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Essay Fragment/日々のうた織り ② 新緑の押し葉

🔹押し葉

生物標本に接すると身がひるんで、一歩後ろに下がる気持ちが湧いてくる。
形というものは、昆虫標本でさえなぜこんなにありありと残るのだろう、いや、ありありと残ると感じていることが誤りで、形を見ているだけでは、生命の鮮やかさの本質は少しも見えていないのではないか、標本は精巧でも実は全く生物の存在を証してはいないのではないか、云々とやっかいな思いに捉えられる。
              ⁂⁂⁂             
二月の ( それも風花のちらつく日の ) 午後、雑記ノートをめくっていて、以前挟んでおいた新緑の押し葉に気づいた。新緑の押し葉もまた、時が古るに任せた植物標本のかけらだろう。新緑の色は沈んでしまった葉が痛々しく感じられもする。
新緑の輝きに魅入られるときの、あの陶酔とは、自然の萌え立つ生命感に魂が共振することなのか、あるいは視覚の麻薬作用なのかなどと、思いが淵の水のように回遊する。けれど新緑の対蹠にある二月の午後だからこそ、そして、その冬の眺めの中に置かれるから、新緑の輝きをなお親しく恋うのだ。
               ✧✧✧
五月には、新緑の輝きにあふれた山道を必ず歩く。木々の葉のあわいから、日の光の炎柱が幾筋もまっすぐに立ちあがる。ぼくの瞼 ( まぶた ) は、一瞬の異次元に吸い込まれてゆく。

写真撮影 瀬戸風 凪      撮影地 土佐四万十市

 🔹変身譚

ある絵画展会場で、ほんとか?と疑いたくなるような、けれどこれぞまさに鮮やかな、現代の日常生活の中の変身譚だとも思う立ち話を耳にした。けっこう周囲に聞こえる声でその話をしていた男性は、某絵画教室の生徒である。
話はその某絵画教室の裸体デッサンの授業でのこと。モデルが来られなくなって中止という話になったとき、それに反応して教室の生徒の一人の若い女性が言った。
― 私がモデルをしましょう
              ⁂⁂⁂
その女性が部屋を出て再び現れたときには、一糸まとわぬ姿だった。
― びっくりしてね 心臓どきどきよ  今まで隣にいた人がねえ・・・・・
女性はモデル経験もある人で、そう抵抗はなかったのか、あるいは、芸術至上主義で、恥じらいよりそちらが優勢という冒険精神の持ち主だったのか、その辺りの真意は、絵画展会場の片隅での立ち話がもれ聞こえて来ただけなので、部外者の私にはつかめなかった。
              ✧✧✧
私がその場にいたとしたら、という想像がよぎる。昆虫の変態を見るようなドラマチックな思いを持ったのか、それとも、思わぬ事態の展開に気を呑まれたままで呆然と絵筆を握っていただろうか。
中島敦の「山月記」にせよ、フランツ・カフカ の「変身」にせよ、変身譚の名作は、鈍色の悲哀が主調をなしているが、生徒から裸婦モデルへのこの変身譚は、サアーッと虹が架かったような明るさがあるのを感じていた。

                                                                       令和6年1月    瀬戸風  凪
                                                                                                       setokaze nagi


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