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詩の編み目ほどき⑮ 三好達治「谺(こだま)」前編

  谺 
                      三好 達治

  夕暮が四方に罩 (こ) め、青い世界地図のやうな雲が地平に垂れてゐた。   草の葉ばかりに風の吹いてゐる平野の中で、彼 は高い声で母を呼んでゐ
 た。

   街ではよく彼の顔が母に肖 (に) てゐるといつて人々がわらつた。釣針の
  やうに脊なかをまげて、母はどちらの方角へ、点々と、その足跡をつづけていつたのか。夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた。

    しづかに彼の耳に聞えてきたのは、それは谺になつた彼の叫声であつた      のか、または遠くで、母がその母を呼んでゐる叫声であつたのか。

   夕暮が四方に罩め、青い雲が地平に垂れてゐた。

1930 (昭和5) 年 第1詩集『測量船』所収

今回は、1930 (昭和5) 年刊行の三好達治第1詩集『測量船』所収の「谺」を読み解く。
以前の記事 (「詩の編み目ほどき⑤三好達治『昼の月』」) で、達治が自らの生い立ちを綴った『暮春記』を引いて、私はこう書いた。「谺」にも影を引いている出来事であろうと思う。再掲する。

『暮春記』執筆は、養子行きの一件での傷心を、悪く言えば内的衝動の結果であると糊塗することによって、自ら慰撫せずにはいられなかった営みであったと思う。
詩人には、幼少期の経験が、後年に始まる創作の核心になると思う。幼少期に、父母欠けることなく、その上さらに優しい祖父母や兄弟に恵まれ、その時代の庶民の取り得る穏やかな暮らしにあって、坩堝の中の発熱物のような激烈な思念に洗われることなく育った者は、先ず間違いなく詩人にはならない。
もしそのような生い立ちの者が創作として詩を選び、書き続けるエネルギーを保ち続けようとすれば、叛逆のように自虐を題材とした立ち位置をとることになり、そしてその観念性ゆえに創作は早々に行き詰まるだろう。
『暮春記』が、どれほど真実を吐露しているのか、どれほどの嘘を織り込んでいるのを知る手がかりはない。しかし、『暮春記』からわかるのは、達治が、幼くして自らの言葉で実家を離れる原因を作ったと感じとるような、一所不在の魂、安逸に浸り切れない性を持って生れついた自覚が、自分を衝き動かし、人生の行路を迷い多きものにしている戸惑いである。
私は、養子行きの件が残したその傷心ゆえに、この件は、達治が後年詩人として生きる道への出発点となった決定的な出来事であったと考える。

「詩の編み目ほどき⑤三好達治『昼の月』」より

「昼の月」と同じく第1詩集『測量船』に収められた「谺」もまた、幼い日に養子に出されたときの、深層の記憶が書かせている詩だと思う。
6歳の年齢での養子縁組みの顛末は、その際の父のことばを、達治35歳での執筆による『暮春記』に綴っていて、その心理を測り見る術はあるが、奇妙に思うのは、母親の方はこの件につき何と言い、どう思っていたのか記述がなく、その思いが伺えないことである。

戦前の事で、戸主の一存ですべてが決まり、母親は黙って従っていたと考えるしかないのかとも思うが、達治の随筆や座談を読んでも、母親が達治の養子行きについて断固拒んだり、あるいはたいへん悲しんでいた様子を感じ取ることは出来ない。すんなりと父の考えが通ったと考えるしかないようなのだ。

しかし、幼児の思いを想像してみれば、達治が書いているように本当に自分から行きたいと言ったとしても、引き留めてくれる母親の愛を心の底では望むのが、自然の情というものではないか。自分を愛し守ってくれるべき存在であるはずの母親の、養子行きに対する抵抗がないままに異郷に行かされた事実が、深い悲しみとして達治に宿ったのではないだろうか。『暮春記』に書かれた追憶の中の母の様子はこういうものである。

一つのことを思ひつくと、私はきつぱりかう答へた。
 ――行く……。
 ――行く? 行くのかい?
 ――行く。
 私は重ねてさう答へた。父は眞顏に聞いてから、初めて一寸笑顏をつくつた。祖母が私を手許に呼んで、同じ質問を繰りかへした。私はやはり行くと答へた。私の母は、この出來事の前後を通じて、相談に與つた樣子はなかつた。茶の間にでも下つてゐたのか、その時は、姿さへも見せなかつた。

三好達治 1936 (昭和11) 年『暮春記』より

さうして私の眼には、私の身のまはり、私の棲居や家族の者が、私にとつて魅力もなく希望もない、退屈なもの、つまらないもの、變によそよそしいものに思へた。眼の前の父の顏も、何か間遠いものに見えた。今のさきまで一緒に遊んでゐた兄弟達も、たまたま路傍で邂ぐり會つた半日の遊び友達、そんな風なものとしか思へなかつた。母もやはり私の心を惹かなかつた。

三好達治 1936 (昭和11) 年『暮春記』より

6歳にしてのこの虚無感は異様に感じられる。だが雑誌に発表しただけで、その後『暮春記』をどこにも収録せず、まるで読まれることを拒んだかのような達治の思いを想像すれば、自分では整理しかねている養子行きを肯った心情を、あえて作品化してみもたものの、やはり後追いの自らへの言い聞かせに過ぎないという嫌悪を覚えたせいではないだろうか。
しかし、「谺」の中の「夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた」という場面は、養子先の異郷の地舞鶴に行って味わった里心によって、大坂にいる母を追慕したであろう情景そのものと考えるのが、最もふさわしいと思う。

                この記事、続きは 後編とします
                令和6年5月                   瀬戸風 凪
                                                                                                      setokaze nagi


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