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ワタクシ流☆絵解き館その230 青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ② 弧雲

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令和4年11月、久留米の青木繁生家 ( 青木繁記念館 ) を訪れたとき、展示されているゆかりの人物写真パネルに、高島宇朗の顔がないことに筆者はたいへん驚いた。言わずもがなと思いつつ、館の方に、「高島宇朗は外せない人でしょう」と未練の気持ちを述べて来た。
高島宇朗も久留米の人で、青木の絵を素描、油彩小品を何点も直接に譲り受け、青木没後も大切に保管した友だというのに、青木繁を顕彰した者の中に、入れてもらっていないことに大きな違和感を感じたのだった。

高島宇朗の名は確かに、やや詳しい青木画集や伝記の解説書でしか見ない。その理由として考えられるのは、彼は青木の友人の中では極めて特異で、反感さえ買っていたからであり、青木の顕彰に努めた人たちの中で、高名な画家であり、インタビューなどで青木について語る機会が度々あった坂本繁二郎が、青木とかかわった高島について、多くのことを知っていたであろうが、少なくしか語らなかったことが挙げられよう。
反感を買ったのは以下の理由による。
青木没後、坂本繁二郎ら青木の他の友人たちがこぞって、青木繁芸術を世に広めるために、展覧会開催や作品集出版に尽力した際、所蔵絵画の公開を頼まれていたのにそれに協力せず、その営みを黙殺するような行動をとったからだ。

この行動の理由は明確になっていない。この間の事情について触れた論考として、昭和61年、福岡ユネスコ協会刊の労作、竹藤寛 著『青木繁・坂本繁二郎とその友 : 芸術をめぐる悲愴なる三友の輪』がある。
その論考では、公開すれば、高島の所蔵していた絵について、入手したいきさつがあいまいなことを理由に、青木繁の遺族が、返還を求めて来るのを予測して、発生するであろう悶着を避けようとしたのではないかと推測している。同書には、実際に、青木家の遺族 ( 弟が中心 ) が、友人の手に渡っている青木の絵の所有権を主張し始めていたことが書かれている。
つまり、青木の絵を金にしたいという遺族の思惑を恐れたという考えだ。高島宇朗にすれば、青木から受け取った絵は、認め合った者同士の友情の遺産であり、自分の持つ青木作品の確かな保護者が特定できない状況では、私蔵するよりよき道はない、という考えがあったことをこの著作から教えられる。

青木の主な友人たちの、没後の青木顕彰にかかわった心理を要約してみる。
1.愛郷心 自分の故郷から生まれた俊英を誇りたい気持ち 坂本繁二郎    ( 画家 ) 梅野満雄
2. 義憤 世間の常識を逸脱した破天荒な性格が、画壇での交流に支障を生じさせたばかりに、ときの画壇の実力者たちから正当な扱いを得ないまま、亡くなったくやしさがあり、それはともに貧苦を味わった友人であるために火のような激しさを持ち、青木画業の正当な評価を世に問おうとした ― 坂本繁二郎 ( 画家 )、森田恒友 ( 画家 )、政宗得三郎 ( 画家 ) 梅野満雄

高島宇朗は、それに比較してみると、浪漫思想に共感し、自分の詩作品を認めてくれた友人として、プライベートな関係の記憶にある青木繁が大切であった。
現在、世に認められていないから、作品を人の目に触れる場に出し、一人でも多くの者に見てもらうべきという、上に挙げた友人たちの考えは、我が党第一精神 ( 青木一派,、ここにありという自恃の心 ) とでも名付けられそうな、世俗的な行動原理によるものに思えたのではないだろうか。

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さて、時を遡ろう。青木繁はまだ東京にいたが、明治38年に結婚し郷里久留米に帰った宇朗が、どういう心境にいたかを見るのに格好の材料として、宇朗の詩集「せゝらぎ集/林泉共鳴集抄」( 昭和2年再刊版 ) 所収の詩に次の作品がある。

孤 雲              作・明治39年9月6日夜

都居の名なきにはぢて
帰りきしちとせの川辺       ( ※注   久留米市千歳川  )
そくばくの田、素壁の小屋        ( ※注 実際は林泉響と名付けた高島家別荘 )
身をよせて三年はへたり
草履はき園にくさぎり     ( ※注 家業の櫨の栽培作業をいう )
径を出て農者にはかり
蒔くべきをやゝ知りそめて
食をうるすべをならひぬ
昔日のこゝろあがりは
鎌揮ふ力に疲れ
語るべき友あらざれば
鬱ゝの木かげぞくらき
わが生のうもれを嘆じ
ひとりして野に立ち居れば
はるかなりる脊振の空に    ( ※注 地名 筑後脊振山系 )
ひとつ雲しずかにゆけり

