![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/115380620/rectangle_large_type_2_09f54b66617a7ad3677a7fd7b33d2e9b.png?width=800)
ワタクシ流☆絵解き館その241 青木繁の絵に感化され生まれた詩を読む part3
🔳 青木繁《わだつみのわだつみのいろこの宮》を映し出す 房内幸成 著 歌集『不知火』より — 地平社 昭和19年刊
房内幸成は、明治40 (1907) 年7月26日~昭和61 (1986) 年3月16日。文芸評論、歌人、ゲーテの研究者。群馬大教授、のち専修大教授。
下の歌の「赤玉は緒さへ光る」というのは、「わだつみのいろこの宮」の豊玉姫の詠んだ歌の一節である。
音高くさはぐ潮騒今もなお聞こゆるごとしいにしへ思へば
赤玉は緒さえへ光ると歌ひしにいのちの跡の消ゆる日あらめや
🔳 青木繁《海の幸》を映し出す前田夕暮 歌集『生くる日に』 ( 大正3年刊 ) 所収 「外海と岬」より抜粋
歌集『生くる日に』の挿絵(下の挿図)は、青木の友人坂本繁二郎による。
![](https://assets.st-note.com/img/1693867498117-iao25ZspC6.png)
日蓮の生まれし国の海岸に大魚かなしや血にまみれたり
以前の記事で紹介した前田夕暮の同歌集からの歌も再掲する。
けだものの肌なす岩に黒き腹見せて日向に海鮫死せり
大男二人してになひきたりたる大魚の長尾砂を擦れるも
大鮪網を体に巻きて漁師らの一列がゆく日の外濱を
腹白き巨口の魚を背に負ひて汐川口をいゆくわかもの
🔳《わだつみのわだつみのいろこの宮》を映し出す高藤武馬『沖縄游記』 より—古川書房 昭和53年刊
高藤武馬は1906年~1990年。広島県生まれで東京帝大卒。のち法政大学教授。同大名誉教授。国文学者。俳人。種田山頭火研究者。著作に『走馬燈 句集』古川書房1976年、『ことばの聖 柳田国男先生のこと』筑摩書房1983年などがある。
わたつみのいろこの宮の物語 水汲む仙女柳腰なる
🔳 青木繁《海の幸》《わだつみのわだつみのいろこの宮》を映し出す呼子丈太郎著『玄濤曲・詩歌集』より — 淑蔭山房 昭和42年刊
呼子丈太郎は、1908 (明治41) 年2月3日~1983 (昭和58) 年2月25日。長崎市生まれの歌人・中世・近世海外交渉史研究家。本名・呼子重義 (しげよし) 。歌誌「地中海」に所属。詩歌集として、『甲螺洞詩抄』『礎』( 昭28 )『さびしき人工』( 四季書房、昭28 )『玄濤曲』(椒蔭山房、昭42) 等がある。
![](https://assets.st-note.com/img/1693882969768-10p9aWJB5k.png)
松浦潟さすらひのうた 〈薄幸の画家 青木繁を憶ひて〉
われは病む身をさすらひの
旅に沁々 (しみじみ) おもほえば
こし方遠き日のなげき
知らずや少女ここになき
いろこの宮翡翠の壺
描くや夢に豊玉姫の
招く優しき微笑みも
消えては波の泡沫と
布良の砂浜雄の子らの
朝暾 (あさひ) に運ぶ海の幸
とよめき寄する潮騒の
鳴りなほやまぬこの胸に
黄金の香炉几帳のかげ
明け色冴えぬ牡丹花
伝ふ哀史の妙安寺
揺らぐ灯杳 (とお) きひとかなし
(以下省略)
🔳 青木繁の才能を高評価する作家今東光の小説『悪童』より
今 東光(こん とうこう ) は、1898 ( 明治31 ) 年3月26日生まれ.の天台宗大僧正、作家、政治家。
第1回文展が開催されたのは1907( 明治40 )年なので、 この設定は今東光の実体験に基づく話ではないが、1916( 大正5 ) 年には画家を志し、太平洋画会/太平洋美術会、川端画塾に通っていたことや、画家・関根正二との交友もあったことなど、同時代の画家たちへの関心は相当に深かった。
「海の幸」が、重文指定されたのは1967 ( 昭和42 )年、「わだつみのいろこの宮」が重文指定されたのは1969 ( 昭和44 )年、青木の業績を広くを世に知らしめた美術史家河北倫明の著作 養徳社刊『青木繁-生涯と芸術』の刊行が1948 ( 昭和23 )年なので、1958年出版のこの小説の一節は、かなり早い時期の青木繁への高評価と言える。
![](https://assets.st-note.com/img/1693867848112-1IbC16SSmO.png)
![](https://assets.st-note.com/img/1693868339798-LklKGcl312.png)
「あなたは美術学校ですか」
「そうだよ。美校の洋画科を出たのさ」
「美校はさすがに巧い学生が多いでっしゃろ」
「しかし天才は居るところじゃないよ。たった一人だけいたがね」
「へえ。たった一人だけというその人は何ちう人ですか」
「青木繁という奴だよ。こりゃ疑いもなく天才だね。全然独創的だったよ」
「はあ」
「文展の第一回展なんか悉く凡才の見本市だったよ」
「和田三造の《南風》の出た時でっしゃろ」
「ありゃ模倣さ」
と浜哲夫は噛んで吐き出すように言った。
「同じ年の東京博覧会にこの病める天才は、《わだつみのいろこの宮》という前人未到の世界を描いたのさ。比較するだに滑稽だが、青木の天才と南の凡才は、見る人が見れば一目瞭然だったよ」
私ははっと膝をたたいた。この《わだつみのいろこの宮》の澄明なほど青いトーンの中で、一人の女の淡紅色と一人の男の立像が頭に浮かんで来た。
「夏目漱石の『三四郎』にあの絵を見る場面がおましたな」
「そうだよ、あれだよ、漱石もあの絵には感心したんだろうな。誰だって魅力を感ぜずにはいられないだろうが」
![](https://assets.st-note.com/img/1693889947547-yiRblhwasE.png)
![](https://assets.st-note.com/img/1693888886636-GQ2VInBYhQ.png)
同書では、青木の当時の風貌についても記述している。おそらく、東光が絵を学んでいた若い日に、画家仲間のうちに伝わっていた話を、小説の中に描いたのであろう。
「肺病なんですか
「痩躯鶴の如しだね」
と彼は憮然として嘆息した。
「天才らしい病気でんな」
「才子多病っていうからね。青木繁は谷中の汚い車宿の二階に自炊生活をしていたんだ。ひどい貧乏でね。まったく食うや食わずの暮らしだったんだ。その車屋の親爺と契約して、学校へ行くのに彼奴はその親爺の車に乗って通ったんだ。車賃は出世払いと言う約束さ。教授だって大半はてくてく歩いているというのに、青木の奴は車で颯爽と風を切って登校したもんだよ。それにその格好が振るってたな。よれよれの浴衣を年中着たきり雀でね。それに絵の具だらけの小倉の袴を穿いていたくせに、どこかの古道具屋で見つけて来たシルクハットをかぶって威張っていたよ。それが彼奴の貴族趣味だったんだ」
令和5年9月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?