをすでに名が高まった後年に、書籍に載せたたものが下に掲げた絵である。
ドイツ留学のためには、後段に掲げた「コドモノクニ」の童画のようなものなど、相当描いて資金作りをしたことだろう。
絵画市場には疎いので知らないが、魁夷20代の絵が市場に出ることはあるのだろうか。
■ 本名、東山新吉の名で描いていたこどもの雑誌の絵
生涯、この路線で描いていたとしたら、童画の巨匠の名声を得たと思われるような、勘所をつかんだ絵画世界が現れている。しかし、魁夷は、この分野からすっぱりと手を引いた。
こういう童画にも真剣に取り組んでいたのは間違いないが、しかしながら彼の本意はここにはなく、風景画大作一本でゆく固い信念があったことを思う。
令和4年11月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
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