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ワタクシ流☆絵解き館その73 青木繁「秋聲」、気づかれないその真価。

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       青木繁 「秋聲」 1908年  福岡市美術館蔵

青木繁は、第一回文展の落選の不名誉を挽回すべく、第三回の文展に出品した。それが「秋聲」であるが、この絵もまた、展覧会場に並ぶことはなかった。青木が深く落胆したであろうことは想像に難くない。
そしてまた「秋聲」は、官展での入選という栄誉を欲して、画壇の主流をなす画風におもねった絵だというさびしい批評を、今日においても受け続けている。しかしそれは、一方では天才画家とあがめられることの反作用とは言えないか。
はたして、その批評のとおりの絵なのか、虚心に見つめ直そう。

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青木の談にこういう一節がある。
「私はどこの神話でも非常に好きです。スカンジナビアでもアイルランドでも往ってみたい。アッシリアよりペルシャより、やっぱりユダヤ(筆者注・キリスト教のこと)の旧約、インドのベーダが一番立派でしょう
このインドのベーダと言うのは、言い換えればヒンドゥー教の教えを説いた物語や絵画のことだ。青木は、キリスト教の宗教画とともに、当時盛んに紹介されていたヒンドゥーの絵画を(印刷物で)熱心に見たのであろう。上に掲げた絵などは、よく用いられるモチーフで、定番のシーンである。その情感を、意識して日本の風土に移し替えているようにも見える。

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静かなまなざしの婦人像が、第一回・第二回の文展入選作の中でも評判がよかった。それは絵画愛好者の、心の底流にあって今日まで続いている、美しく静かな絵を見たいという思いが導く結果だろう。「秋聲」もその思いを読み取って描かれた絵であるのは確かだ。
では、「秋聲」に、上に掲げた諸作品とは違う狙いがどこにあるかを見たとき気づくのは、日本髪に結った女でなく、解き髪の、当時ではこのまま人目に付く場所には出ないであろう姿で描いているということである。
二の腕を見せていることもまた当時の絵としては新鮮で、青木が、和装の若い婦人を描きながら、独自の、新鮮な印象を与えようとしていたと考えられるだろう。

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挿図④の絵が「秋聲」に与えた影響を、美術評論家高階秀爾氏が指摘しているが、その見方で考えると、挿図③の絵はそれ以上に、「秋聲」にインスピレーションを与えたと見えてくる。
青木は、東京美術学校で黒田に学び、黒田の主催する白馬会展に絵を出し続けた画家だった。
「秋聲」の前作「わだつみのいろこの宮」が受け入れられない結果となったことで、美術誌上を借りてまで、運営・審査につながる既成の大家たちを罵った青木であり、その対象には、当然画壇の先導者たる黒田も入っているわけだが、「湖畔」に代表される黒田の和魂洋才的な画情には、共感を持っていたことを「秋聲」は思わせる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という態度を青木は取らなかったと言える。
自分なら、こう描いて見せる、という自負心で真っ向勝負しているのだ。

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あの「海の幸」の画家が、こんな絵しか描けなくなっていったのかという、嘆息をつきたい思いを、多くの絵画愛好者が持つのはわからないわけではない。
しかしどうだろう。筆者には、奇を衒わず、同じ土俵で勝負してみせようという、言ってみれば絵に対して純朴な青木の心が、「秋聲」にはにじんでいると感じられるのだ。

                                                            令和3年10月  瀬戸風  凪

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