ワタクシ流☆絵解き館その214 広島城の守りを素人目線で考える
先ず初めに、私には城の構造について深い知識はないことを断っておく。城に深い知識を持っている方にすれば、小学生レベルの解釈になっているだろうと思う。
以下は、タイトルとおり素人目線で考えたことながら、広島城の絵図を見つつ、防御について気づいたことを述べたい。
■ 縄張りに、備後三原城に似た点がある
下の図版は、備後三原城絵図。小早川隆景の居城だ。黄色の実線は、多門櫓 ( ※下の写真を参考に ) がならぶ位置。ここから眼下に迫った敵に一斉射撃をし、前進を阻む防御機構だ。
三原城の本丸二の丸一体構造の城内は、ぐるりと多門櫓と城門で囲み、三の丸 ( 三角形の曲輪 ) や、城の出丸といえる築出し ( 三原城の船入櫓に対面する部分の名称 )は、この多門櫓に面前するように配置されている。
敵が陰に隠れる場所を与えない。そして守備側から見通しのいい構造にしている。
城を大軍で囲まれたとき、持久戦に持ち込まれる前に、相手に無理押しさせ、そこをたたいて兵の消耗度合いを高めるというのが、攻城戦を勝ち抜く守備側の鉄則なのだから、本丸二の丸三の丸の外の曲輪は、敵を分散させないための誘い込みの場所とも言える。
各所守備に追われていては、やがて守備側が先に消耗するのだ。
三原城のその構造が、広島城にも見えて来る。下の図版は、三原城との対比でわかりやすく見えるように、広島城の南北を逆転させている。
広島城でも、黄色の実線で示した部分、多門櫓を真っすぐに並べ、外側の侍町 ( このエリアも城内 ) に敵を集めて銃撃砲撃で一挙殲滅する意図みが見える。極言すれば、絵図にある侍町までは、敵の侵入を許しても、それを逆手に取る戦術思想なのだ。
広島城は三原城よりさらに大規模な城で、本丸は独立させているので、この企みが二重になっている。
繰り返すが、守備側から見て、敵の動きが見通せる縄張りになっているのが大きな特徴だ。銃弾が届く絶妙の距離を堀により作り出している。
一方的に銃撃できるわけではない。敵も銃撃してくる。しかし、相手が見えて、さらに下に向けて銃撃する方が圧倒的に強い。
さらに、二の丸を独立した「島」(馬出し構造ー図版の中で、Aで示した)にして配置しているのは、三原城において本丸へ通ずる西の門のある場所 ( 図版の中で、Aで示した)を「島」構造にしたのと同じ発想であろう。
役割は、城から打って出るときのバックヤードであるとともに、いったん城にこもれば今度は敵を囲い込み、銃撃効果を最大限にするために生まれた構造でもあるだろう。
■ 似ている理由ー小早川隆景とそのブレーンが広島城築城にかかわっている
広島城は1589年(天正17年)に着工、城主毛利輝元は、1590年(天正18年)に入城し、関ヶ原の戦いの前年、1599年(慶長4年)に竣工されたようだ。
一方三原城は、1567年(永禄10年)頃から、築城が始まったとされている。その築城主小早川隆景は、1597年(慶長2年)に三原で没しているから、広島城がほぼ完成するまでの間と時代は重なる。毛利氏を支える実力者として、毛利輝元を補佐した小早川隆景とそのブレーン ( 主として浦宗勝 ) が、築城の基本構想に参画したのは必然であろう。
そして三原城で試みた仕掛けを、平城用に、援用拡大して生かしたと考える。
■ 多層に設けられた堀は、水害対策だろう
広島城の絵図を見て、大きく目立つのは、南北での堀の配置。数と形状の違いだ。北側の方が、堀が入り組んでいて、トータルの堀の面積が大きい。
( 絵図では上側になる ) 北側のこの縄張りは、防御面では多方面に守備の兵を配する必要があるため、合理的とは言えない気がしている。やたら堀をあちこちに造るのは上策とは言えないのではないか。
では、北側の堀が多く、面積が大きい理由とは‥‥。
こう考えるしかないと思うのだが、それは広島城の東西を流れる川の氾濫を想定して、もし氾濫しても、どうにか水の流れを留めるための、いわば一時的な貯水プールを造っているということだと思う。
下の部分図を見てもらうと、東西両側の川に近接するように、堀が伸びているのがわかるだろう。
■ ではなぜもっと川から離れた場所に築城しなかったのか
城の東側で大きく曲がっている川は、三角洲である広島を流れる主要な川である。当然、氾濫のリスクを孕んでいる。平城は、城の周囲に重臣たちの屋敷を並べるので、氾濫すると城下が壊滅状態になる。
よってそれを避けるべく、ここの堀の配置は、水流の勢いを弱め、かつ城内まで浸すことを防ぐ構造になっていると思う。( 専門家ではないので、力学的な説明は出来ないが )
そのイメージを下の図で示した。
広島は三角州の場所であるから、河川氾濫の危険は避けられなかった。近代に入り、放水用の大規模な河川工事を施し、市中の河川氾濫を防止できるようになったが、中世近世では、河川氾濫が当然あり得るものと考えるべき町だった。
広島城築城にあっては、どこに居を定めても、川近くに築城せざるを得ない地理的条件が持つリスクであった、氾濫した際の水を制すること、先ずそれが大命題であった。
令和4年12月 瀬戸風 凪