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ワタクシ流☆絵解き館その235 フェルメール「天秤を持つ女」

フェルメール、「天秤を持つ女」は、宝石が並べられ、その輝きを愉しんでいる婦人の、裕福な暮らしの俗世的な一風景でありながら、瞑想に浸るような表情や、張りつめた瞬間の手の様子などからは、儀式のような厳かさをも感じさせる、いわば地上天上のふたつの価値を見比べているような絵である。ゆえに、壁には主題の暗示として、神の審判の絵が置かれているのであろう。
フェルメールお得意の窓辺の一隅。そのバリエーションのひとつとして、心安く見られる絵でもあるのだが、不思議さも数々ある絵だと思う。
以下、それを示そう。

ヨハネス・フェルメール「天秤を持つ女」1662-1663年 ワシントン・ナショナルギャラリー蔵

🔳 絵の謎 ①

「天秤を持つ女」部分

謎の①は、ひかりが作る壁の影の形。
上の部分図の赤い破線は、壁の際の推定。窓の位置は、左隅に掛けられた鏡の半分くらいの高さのところだろう。大きくはない。そこから差し込みむひかりなのだから、斜光のラインは、普通はまっすぐに状態になるはずだ。
参考になるのは、下の図版、同じくフェルメールの「真珠の首飾りの女」。部屋の様子は似た設定で、カーテンの垂れ方も同じだが、影はシャープに壁に映っている。となれば、ますます「天秤を持つ女」の影のふくらみは何、という問いが残る。
女の装いのふくらみに共鳴させる効果を意図して、シャープなひかりのラインにせず、壁にひかりの明るさのふくらみを持たせていると感じられる。
ひかりの形を演出したということではないだろうか。

ヨハネス・フェルメール「真珠の首飾りの女」1662年 - 1665年 ベルリン絵画館 蔵(ドイツ)

🔳 絵の謎 ②

「天秤を持つ女」部分

謎の②は、壁の絵の額縁を装飾している金の描き方。向かって右側の金色ははっきりしているが、左側は金色に輝いていない。黒く沈んでいる。窓から差し込むひかりの強さのせいで、色が消えていると解釈するには、窓の大きさからしてやや矛盾を感じる。
意図して、左右の描き方に差をつけたという気がする。その効果は金色の輝きを打ち消してしまうほど、窓辺にさんさんとひかりがあふれている印象を深めることだろう。そして、卓上の宝石の金色の方へとぱっと視線がゆくようにしているのだ。目立つ差異でありながら、不自然さのない描写になっている。

🔳 絵の謎 ③

「天秤を持つ女」部分

謎の③は、卓上に置かれた布が隠しているもの。
前述の「真珠の首飾りの女」では、同じ構図の位置に、壺が置かれている。
( 下の図版参照 ) 壺が隠されていると見るのが順当だろう。
「天秤を持つ女」では、わざわざ隠しているところに、フェルメールの意図があるはずだ。
効果としては、生活のもろもろの道具は、この婦人には今この瞬間、意味を持たないものだと示していることにもなるだろう。卓上の宝石や天秤のみを、大きな暗い色の塊との明暗対比によって強調している。

ヨハネス・フェルメール「真珠の首飾りの女」部分 

🔳 絵の謎 ④

「天秤を持つ女」部分

謎の④は、フードに映った影の妖しい感じ。顔が作る影である。フェルメールの「窓辺の女」( 下の図版参照 ) においても、同じく、フードに映る影が描かれている。
この影の効果は、絵全体の最大の要所と言ってもいい。影を消してみると、 ( 下のアレンジした図版参照 ) 窓からのひかりが卓上までで途切れて、女がひかりに包まれていることで浮き立っていた、おごそかな雰囲気まで消えてしまうのを感じる。
この濃い影が強調されることで、窓からのひかりが、他のどこよりも女の顔を照らしている演出になっているのに気づく。そしてそのひかりは、恩恵、を意味するだろう。宝石とは比べられない尊い何か ー真であり善であるものー を女が見つめていることに対し、神が恵光を投げかけている、と見えて来る。

ヨハネス・フェルメール「窓辺の女」1658―1660年 メトロポリタン美術館蔵
ヨハネス・フェルメール「窓辺の女」部分
ヨハネス・フェルメール「天秤を持つ女」のフード部分をアレンジした図版

🔳 絵の謎 ⑤

「天秤を持つ女」部分

謎の⑤は、真珠が函から出されて縁に掛けられている意味。宝石が虚飾、虚栄を暗示しているのはわかりやすい。しかし、縁に掛けられている意味とは?
今にも滑り落ちそうに見える危うさで、虚栄の美を強調しているのだろうか。これと同様の意図で描かれた例として「手紙を読む若い女( 下の図版 ) の皿からこぼれた果物が思い当たる。

ヨハネス・フェルメール「手紙を読む若い女」1657年? ドレスデン国立絵画館蔵
ヨハネス・フェルメール「手紙を読む若い女」部分
◆参考図版 ポール・セザンヌ「The Basket of Apples」1893年 シカゴ美術館蔵

「手紙を読む若い女」は、はるか後年のセザンヌの静物画 ( 卓上のリンゴの絵 ) の原点とも言える絵だが、「手紙を読む若い女」のこの果物は、不自然な置かれ方である。大きな盛り上がったテーブルクロスが、果物の皿を傾けさせているが、皿をよけてから、テーブルクロスを動かすのが通常だ。だから、この構図は、傾いてこぼれ出させたところに演出がある。
その意図は、女の顔が示すどこか悲し気な感情に響かせることにある。平穏が揺らいだ状況とみるのが、自然な見方だ。

「真珠の首飾りの女」に戻れば、天秤皿と真珠の大きさを見比べてみて、この真珠を量るための天秤ではないのが一目瞭然だ。
真珠は、ただ函から取り出されて、眺めるためだけに、あるいは手に弄ぶためだけに、この状態にあるといえるだろう。
そのことから感じられるのは、虚ろな、アンニュイな気分である。
天秤の皿には何も乗っていない。卓上にも、量ろうとする何かが大きさからして見当たらない。
つまり、天秤の均衡を、ただ手慰みに楽しんでいるだけなのだ。女が静寂のなかで鬱々と思っているのは、宝石の美しさや、金額面の価値などではない。女の人生のこれからを左右する何か、なのだ。
                                                                       
                                                                         令和5年7月  瀬戸風  凪
                                                                                                   setokaze nagi

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