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ワタクシ流☆絵解き館その256 青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ⑦ 戦時下

1934 ( 昭和9) 年7月13日、高島宇朗の二女満兎は、労働者農民の人権確立をめざす先鋭な共産主義活動が検挙の対象になり、特高により踏み込まれて逃げようとした際の事故がもとで、24歳9ヵ月の若過ぎる命を終えた。
それからの日本が、国家の政策に異を唱える者を許さず、軍国主義国家として破滅の歴史を歩んだのは、後世の者には周知のことである。そういう時流の中、高島宇朗が、満兎の没後数年どういう生活をしていたのかは調べがつかなかった。
このシリーズ記事で一度紹介したが、昭和12年3月作の青木を偲んで作った詩を再掲する。貧しく時間ばかりがあり、亡き友のことが頻りに思われる、という心境であろう。

  貧なるが故に閒なり        詩・高島宇朗

  貧 なる が 故 に
  閒(かん) なり

  閒 なれ ば
  物 しづか なり
  小室 の 壁 の 上 なる
  青木繁 が 遠山 の

  紫靉(しあい) に けむる 月かげ も
  また はるか なり
                  昭和12年3月17日前10時杲室作

高島宇朗著 昭和62年 創芸出版「止息滅盡三昧 詩」より

時間は飛ぶ。やがて昭和16年に、宇朗は鎌倉建長寺に禅の修行のため入山した。このとき宇朗の年齢は63歳。調べてみるとデータのある戦後の昭和25年の時点で、男の平均余命は60歳である。昭和16年当時としては、それを超える年齢であり、余命を感じとりながらの改めての発心と言っていいだろう。
ただし、憑かれたように無謀な戦争へと転がり落ちてゆく昭和16年の時代状況を鑑みれば、仏門の徒ではあっても世に吹き荒れる熱とは無縁の状況で、参禅三昧の暮らしをしていたとは到底思えない。仏教界もまた、大政翼賛に寄与する組織たることを要求されていたのは自明である。いわんや国家が、鎌倉五山第一位の名刹である臨済宗・建長寺派の大本山建長寺に求める役割は重要だった。

1941( 昭和16 ) 年5月には、大政翼賛会 ( 総理大臣の掌握する組織 ) の主導で、大日本宗教報国会が設立されている。初代理事長は千家尊宣。大日本仏教会、神道教派、日本基督教連合会の三団体が賛助団体となった。
当時、禅の教えが、軍人精神、愛国主義の涵養に積極的に用いられ、名のある僧侶たちは、愛国精神の鼓舞を目的とする講演会の講壇に立っていた。禅や禅宗と言えば枯淡の境地とか、深い精神性とか、人の心に安寧を招来する力についての面が取り上げられるが、戦前において、禅宗が挙国一致の国の方針の下に、どんな布教・教宣活動をしていたか、その実情は余り語られず、近代日本において、禅宗が戦争協力をして来たことへの反省がはたして充分になされているかという疑問が、今日にもくすぶり続けている。

仏教界の指導者たちには、国家権力の圧倒的な力に従う以外、宗門の維持が困難な、止むを得ない選択であったかどうかはさておいても、現在の目で分析すれば、仏教の戒を放擲し、戦闘による死に美名をかぶせ、戦場で一人でも多くの人を殺して死ぬのを法悦の如くに説いて、宗教の教義のもとに扇動したというのは順当な見方だろう。

鎌倉建長寺に入った宇朗が、そういう戦争協力の働きに具体的にどう加わっていたかどうかは調べ当たらなかった。しかし、彼の当時の精神のありどころを知る証左として、駒沢大学教授職( 昭和10年~昭和38年)も勤め、只管打坐 ( 「只管」とは、ただこれだけにひたすら集中するの意。打坐は座ること ) を実践した曹洞宗の老師沢木興道 ( 1880年6月16日 ― 1965年12月21日 ) に心服していたことがわかる詩を戦後に書いている。なお1878年生まれの宇朗の方が興道より年上である。


梅林寺境内の江南山梅林寺縁起

沢木興道と宇朗のつながりには、興道より4歳年下ながら興道と親密な交際のあった加藤耕山 ( 明治9年生まれ~昭和49年没  臨済宗僧侶 ) が介在しているかもしれない。
加藤耕山は1914 ( 大正3年 ) 9月19日から1919 ( 大正8年 ) 2月18日まで、宇朗が仏門に入るきっかけとなった久留米の梅林寺僧堂におり、その後1931  ( 昭和6 ) 年まで、同じく久留米の穂徳寺の住職をしていた人物だからだ。推測だが、昭和4年頃までは久留米にいたであろう宇朗が、梅林寺にしばしば顔を出していて、そこで相見知った可能性は高いと思うからだ。
加藤耕山は、1895( 明治28 ) 年から3年間、東京哲学館(明治36年より私立哲学館大学となり現・東洋大学)で学んでおり、両者の修学時期は重ならないが、お互いに同学の親しみもあったに違いない。

