ことばについて
他人の言葉を借りなければ、今、自らのことばがなくなってしまうのではないかという不安がある。
好きな人の言葉にボギャブラリー水槽というものがある。人にはことばの浮き沈みする水槽があって、ことばとは、空な言葉に思いを詰めたもの、密度があり重さがあるもの、だそうだ。毎日ことばが放り込まれ、消えていく。
ことばが水槽に放り込まれる、ことばに触れる。人と話す、本を読む、SNSを見る。どのような手段だってあるだろう。ただ、これらを日々にしていないとしたら、ただことばは消えるまま減っていく。それが僕の現状だ。ことばが消えるのは恐ろしい。ふと思いを巡らそうとして胸に何も浮かんで来ない時、水槽を攫って攫って何も見つからない時、どうしようも無い絶望感に襲われる。
だから今こうして、人のことばを直接借りて文を書いている。こんなものに使ってしまって申し訳ないが、そうでもしないとこの恐ろしさに耐えきれそうになかった。このまま何もしない生活をして、見て見ぬふりをしながらことばが失われて、何も無くなってしまったら。何も無くなってしまったら?どうなるんだろう。死んでしまいはしなさそうだけれど、もうそれは僕では無いように思う。
文章を書いていて少し気が落ち着いてきた。普段はほぼ常にイヤホンをつけている生活をしていて、だからこそイヤホンを外し文字に集中する時間というのの大切さを忘れていた。
僕のポエム(笑)というものは、やはり一呼吸置く間が存在する様に思う。物語を書いているうちはそうでもなかったけれど、自由に筆を走らすときはいつもそうだ。自らの生の主観を自らに置きすぎている。簡単に言えば極度の自己中というやつで、つまり、行って帰る物語をしているのを、ただ書き起こしているだけなのだ。文章を書くことを先駆けとして思考に浸り、戻ってきた結果をただ書き連ねる、それだけなのだ。その上面倒くさがりで推敲もしないから文はとっ散らかったまま、テンポも悪く読みにくい。他人様に読んでもらうようなものじゃないとつくづく思った。
話を戻そう。ではことばを増やすにはどうすればいいか?答えは簡単で、人と話して本を読めばいい。SNSは軽くてすぐ消費出来てしまうことばばかりだからね。うんうん。学校にちゃんと行って勉強して読書もして模範的な人間になろうね、とそうではなくて。むしろ模範的でない人間の方が"ことば"に対するこだわりの強い人間が多いなと感じる。模範なんか関係なくて、ことばが好きでことばに真摯で、そう意識していてもしなくても在り続ける人たちだななんて思う。僕のこれは、ことばに真摯でなく、また元々それ程の熱意を持つ人間じゃないからなのだろう。疲れてきた、そもそも人生楽して生きていきたいのになぜ幸せというのはこんなにも苦労するものなんだ?楽に楽しく生きるには楽のハードルを下げていくしか無いと、ほうほう。つまり継続的な努力です。ぶち〇すぞ。
なんか悩んでたのがどうでも良くなってきた、今は1:20、思っていたより水槽は呼び掛けに応えてくれたしあとは4時間後に無事家を出るだけGG。好きな人さんほんとにごめんなさい。
熱意の無い好き程虚しいものは無くて、虚しい人間なのだけれど、それでもたまに読む小説に人並みに感動するし、普段から曲の歌詞に揺さぶられているし、映画なんて見た日にはジャンルを問わず泣いている。それは違うけど。突っ走れる人間ばかり目にしていて、人生に不真面目なら不真面目なりの生き方とかを考えて模索して導き出していかなきゃなんだな、と思いました。好きな人は良いねなんて到底言えなくて僕も自分に該当するそれが見つかってないだけなんだろうけど!!!人生って奥が深いですねー。
ぷかぷか水槽に浮いていることばは粗方獲り尽くしてしまったし、trpgとボカロ以外の楽しみはほぼ無くなったし、勉強するターンに入ったなとひしひし感じています。皆との受験生としての意識の乖離もこうなった原因なのかな。みんなといっしょがうれしいですらくですしあわせです。所詮はその程度の日本人、こういう時に種族的特徴をあげる人間は大成しないってね。
好きな人色に染まっていく僕のボギャブラリー水槽に、1年後、はたまた10年後に入っていることばが少し楽しみになりつつ、好きな人のことは、ことばは、忘れて消してしまいたくないなと思う夜でした。
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