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哀愁のコミュニケーション


言葉にならないコミュニケーションが上手な人は、相手の心に奥深く、メッセージを伝えるとこができる。

様々なデイテールを駆使したり、他の物に代用したりすることで、自分の表現能力が鍛錬されるからであろう。

仮に、それがどんなに修羅場な状況においても、家族の食卓ような極めて心地よい、深い雰囲気を漂わせることもできる。

得てして、そのような人には、我々のような不器用者か? 芸術家のような器用者か?の境目がないが、はっきりしていることもある。

それらの多くに「哀愁」が漂うということである。

最近、若者たちが、しきりに口にする言葉がある。

それが、「エモい」

私も、新しいものが嫌いではないので、時より自分なりのタイミングを見定めて「エモい」である「武器」を使用する。

すると、途端に娘からの事細かい指導を受ける。

普段、私から娘に小言を言う時は、決まって馬耳東風で、聞いているのか、聞いていないのか理解不明であるのに!

それ程、この「エモい」には、とてつもなく、人の心を動かく力があるようである。

ただし、「エモい」も実は、「ミーム」のアルゴリズムである。

それでは、若者が「哀愁」を進化させたものが「エモい」なのだろうか?

実は、本日はこの「エモい」「ミーム」の視点から話そうとしたのだが、余りにも使い勝手がよく、何か良くわからない上に、既に「哀愁」の意味さえも踏襲してしまうような現代最強無敵の言葉「エモい」は、今の私ごときが簡単に説明できるものでなさそうだ。

かと言って、当然、「ミーム」の観点から見ても「爽快感」に匹敵できる「ミーム」のアルゴリズムなのは、間違いないのだが、もう少し「エモい」を、「ミーム」のお腹の中で十分発酵させながら、話したほうが良いと思い、今回はしっぽを巻いておこうと思う。

エモーションから来たであろうこの言葉は、実は、若者から来た、俗語だそうだ。

若者よ! やっぱり、あなたたちは凄い!

作ることもだが、それを市場に根付かせる創生力

は、凄いの一言!

何か色々、ゴタゴタ、理由をつけて何もやらない、待っているだけの、私を含めた大人たちは、彼らの爪の垢でも煎じたほうがいいのかもしれない。


もし、現代に向田邦子が生きていたら、この「エモい」は、本当に彼女の好きな言葉になっていただろうか?

遅筆、乱筆で有名であり、切羽詰まると「四」の字を横棒4本で済ましたという逸話があるほど!

余りの遅筆に痺れを切らした樹木希林が「話の筋だけ考えてくれたら、後は現場で何とかする」と電話を掛けて喧嘩になったことがあるくらいひとである。

ただ、現代でも、脚本家としては非常に評価の高い人で、生活のディテールを表現させると彼女の右に出るものはないくらい、凄まじい才能の持ち主で、その上、私生活は非常にチャーミングな人だったらしい。

正に、この話をきいただけで、恋に落ちてしまった森繁久彌の気持ちが十分理解できる。

ご存知かもしれないが、51歳の若さでこの世を去って約40年たっても、彼女の業績は全く薄れることのない。

「エモい」については、向田邦子のような作家に一回何でもいいから作品として書いていただきたかったが、本日は、いつもよりもライトな感覚で、よりわかりやすそうな「哀愁」についてを、「ミーム」の視点から書かせていただくことで、お許しいただきたい。



どうしても、心に止まったり、後ろ髪をひかれたりする時がある。

何故かわからないけど、心の意深くに・・・・

「哀愁」を感じると言えば、何をイメージできるのか?

どんな時に感じることができるのか?

字からして、秋に心がさみしくなるみたいな感じなのか?

今のような時期的に、そのような気持ちになりやすいのであろうか?


以前、夕方の動物園のキリンが何となく、とてもさみしく見えた時に、同じような感覚になったことがあった。

それは、妻と別れて、一時期子供とも離れて住んでいた時に、私と、長女と次女の三人で、動物園に行ったときのことだ。

もうそろそろ帰る時間を考えていた時の、子供たちの表情と、目の前のキリンを何となく見つめていた時だ。

キリンの元々の長い首のシルエットが、何故か、より長くなっているかと思っていたら、夕日のせいだったというのに気づき、それが彼女たちと別れる時間が来ている事を暗示していたからだ。

