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ワタクシ流☆絵解き館その50「如己愛人」永井隆の熱い心

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上の図 永井隆の書「如己愛人(にょこあいじん)」
下の図 永井隆著「この子を殘して」永井自身による挿絵
    1948年(昭和23年)出版 大日本雄辯会講談社

永井隆は本業は医師。長崎医大に勤め昭和20年8月9日、診察室で勤務中に被爆し、重篤な原爆後遺症を発症した。しかし戦時中に結核のⅩ線治療に従事していたことで、すでに昭和20年6月 には放射線被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受けていた。専門知識から残存放射能の影響を知りつつも、また被爆による重傷の身を顧みず被爆者救護に尽くしたが、病が重くなり、医師としての活動が出来なくなってからのちは、長崎市浦上の人々が、先生のためにとの思いで、焼け残った材木を集めて作った2畳1間の小さな家において、被爆の実状を記録した著作活動に専念。『長崎の鐘』『この子を残して』などを出版。1951年死去、43歳。無名の多くの人々を愛し、愛された生涯であった。
永井隆のようには名を残さないが、人間愛による同じ献身が、被爆後の広島、長崎にはあったことにも、思いをはせたい。
掲げた絵は、余命を宣告された身で案ずる我が子への思いが、心に響く。
筆者が、彼の業績と、どれほど故郷の人々に敬われ、今日なお人々を感化し続けているかを知った恥多きいきさつを述べた詩を載せて、永井隆博士への尊敬の情を伝えたい。

信念の言葉               瀬戸風 凪

ステージの上にある扁額(へんがく)の文字を
私は隣の席の人に尋ねた
―「如己愛人(にょこあいじん)」という永井隆先生の言葉です
―己(おのれ)の如く人をも愛す
永井隆の故郷の町に来てある会に出ていながら
彼の信念を射止めた言葉を
私は全く知らなかったことを内心で恥じた

会の中では小学生が何度もこの言葉を口にした
「如己愛人」の精神で…と
この町の児童たちは故郷の偉人の話として学ぶ
長崎で被爆し原爆症で亡くなる身でありながら
残された時間のすべてを医師である自覚から
被爆者の治療と
被爆実態の訴えに捧げ尽くした永井隆の生き方を…
(永井隆先生と同じ町に生まれた)
それを誇りとするこの町の人々の心構えの
何と清くすばらしいことだろう

「如己愛人」と
私は何度も胸の内で繰り返していた
読みを尋ねられたこの町の人の
内心の驚きを思いながら

永井隆の名さえも
私のまわりでは誰も知らない
エノラゲイやリトルボーイなら
多くの人が何の呼び名か知っているのに…
被爆地ヒロシマを喧伝(けんでん)する県に生まれ育ちながら
私もまた彼の名をただ単に知るにすぎなかった

破綻(はたん)した人間の理性を取り返す力があるとすれば
その対極の行為
無私の献身しかないことを
余命を削って示した熱い心の人―永井隆
その愛の痛切さを思わずして
何も始まらない


     

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