そういう心境で、家業のひとつであるはぜ栽培に日を過ごしている明治40年8月、青木繁が父の危篤により久留米に帰って来る。
同年、東京での勧業博覧会出品の力作「わだつみのいろこの宮」の結果も期待したものとは大きく異なり、失意憤慨のさなかの帰郷である。しかし父亡きあとの青木家を支える経済力を持たない繁は、一族の期待に応えられない苦しさから、すがるように旧知の高島宇朗の住居に入り浸る。
その当時の青木の姿を、後年宇朗は書いている。以前の記事、「寂しき友情ー高島宇朗の青木繁追想」に紹介した文を再掲する。

青木繁 素描「晩照」の解説抜粋     文・高島宇朗

肥前を境ふ脊振山堆にかかる一抹縹渺 (ひょうびょう ※ぼんやりしたさま) の煙霞、今夕照に轉 (てん) じて、ただ頂線を轄 (かつ) し乾坤 (けんこん ※天地) を頒てる面巳 ( ※在り様)。       ―(中略)―
明治四十年、晩秋初冬の交 (まじわり) か。
草居 ( ※宇朗の住まい) に留滞し居りし彼、一人にては例の所在なく、連日人を雇い「櫨 (はぜ) ちぎり」を督せし宇朗が身邊に來たり、焚火に黨たり、雑談し、寫生をし、興を惹き得てものせしところ。
蒼茫 ( ※あおあおとして、はてしなく広い処) 吹き徹す、一官 ( ※台湾の民族的英雄の名 天才的人物)、裏宇獨孤の情。彼が簫簫 (しょうしょう ※もの寂しいさま) たりし黨日の癨瘁 (かくすい ※疲れた様子)、今眼中に甦現(そげん ※甦り現れる) し來 (きた) つて、萬感そぞろに堪へざるものがある。

ここには、上に掲げた宇朗の詩「孤雲」の姿が、重なり合って見えている。
宇朗の実家の本業は酒造業である。本業は弟に譲っているとはいえ、勘当になっているわけではなく、家督制度が強固なこの時代、高島家長男としての立ち位置は保っていたと思われるから、酒に事欠くことはない。酒を実家から運ばせて、自由人ふたりがおそらく昼間から飲み合っているのだから、はた目から見れば始末が悪い話である。
「寂しき友情ー高島宇朗の青木繁追想」の記事の中でこうも書いた。「固くつながり合う要素が、二人の性格の中にあったと思う。しかし、違う角度から二人を眺めると、宇朗は詩に、青木は絵画に、確かな生活の糧を得る途を得られなかった、不器用な不成功者 ( あえて言えば、受け入れてくれない世への拗(す)ね者 ) として、傷をなめ合った仲とも言える」
宇朗が、東京美術学校の学友などの画家仲間とは違う交わり方をしたことが感じ取れるであろう。

宇朗の実弟・三郎を紹介した紳士録 高島家戸主は次男賢太とある
宇朗の実弟・三郎を紹介した紳士録 宇朗は分家した記載がある
宇朗の実弟・三郎を紹介した紳士録 宇朗の暮らしについての記載がある

明治41年10月、一家の経済立て直しに万策尽きた青木は久留米を出て、熊本県、戻って久留米、さらに佐賀県など、死にまっすぐにつながってゆく放浪を始める。宇朗の方は、明治43年(1910年)久留米の名士だった父善蔵が病死する。享年62歳。
前回の記事で述べたように、家業の酒造業は弟の賢太 ( 明治13年生まれ ) が継ぎ、三十歳を超えていた宇朗は、地元の梅林寺で本格的な参禅に没頭する。
早稲田大学名誉教授 川崎浹氏のブログ記事『過激な隠遁 高島野十郎伝』「第一章 一枚の絵の発見」によれば、宇朗はその参禅の瞑想の中で、過去に見た阿蘇山のイメージが浮かび、我が身もろともに噴火爆裂するといった異常体験を味わう。「五臓六腑、髪毛爪歯、内外あまさず(省略)身も心も脱け更った」と「入定(にゅうじょう)」の境地に至ったことを、後年の出版である詩集『虎斑集』において宇朗は述べている。
また、明治40年には、竹やぶで笹の葉を刈っている最中に、身体感覚がなくなり、手が自分の意志とは別に勝手に鎌を動かし始め、それが三度も繰り返されたという体験があったこと、それは後日も再現されたことも述べている。
こういうエピソードなどから、流浪の詩人僧侶人生と言っていい宇朗の変遷の根にあるものが見て取れるだろう。自分を制御しきれない熱の人、青木繁とどこか重なり合うものが感じられる。

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                   令和5年6月   瀬戸風 凪                              setokaze nagi











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