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ワタクシ流☆絵解き館その173 備後三原城絵図から見えて来る縄張りの秘密(船入櫓編)。

■ 備後三原城の縄張りは、戦国の世を前提にしている

備後三原城の名を知らしめているのは、ふたつの要素である。
① 豊臣家五大老の一人、小早川隆景が築城した居城として。
② 海に南面し、満潮時には海に浮いているさまに見えた浮城として。

そして備後三原城の性格は次にあげる事柄に集約される。
① 小早川隆景は戦国武将で生涯合戦続きだった。ゆえに城は、戦国の城。② 実戦を想定して、平城ながら盤石の縄張りがなされている。
その視点から、筆者の考える防御面からの備後三原城の姿を、解き明かしてみたい。
下の図は三原市が作成している、現在の同地の地図の上に、かっての城の構えを重ねた比較図である。

■ 敵はどこから来るか。川はなぜ河口部で曲げられた?

敵がどの方面から来るか。先ずそれが防御を考える上での大前提。上の図で、敵進路を赤い矢印A、Bと想定して記入した。
〇 敵進路Aは、山陰方面から中国山地山間を縫って来る川沿いの道。
〇 敵進路Bは、山陽道上方(大坂)方面から備前を経由して来る西国街道。
 三原城築城時点で想定された最大の敵は、中国支配を目論見始めていた
  織田信長。

図で言うと、左側の方面は、遠く下関まで毛利家の支配地域で、こちら方面から攻めて来る敵は先ずいないと考えてもいい状況だった。後背は山。前は海。備後灘一帯は当時、村上水軍を取り込んだ小早川海軍の支配域。
となれば、山陰道を通って中国山地を南下する軍勢と、山陽道を真っすぐに来る軍勢が、迎え撃つべき敵と考えられる。
つまり、最大の防御ポイントは、城のほとりを流れて来る川 (和久原川) が海にそそぐ辺りになる。築城に当たり、河口を出丸と堀で遮り、大曲りに流れを変えている。
ふつう、これは洪水による城内への被害と、川の運ぶ土砂の堆積を回避するためと解釈されるが、筆者は、もうひとつ、防御の面から積極的な意図があると思う。

■ 敵軍勢への水攻めの戦法

なぜ、川の流れを急角度で曲げ、さらに、川と並行して堀を築いたか。その理由として、敵勢への水攻めの戦略があったからだと思う。
図を眺めてほしい。進んできた敵勢がもっとも犠牲少なく入り込めるのは、城の出丸といえる曲輪 ( 三原城の絵図では築出しという名称―以下出丸と呼ぶ ) と見えて来る。堅固な、街道門や城門を突破せずとも、大河ではない川を越えれば、出丸に入り込める。
城攻めの軍勢が来襲し、やがては出丸を占拠するであろうその軍勢を想定して、機を見て堀と川を隔てる堤を、城の内側三の丸からの砲撃により、守勢側自らが突き崩す。防御機構の一部を破壊するという緊急の手段だ。
この堤のあった場所は現在、川側方面の片側だけ残っているが、現地で見ると、大規模な造作のものではない。絵図にあるとおり、川土手を石垣で築いているだけのものだ。集中砲撃によれば、短時間で突き崩すのは充分可能であろう。

突き崩せば、川の水は当然、真っすぐ流れ出すだろう。そして堀に水は入り込み、やがてあふれ出して、出丸を水浸しにする

慶応年間備後国三原城絵図より 中央部分

足元を水にすくわれ、身動きがままならぬ敵勢に、船入櫓から一斉射撃。
出丸の方が船入櫓より低い位置にある。上から撃ち下ろされるのだ。現在残る船入櫓址から出丸址方面を見れば、出丸址のほぼすべてが一望出来る。
さらに、敵は水に浸った出丸占拠をやめて、西国道側からの攻城法に変更するだろう。しかしそれは、城側の計算の内である。

■ 防御面で重要な役割の船入櫓と偽装天守台

船入櫓とは、敵が海から来る見張り処でもなく、荷の運搬の出入りの目印になる灯台のような役目を持つ場所でもなく、敵を誘い込んでおいて川堤を破り、水を引き込んだ上で、一斉に銃弾を浴びせるための銃撃台としての場所である。
城内において、船入櫓の先端より高い場所は、天守台しかない。天守台から、船入櫓周辺の様子はよく見渡せる。天守台が司令基地になるのだ。
三原城の天守台は日本最大の規模であるが、天守は造られなかった。作ろうとした計画もない。
天守台を造りながら、天守を置かなかった理由として、築城の完成を見ないまま、小早川隆景が没したせいだと解釈されるが、豊臣家大老となった時点で、秀吉のご機嫌取りをする気があれば、秀吉好みの壮麗な天守を、何よりも優先して建てられたはずだ。経済力もあった。
徳川の世となった江戸の初期の天守などは、数か月で作っている例もある。
いつ戦国の炎が再燃しないとも限らない不安定な世と判断し、あえて造らなかったと見るべきだ。
見せかけ天守台を造った時点で、防御面で天守台が果たす役割は満たしていると、隆景と重臣が考えたと見るのが妥当だ。
つまり、天守は積極的には造る気はなかった。防御の視点から見た天守台の役割、それを続編で語りたい。
                     令和4年8月    瀬戸風  凪



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