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ワタクシ流☆絵解き館その231 青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ③ 沈潜

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青木繁の画業を語るとき、重要な友人である高島宇朗について書いているこのシリーズ。
「流浪の詩人僧侶人生と言っていい宇朗の変遷の根にあるものが見て取れるだろう。自分を制御しきれない熱の人、青木繁とどこか重なり合うものが感じられる」という語で前回の記事を結んだ。
今回は、時間を進めて、青木没後の宇朗の様子を見る。下に掲げた詩「沈潜」( 昭和2年刊 詩集「眼花集」所収 ) に述べた心境は、異様な日常を示している。
 
沈潜          高島宇朗  大正12年3月14日 午前四時床中で

沈潜の幾日つもれば
駐在巡査の
變な眼が
だんゞゝ光らなくなり
泥醉の主人のうた くだまきを
部落の人の
おどろかずなり
財物と
世間體とを
あざむきとつた近親は
貧乏と
眞實とだけ
残して去るし
子は
泥まみれ
女房は
おどろ髪
あかぎれきらし
門のない
借家の橡に
苔さびついて
畳は破れ
市の東
一里の部落
枝光の竹藪の奥
晴れた日は
雲 空に浮き
しとゝゝと
降りこもる日は
身も
世へも
ひた遠かり
昏々と
眠りほうける
軒端に
藪こめて
雲をりる

高島宇朗詩集「止息滅盡三昧」より転載  昭和2年の禅宗僧侶の姿の高島宇朗  

「泥醉の主人のうた くだまきを 部落の人のおどろかずなり」「財物と世間體とをあざむきとつた近親」と、寒々とした言葉で表現している。これは、酒造業により裕福なはずの高島の分家身分に安住していた立場に変化が起こったことを示すものだろう。
「門のない借家の  橡に苔さびついて畳は破れ  市の東一里の部落  枝光の竹藪の奥」とは、自ら林泉共鳴墟と名付け住居としていた広い敷地の高島家別荘はすでに去って、粗末な借家暮らしをしていることを語っているのではないか。( ※参考 昭和3年まで宇朗はこの屋敷にいたと、ウェブサイト「シニアネット久留米」の記事に記載はあるが )

高島賢太経営 千代の友酒造の建物 久留米

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大正12年3月までに、高島家内部で何が起きたのかは詳細をつかめないのだが、参考に出来るひとつの資料として、宇朗が昭和5年頃に、弟で高島家戸主の賢太を相手取った訴訟の記録がある。
件名は「不動産所有権取得登記抹消」である。内容は、亡き父嘉蔵から賢太への不動産贈与契約は、賢太が偽造したものであり、無効とする訴訟である。一審に1年1か月 ( 棄却 ) 、控訴して二審で8か月の審理期間を要し、昭和7年5月に福岡地裁 ( 二審 ) で和解成立。賢太が宇朗に「三千圓ヲ支払フ」ことになった。
調べてみると、米の値、大卒初任給などからの比較で、当時の三千円は、現在の800万円から900万円くらいに相当するようだ。
その裁判時の宇朗の職業は、僧侶と示されている。ただし、「門のない借家の 橡に苔さびついて畳は破れ」という詩の記述からは、昭和5年の訴訟当時も寺住みの住職とは思われない。僧侶はたんに肩書にすぎないだろう。

詩の制作年大正12年から、訴訟を起こした昭和5年までには、7年の歳月の隔たりがあるが、想像すればこの間、下に述べるようないさかいがあったのではないか。
大正12年より前に、家業の傾きなどの理由で高島本家からの経済援助を絶たれて、また、宇朗が詩に書いている仕事としての櫨栽培も、大正時代に入ると電気やパラフィン蝋の普及とともに、木蝋産業が急速に衰退していることから、採算がとれなくなり、その結果、高島家別荘からの退去を要請されたのか、屋敷に住むこともできず、宇朗の生活の窮迫度が増す。
しかし宇朗は、この時期、昭和2年2月15日福永書店より詩集『眼花集』    ( 定価一円九十銭 ) を出版する。ちなみにこの詩集は、今日、書肆田高の古本価格11,000円の高値がついている。詩集出版という事業、これは今昔変わらず、大きな経済負担が著者にかかることであったはずだ。

宇朗は、この頃より参禅活動から禅宗僧侶暮らしへと移り、それがわずかな生活の糧となっただろう。詩人として生活がたつ見込みは全くない。
そこから、高島家の財産分与ついて宇朗と賢太の間に交渉があり、それが数年に渡る話し合いでも決着しないので、宇朗が訴訟に踏み切ったということではないだろうか。父親から賢太への不動産贈与契約書が、宇朗の主張するように賢太の偽造によるものであったかどうかは、和解、金で解決という決着のため判然としない。
あるいは、これ以上裁判を続けることに賢太が無力感を覚え、提示した和解金を困窮する宇朗がのんだのかもしれない。ただ、このことで、宇朗は高島本家からは、以後、完全に縁を切られたことだろうとは言える。つまり、三千円 ( 現在値 800~900万円 ) の和解金は、高島家からの以後一切かかわりを持たず、という注文付きの手切れ金であったと見るべきではないだろうか。

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宇朗が、かなり優秀で立身出世した弟三郎 ( 東京山一汽船會社同社船舶監督主船部長同常務取締役から転身して農林技師、水産局勤務 ) や、政界にも出た戸主賢太らの社会的地位の高い高島一族からどう見られ、どう扱われたのか、このあたりの事情はわからない。
わかっている事実だけを述べれば、賢太より下の弟で、現在その名が広く知られるようになった画家、野十郎 ( 本名 彌壽 )は、兄宇朗を慕い、東京大学を卒業したとき、画家になる道を相談しているし、後年まで兄のもとに出入りしている。
しかし、この野十郎は、昭和4年ヨーロッパへ絵画修行に行っている。兄弟からの援助があったはずだ。無名の貧乏画家野十郎とはいえ、高島家からは一族として尊重された扱いを受けていると言えるだろう。
さりながら戸主賢太にしてみれば、兄宇朗に、弟野十郎に、継続的に経済援助の手を差し伸べる余裕などなかった。両人とも、安定した充分な収入口は持たないにもかかわらず、風狂に身を投じた人としか言えなかっただろうとは容易に想像できる。
野十郎には、大正9年(1920)制作の「絡子をかけたる自画像」という法衣を着た絵があり、参禅に没頭していた宇朗の身辺に野十郎もあった証になるだろう。この絵は田場川斐都子氏により福岡県立美術館に寄贈された。斐都子氏は宇朗の息女であるから、宇朗が所蔵していたものであろう。他にも何点も、若い日の作品が斐都子氏から同館へ寄贈されている。兄宇朗と弟野十郎の間に、高島本家を通さない交わりがあったことが想像される。

高島野十郎 「煙草を手にした自画像」部分 1935―44年  油彩  福岡県立美術館蔵

大正14年には、開き直りとも見える調子で、貧苦を題材に詩 (「沈潜」と同じく 昭和2年刊 詩集「眼花集」所収 ) を書いている 。宇朗、47歳である。

青嵐          高島宇朗  大正14年6月12日 午後0時37分

生きて居る
うれしさは
六月の
はだぬぎの
青嵐 
貧乏の
不自由も
やりくりの
面倒も
雛を飼う
妻のかなしさ
しおくりもそこゝゝの
子たちのあはれ
すべてみな
眞實の
六月の
みどりのかげの
はだぬぎの
青嵐

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                  令和5年6月    瀬戸風 凪
                                                                                                    setokaze nagi








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