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俳句のいさらゐ ◙◈◙ 松尾芭蕉『奥の細道』その六。「世の人の見付ぬ花や軒の栗」

🌕 旅から帰ると芭蕉は隠棲した

⦿ 幻住庵―隠棲を望んだ芭蕉

元禄2年、芭蕉は奥の細道の旅を終えたのち、俳諧宗匠として住むべき地であるはずの江戸には短期間戻っただけで、翌元禄3年、近江国膳所の有力門人菅沼曲水の世話で、曲水の伯父の山中の別荘であった小庵、幻住庵 ( 現・大津市 ) に棲んだ。隠棲の願望があって、それを信頼する菅沼曲水に告げていたものと推察する。隠棲は1690 ( 元禄3) 年4月6日から7月23日に及んだ。

曲水は、師の心情を汲み取って、荒れ果てていた幻住庵を住まいとして整える費用を、自前で出したのではないかとも思う。その理由は、芭蕉は幻住庵暮らしのあと、1692年、最終的には江戸に帰るのだが、その棲家芭蕉庵も江戸の門人たちが用意したところから考えても、経済力のある有力門人の間で、師の暮らし向きの世話をするのは、有力門人たる証のようになっていたと思われるからだ。関西での暮らしの基本は、徳川譜代膳所藩の要職にあった曲水が中心になって支援していたのは間違いないだろう。

⦿ 『奥の細道』の旅で芽生えていたもの

短期間に終わったが、この隠棲を決意させたひとつの要因が、今回取り上げた
「世の人の見付ぬ花や軒の栗」
にこめられた思いであると感じられる。
芭蕉は、幻住庵に棲むについては『幻住庵の記』という俳文を書いているが、隠棲へのひそかな決意の芽生えが、『奥の細道』のこの句にあると思う。
以下『奥の細道』より掲出する。

此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られてものに書付侍る。其詞、
   栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと行基菩薩の
   一生、杖にも柱にも此木を用給ふとかや 。
                  世の人の見付ぬ花や軒の栗

松尾芭蕉『奥の細道』より
谷口蕪村 著 逸翁美術館所蔵 「奥の細道画巻」より 世の人の見付ぬ花や軒の栗

⦿ 一人の人物との火花のような出会い

「此宿」は、芭蕉が、太陽暦で6月9日から7日間も宿泊した須賀川 ( 現・福島県須賀川市 ) の相楽等窮の屋敷。相楽等窮はこの地方を代表する俳人。手厚く芭蕉曽良をもてなしたのだろう。7日間というのは、引き留められるままに、当初の考えより少し長くいたのではないだろうか。
「世をいとふ僧」は、その屋敷の一隅に庵住まいをしていた。滞在中芭蕉は相楽等窮に紹介された俳人でもあるその僧と、庵で楽しい時間を過ごしたようだ。
「橡ひろふ太山もかくや」というのは、西行の歌
「山ふかみ岩にしだるる水ためむかつかつ落つる橡ひろふほど」(山家集1202番)
を引用している。調べて見ると、この歌を喩えに引くほどには、相楽等窮の屋敷は人里離れてはいない。『奥の細道』を起伏ある紀行にするための、構成上の文飾と言える。西行の橡の歌を出して来たのは、栗の木から橡の実の連想があったからだろう。

名は伏せられているこの「世をいとふ僧」は、名を可伸という。俳号は栗斎。おそらく浮世の欲を捨てて生きる清淡虚無な言動に、芭蕉は数日のうちにすっかり魅せられたのではないだろうか。句の意味は、こういうことだろう。
栗の花は愛でて美しいものでもなく、世の人が軒先には植えないものを、名僧行基に倣い栗の木を植えておられるのは、名利を顧みない清々しさで、何とゆかしいことであろう。
なお、この句は『奥の細道』に入れた句とは一部異なるが、可伸の庵で催された七吟歌仙の際に出したものである。

谷口蕪村 著 逸翁美術館所蔵 「奥の細道画巻」より 芭蕉と曽良

🌕 棘 (とげ) ー旅に見た光景の呪縛

奥の細道の旅を終えても、「世をいとふ僧」=可伸の面影は消えず、強い慕わしさが付きまとっていたのではないかと思う。
それは羨望でもあり、焦燥でもあり、忸怩たる思いでもあり、もっと言えば棘でもあっただろう。そんな強い感慨を可伸から受けていたのなら、『奥の細道』の句の前書に、もっと可伸の人となりを書き添えるだろうと言われるに違いない。
しかし、『奥の細道』は、身辺の事象や感懐を述べるための俳文ではない。一句の力によって風流の心を伝えるのが、芭蕉の本念である。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
可伸の精神性への肯定の思いと、そして己の生き方への自らによる𠮟咤の両方を表現するのに、この句だけを示したのだ。その深い思いを読み取るのは読者の感性である、という芭蕉の厳しい姿勢がそこにあるのではないだろうか。