楽しかった思いと、これから家に子供たちを送り届けなければいけないさみしい気持ちがあったので、キリンの長い首のシルエットに「哀愁」を感じたのであろう。

「哀愁」とは、一体どうゆうことなのかを、「ミーム」の概念で今日は簡単にしゃべってみたい。

好きな映画の一つに、リュック・ベンソンの「レオン」がある。

舞台はニューヨーク。

家族を殺され、隣室に住む殺し屋レオンのもとに転がり込んだ12才の少女マチルダは、家族を殺した相手への復讐を決心する。

少女マチルダを演じるのは、オーディションで選ばれ、本作が映画初出演となったナタリー・ポートマン。

また、寡黙な凄腕の殺し屋レオンをジャン・レノが演じている。

そして、麻薬中毒で、麻薬を飲むときの怪演を見事に演じ切っているゲーリーオールドマンは、さしずめ、ルパン三世に出てくる石川五右衛門の愛刀「斬鉄剣」のような切れ味だ。

実は、このシーンは自分で何度も練習して、結構うまくできる自信がある。(自画自賛)

ちなみに、このゲーリーオールドマンの演技は、実は、全てアドリブだったということだ。

凄すぎる演技は、本当に、本当に、本当にヤバイ!

でも、それを意味もなく練習してみたくなる俺ってなんだ?

愚直で、心優しい不器用な殺し屋レオンと、鋭い頭脳と、冷徹で器用な男ゲイリーオールドマン演じるノーマン警部との関係性が非常にアンチ―テーゼで面白い。

人によれば、12歳の少女と殺し屋の純愛ラブロマンスが、リュック・ベンソン自体が、少々そのような趣味があったという噂もあり、非常に気持ち悪いという評価も実はあるのだが、私は素直にこの純愛ラブロマンスを評価したい。

このレオンは、世の中の「哀愁」を一人の男の背中に凝縮させたような人物だ。

特に、レオンが左右に揺れながら、武骨感丸出しの姿で「ユッサユッサ」歩いている姿や、牛乳をのんで、口にいっぱい白いひげをつけたおどけた表情、マチルダを楽しませようとしても滑りまくり苦笑する彼に、何か愛着を感じる。

その反対に、仕事の時には、最強の殺し屋としての立ち振る舞い、そして、最終局面で、マチルダと彼らの友達(観葉植物)を換気口から脱出させるシーンは、本当に「哀愁」漂うラストシーンになっているらしい??

「らしい?」

「えっ!」

何度見てもこのシーンだけは、直視できないので見たとは言えないかも。

そして、少女の心の中に残ったものが、レオンのやさしさであり、力づよく、あくまでも「愚直な愛」という名の「ミーム」がいっぱい詰まった「哀愁」たっぷりの寂し気な「彼の背中」であった。



実は、このレオンとマチルダの世界観に、少しだけ何か似ているものがあった。

それが、冒頭の「向田邦子」「その父」と、最近になってわかった「向田邦子の愛した唯一の男性」との関係性である。

ここで、向田邦子とリュック・ベンソンを、無理からに同じ扱いにすることを許してもらいたい。

彼らには、彼らの作品があまりにも素晴らしいために、非常に多くに人が目を光らせているのも良く知っている。

ただ、私のような不精な人間でも、彼らの作品にふれることで、何か言いたくなったり、自分のできもしないのに表現したくなったり、誰かの何かの為に貢献したくなったるするのでお許しいただこう。

なぜなら、彼らの作品は、私の「ミーム」に非常に大きな影響を与えてくれているからだ。

いわば、人に生きる勇気や頑張れる気力を与えることができるのであり、それが、正に「ミーム」である。

だから、私は、向田邦子とリュック・ベンソンは非常に心から尊敬と敬意を払っている。

向田邦子の父は、非常に厳格で、厳しい人であったという。

彼氏は、不倫相手のカメラマンで、病気で体に障害を残している。

彼女の彼への愛は、非常に深く、献身的な彼への思いは、最近出てきた5通のラブレターに記されていた。

しかし、後に、彼は自殺をしている。

献身的に頑張る向田邦子の姿を見るのが、つらかったとの見方をしている人が多いが、これは、向田邦子の作品よりも、向田邦子自身を愛してしまったためであろうと推測される。


方や、向田邦子とその父親の関係は、当初、厳格過ぎた父が嫌いであったのだが、ある時、彼の「哀愁」を感じる事件があった。

父親が、戦時中、妹を疎開させるときに、たくさんの手紙を持たせる超有名な話がある。

その手紙に元気なら〇、そうでないなら×を書かせるのだが、妹の〇が、最初は大きな〇だったものが、徐々に小さな〇になる。

そして、だんだん小さくなっていく〇の大きさの背景を想像してみるうちに、父は、彼女のことが気になりだす。

そして、次女が返ってくると、向田邦子の父は、彼女を強く抱きしめて大泣したということである。

あれ程、厳格で厳しい人間だと思っていた向田邦子の父の陰の部分を、この時目の当たりにしたのだ。

それを見た彼女は、自分と父の間にある「心の隙間」に大きな後悔の念が生まれ、後の向田邦子の父親に対する気持ちに大きな変化が起こる。

私は、彼女の男性に対するイメージが、この2人の影響が非常に大きいということは、直ぐに理解できたし、殆どの人の感想も同じだと思う。

だから、そのようなきっかけが、人間の強い気持ちや心の中を、言葉を使わずに表現することへの大きな力に気付いたのかどうかは知らないが、その経験が、後の彼女の作品に大きな影響があったのは間違いのないことである。