  沢木興道老師に
                    沙門通達  高島宇朗
  
       第一
     
       詩にも
    書にも
  
       わが 這箇 ( これ ) を
     みて

       よろこべる
       君を知り得し 今生の
       おもひで を
      
       おもひで に
       しるして おくる

        第二

     「かんがへるから いかぬ」と いひし
       あるときの 君の ことばの

        月のごと

        われの おもひ に
        照れる よひ あり

        第三

        南なる 
        山に かくれて
        咲ける 白

        紙に 
        まき やり

        東なる
        都の 春の 晝に ある
        君が あたり に 
        匂はしむ 

昭和22年8月 中央仏教社発行雑誌「大乗禅」第9号より

宇朗が詩で讃えたかった沢木興道という人物について、私はほとんど知識を持たないが、調べてみると、曹洞宗を代表する大きな存在であるがゆえに、先の大戦下において、戦争協力となった言動があったことを批判する幾人もの指摘が見られる。私は読んではいないが、ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア著「禅と戦争 禅仏教の戦争協力」( 1947年 中央仏教社刊 ) は、その代表的な著作という。

批判されている行為の一例を挙げれば、「念彼 ( ねんぴ ) 天皇力」、「念彼軍旗力」という発言である。観音様は、苦しみや死の苦難が訪れたとき、最後のよりどころとなり、あらゆる功徳を持ち、慈悲の目をもって人々を眺めている。観音様の優れた力は、どんな所にでも現れて、いろいろな神通力と方便によって苦しみを滅ぼしてくれる。それを「念彼観音力 ( ねんぴかんのんりき ) 」といい、手を合わせただ観音様を念じるべし、と教える。
その「観音」を「天皇」「軍旗」に置き換えて、大衆を説いたというところに、人道的立場からの反戦意識を禅宗の指導者たちが持ち得なかったと見ざるを得ない。どのような教義を組み立てようが、実態は皇道仏教と呼ぶべき、本来の宗教精神とは非なるものであった。

そういう批判の対象となる面もありながら、その生涯を見渡してみれば、沢木興道という人物は仏協界において多くの後進を薫化し、大きな影響力を持っていたことが知られる。高島宇朗もまた、沢木興道に心から引き付けられていたことを、上に掲げた詩は示しており、挙国一致体制の中にがっちりと組み込まれた一人であっただろう。

宇朗の実弟が現在名を高めている画家高島野十郎であることは、この小伝シリーズ記事で述べたが、旺盛に描き続けていた野十郎充実期の作品群が、全幅の信頼を置いていた兄、宇朗の手元にあったことが想像される。
その高島野十郎の作品を、鎌倉建長寺に入山とともに、あるいはこの後、宇朗長女、( 嫁いで田場川 ) 斐都子に渡したのではないかという想像もまた可能だ。
「傷を負った自画像」大正3-5年頃(1914-16)「絡子をかけたる自画像」大正9年(1920) 「田園風景」昭和5-8年頃(1930-33)「修道院」昭和5-8年頃(1930-33)など代表作を含むと言っていい絵画が、後年田場川斐都子氏により福岡県立美術館に寄贈されているからだ。

高島野十郎「修道院」油彩 昭和5-8年頃(1930-33)福岡県立美術館蔵

しかし、青木繁の作品の方は持ち続けていたようである。ひとつの証しとして、建長寺入山を人生のひと区切りとしたい気持ちからであろうと思うが、昭和16年8月発行の「みづゑ442号」において、「青木繁畫 無背窟蔵品附説」とした記事を発表し、所蔵している素描・油彩類を掲載した。秘蔵していた青木の作品を世に伝えたわけで、画壇、美術界に驚きを与えることになった。

青木繁 素描「晩照」 高島宇朗所蔵品 色鉛筆 紙
昭和16年8月「みづゑ442号」掲載図版
青木繁 素描「疎林晩歸」 高島宇朗所蔵品 鉛筆・紙
昭和16年8月「みづゑ442号」掲載図版  

また戦後になるが、1948 ( 昭和23 ) 年4月に、京都の朝日画廊において「青木繁小品展」の名で、宇朗所蔵品としてうちわ絵など30余点を出品した記録がある。残念ながら、どういうものが出ていたかは調べ得なかった。なお、朝日画廊は朝日ビルの一階にあった美術部の売り場の一部を貸してもらって開設された、京都で最初の画廊という( 京都美術懇話会のブログ参照 )

                                                       令和6年1月                       瀬戸風  凪
                                                                                                       setokaze nagi

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