1965年 保育社「奥の細道 (カラーブックス)」より転載 相楽等窮の屋敷

⦿ 出家への見果てぬ願いー『幻住庵の記』の記述

芭蕉は幻住庵に棲んだ一部始終を、『幻住庵の記』という俳文にしている。上に述べて来た芭蕉の隠棲願望を思いながら、その『幻住庵の記』を読んでいると、目に止まる一節があった。

一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる

松尾芭蕉『幻住庵の記』より 部分

文中の「佛籬祖室 ( ぶつりそしつ ) 」とは、禅宗の仏門のことである。「たどりなき風雲に身をせめ」は、それまでの漂泊の旅をいう。中でも、直前の奥の細道の道々の光景が強く念頭にあったはずだ。漂泊の旅を続けているうちに、出家の志も忘れ果ててしまった、という慚愧の思いをのぞかせている部分である。

栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと行基菩薩の一生、杖にも柱にも此木を用給ふとかや 

という『奥の細道』の方の前書きは、栗の木を象徴的なものとして語りながら、僧侶となって暮らしている可伸と、名僧行基が精神の上でつながっていると感じ入ったことを示しているわけで、僧の身になって隠遁したいと考えたときもあったという『幻住庵の記』の芭蕉の述懐につながっている。

🌕 『幻住庵の記』と『奥の細道』は同時進行で書かれたか

⦿ 谷の清水にまつわる西行の歌

「橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られて」という『奥の細道』の記述は、西行の歌
「山ふかみ岩にしだるる水ためむかつかつ落つる橡ひろふほど」(山家集1202番)
を引いていることは先に述べたが、隠棲を思う芭蕉の心には、谷の清水が象徴的に浮かぶようで、『幻住庵の記』には、こういう一節がある。

たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの雫を侘びて、一炉の備へいとかろし。

松尾芭蕉『幻住庵の記』より 部分

この一節の「とくとくの雫」もまた、西行の歌
「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」
から言葉を引いてきたものである。『奥の細道』の須賀川での可伸との出会いの場でも、また旅から帰ってからの幻住庵隠棲においても、谷の清水にまつわる西行の歌を思い浮かべているのだ。

またこの歌を本歌として、芭蕉は『野ざらし紀行』で
「露とくとく心みに浮世すゝがばや」( 『奥の細道』の旅より前 貞享元年、芭蕉41歳 )
と自分の句を重ねて詠んでもいる。
この句の前書きには、「西上人 ( 西行のこと )の草の庵の跡は、奥の院より右の 方二町計わけ入ほど 柴人のかよふ道のみわづかに有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼のとくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ける」とある。芭蕉の最も言いたい気分は、詫び住まいを「いとたふとし」と述べた処にある。

⦿ 栗の木と椎の木

谷の清水の共通点から見て、『奥の細道』の須賀川での可伸との出会いで、芭蕉はこの歌 ( とくとくと落つる岩間の‥‥ ) をも胸中に蘇らせていたと想像できるであろう。そこから推測されるのは、幻住庵において、『奥の細道』の須賀川 ( 可伸との出会い ) の部分を推敲しながら、『幻住庵の記』も同時に筆を執っていたのではないかということである。
『奥の細道』の方は、可伸の心中に深く入り込む描写はあえて避け、しかし隠棲への思いは、それを主題とした『幻住庵の記』の方で、過ぎし日の可伸と交わした会話も思い浮かべながら書いていると思えて来る。

そして最後に芭蕉は
先づ頼む椎の木もあり夏木立
の一句を添えている。
この句を推敲する芭蕉の胸中には、可伸の小庵を覆うように伸びていた栗の木のイメージが重なっているように思う。椎の木の花もまた、栗の花同様、美しさを愛でるという類のものではない。
芭蕉の内心は、われもまた「世の人の見付ぬ花」を暮らしの慰めとして、隠棲をしばらく楽しんでいますよと、一期一会の出会いであった可伸に告げたい思いがあっただろう。
そんな気がする句の仕立てである。

              令和6年2月       瀬戸風  凪
                                                                                               setokaze nagi


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