その上で、こういう言葉を残している。

「人生は、幸福と不幸を交互にやってくる」

彼女にとっての「哀愁」を表現するとは、幸福と不幸を一緒に表現できることで、その物自体よりも、その陰も忘れずに思い出にして、趣深い記憶にするということだったのかもしれない。

その上、言葉を使わずに表現することで、人間の無限の想像力を湧きだたせる方法を使うことで、

この言葉という救命ボートを使わずに、ただ漂いながら、岸を目指して必死に泳ぎ、がむしゃらにたどり着くことの趣深さや愛おしさを我々に伝えたかったのだろう。

彼女の「ミーム」「SWM」として伝達される、セリフを使わずに、人間のふとした仕草で物語の重要部分を表現することができる感性や表現力は、我々に生きる元気を与え、無限の創造性を与える。

自分でも書いてみたい、表現してみたいというある種、思い過ごしの勘違いですら、我々の生きる大きな力になる。

我々のつたない表現力でも、小さなコミュニケーションに元気をもたらすことができるのだ。

そのコミュニケーションには、家族であり、組織であり、社会の中で、様々な幸福だけでなく不幸も一緒になった「哀愁」が満載で、例外なく我々の生活に彩りをあたえる。

我々は、映画にしろ、小説にしろ、あらゆる芸術の表現の「ミーム」における大きな役目は、生きる喜び、何かを創造しようという喜びや情熱があれば、決して死を選ぶことなく、生きる勇気をもたらしてくれる。

それが、例え小さな「ミーム」であっても、我々の心の隙間を埋めてくれ、どんなことでも受け入れるきっかけを作り、それの集合体である「ミーム」も、家族や会社組織の絆を強めてくれる。

だから、小さくても、何気なくても心に残る大切さを家に帰って、誰かに話そう。

そして、自分の思いを伝えよう。

理由もなく、目的もなくてても、それを誰かに伝えよう。

そして、例え、その中には、その幸福と不幸を一緒に合わせたのであっても、それこそが「哀愁」であり、「ミーム」であり、「エモい」であり、「絆」である。

ただし、「家族」とは、「血のつながり」だけではなく、「哀愁」があり、「エモい」ものが、時には変てこな「絆」を持ったものが、「本当の家族」ではないだろうか?

「哀愁」とは、人間だけでなく、キリンのシルエットや、電信柱、自転車や弁当箱、全てのものの背中や、裏側、内面、引き出しの中にこそ存在するものであり、いつもきれいで鮮やかなものが一番いいとは限らない。

時には少々くすんだ灰色や、少し寂しい光の輪から、時には少し冷たい場所にいるような感覚まで、それが人間になると、時にはお人よしになったり、意地悪になったり、頑固な時があったりするのである。

それでも、最後は温かい家族や絆の中に、レオンの背中や向田邦子の父の背中が凛と存在し、決してマチルダや向田邦子に見せなくても、本当の強くて、頼もしいの佇まいがあるのだろう。

色々なことがあっても、その時は、少々辛くて悲壮感があっても、その後にあなたの生き方や、意識によって優しい「哀愁」になるのであろう。

ディテールには、神が宿るという言葉がある。

それは、企業のプレゼンやブランドだけでなく、我々の周りのすぐ手に取れるものにも、「哀愁」は宿るのであろう。

そんな大それたものでなくていい。

ちょっとした笑いや、お互いを思う気づかいも、その姿が「哀愁」になるのであろう。

だから、私は、今でもゲーリーオールドマンのノーマン刑事になるのである。

もちろん、クッピーラムネで!

自分もそのような「哀愁」漂う背中になれるだろうか?

そんなことを考えていると、向田邦子は「エモい」をどう表現するのだろうか?

気になって仕方がない!

以上です。

POSSV 東野





今、日本の社会にある様々な歪を改善するための事業や活動をしています。具体的には、あらゆるクリエイターや基礎研究者の支援や起業家が生まれやすくなる社会システムの準備をしています。どうか御支援よろしくお願いいたします。