Essay Fragment/日々のうた織り ⑤ 広島平和記念資料館
私が初めて広島平和記念資料館へ行ったのは、昭和43年8月8日のことである。小学5年生ときの「遠足 」行事 ( 今日では社会見学というのだろう ) であった。半世紀以上も昔のことなのに、学校には残っているかもしない記録など調べなくても、こんなにもはっきりと日付が言えるのには理由がある。それはあとで述べよう。
こんなふうに死ぬのは嫌だ。痛いだろう。苦しいだろう。悔しいだろう。平和記念資料館内をめぐって私が感じたことで、今思い返せるのはそのことだけだ。それ以上の深い思索などはまだ出来なかっただろう。原爆が落とされるに至った日米間の政治的背景なども、その場で学習したことだろうが、何も記憶にない。
その日の見学先はもう一つあり、地方新聞社だった。夕刊発行の印刷機械の音が連続的に響く屋内にはインクの匂いが漂っていて、新聞がひとつの工業製品として産み出されてゆくという、それまで思ったこともなかった感じを覚えていた。ところが、工程の流れについて新聞社の人から説明を受けている途中、印刷機が全て止まった。そして新聞社の人たちが、にわかにあわただしく動き始めた。
「紙面の差し替えになりましたので、いったん印刷を止めます」
説明をしていた人がそう言った。大きなニュースが入って来たので、紙面の構成をやり直す、という得難い場面に出くわしたわけだ。
それはその日、日本初の心臓移植が、和田寿郎医師を主宰とする札幌医科大学胸部外科チームによって行われたニュースが、午後になって入って来たからだった。会議室だったか、広い部屋に戻って、紙面の差し替えのことについて説明をする新聞社の人は、そのニュースの重大性に昂っていたのを覚えている。その人の昂ぶりが伝染したのだろう、私もまた、心臓を体から出して、他人の心臓と取り換えるという考えたこともなかった医療の技を、本当にあったこととは信じられず、その思いにもまして、何か恐ろしいことのように感じたのだった。
ニュースが伝えられた当初は、医学の画期的な進歩といった視点でとらえられた日本初の心臓移植は、しかしその後、人の死の判定についての定義をめぐり、今日にまで続く社会問題になり、日本の重大な出来事の一つになったので、過去のニュースを検索すれば、冒頭述べた昭和43年8月8日に初めて広島平和記念資料館へ行ったことがわかるわけだ。
こどもの拙い思考ではあったが、そのとき私は、こういうことを思った。
( 一人を助けるため、信じられないような手術が行われたというが、一方、何万人もの命が、殺すという明確な目的を持った原子爆弾の投下によって奪われたという事実を今日、改めて平和記念資料館で考えた。その余りに対照的な行為。違うのは戦争の時代かそうでないかであって、本当は人は愚かなものなのだろう )
今、そのときの気持ちを思い浮かべ整理して述べれば、1000字でも2000字でも押し広げて書けるだろうが、それをすれば文を飾ることにすぎなくなる。半世紀を超える月日を経ても確かに言えるのは、小学5年生の私の思いは、ただ一点に留まっていたということだ。人は愚かなものだという思いに。
そしてその簡潔な思いは、父や母から聞いた戦時体験を書き伝えている私の物書き作業において、はるかに時を経ても、心に深く沈んでいる一点だとも思うのだ。
令和6年5月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
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