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【特別公開】連載「父の過労死」第1回 過労死の責任から逃げた会社

雑誌『POSSE』では、父親の過労死を経験した1995年生まれの高橋優希さん(仮名)が、会社に過労死の責任を認めさせるまでの10年間の記録を連載しています。「過労死等防止啓発月間」である11月に合わせ、これまでの連載記事を特別公開いたします。第1回は『POSSE』vol.48(特集:ジェネレーション・レフトの衝撃)に掲載された「過労死の責任から逃げた会社」です。

父の過労死が起きてからもうすぐ10 年が経ちます。父が亡くなった当時は15 歳だった私が、10 年後に過労死裁判で会社の責任を認めさせる判決を勝ち取るまで、どのような経験をしてきたのか、何を考えてきたのかについて、書いていきたいと思います。過労死遺族や過労死問題に関心のある方に読んで頂き、何かの行動を起こすきっかけに少しでもなってもらえれば嬉しく思います。
 連載第1 回目の本稿では、過労死が起きた当時の話から始まり、後に過労死裁判を一緒に闘うことになるPOSSE に出会うまでの出来事について書きました。

15歳で経験した、父親の突然の死

 2011年8月に父は脳幹出血が原因で亡くなりました。51歳でした。
 亡くなった時のことは今でも鮮明に覚えています。亡くなる前日の土曜日、自宅のトイレで父は倒れました。声をかけても起きなかったので、救急車を呼ぶことにしました。トイレで父を呼び続けましたが唸り声をあげる以外は反応がなく、15分ほどして救急車が到着してすぐに病院に搬送されました。
 しかし医者から「もう長くはない。1日持つか持たないか」と告げられ、当時高校1年生だった私にはあまりに急な出来事で頭の整理がつきませんでした。父のベッドの横で午後11時ごろまで付き添っていましたが、部活動の疲れや精神的な疲れもあって、いったん休むために祖母の家に帰りました。
 そして朝方、母から電話がかかってきて亡くなったと聞いて、病院に向かい亡くなった父と対面しました。父は前日の夜遅くまで普段通り仕事をしており、突然の死でした。今年で父が亡くなってから10年が経ち、もし生きていれば61歳になります。労働環境が整備されている会社で働いていれば、きっと今も生きていたはずです。

家族そろって夕飯を食べたのは日曜日だけだった

 父は岩手にある、機械部品の金型を製造する会社で営業をしていました。毎日長時間労働で、平日は午前7時20分に自家用車を自分で運転して会社に向かい、帰宅時間は毎日午後9時から午後11時くらいでした。
 正式な休日は日曜日と隔週の土曜日でしたが、実際には日曜日と祝日でも確実に休みということはあまりなかったです。休日であるはずの土曜日はほとんど仕事に行っていましたし、休みであっても疲れてお昼ごろまで寝ていました。家族そろって食事をするのは日曜日だけでしたし、平日休日かかわらず、家ではパソコンを開いていつも事務作業をしていました。せっかくの休日に家族で出かけても「納期が遅れているので急いで送らないといけない」ということで、いったん会社に寄って部品を受け取ったあと、自分で宅配業者の配送センターまで部品を持って営業先に送るなど、いつも仕事をしていました。
 亡くなった後にみつけた会社のタイムカードをみると、月の残業時間は80時間から100時間ほどで、これは国が定める「過労死ライン」をオーバーする長さです。それに、亡くなる6ヶ月より前はサービス残業で残業代は1円も支払われていませんでした。
 父が亡くなってから1週間後、葬式が営まれました。そこには、会社の社長と工場長も参列していました。母は、社長と工場長に「ずいぶんと長く働かせましたね。もう少し早く家に帰してほしかった」と話したところ、2人からは「新規の取引先の開拓をたくさんやってくれて、取引先をずいぶん増やしてくれたんですよ」と言われました。謝罪の言葉はありませんでした。母はその時「自分はそういうことを聞きたかったのではない。ただ一言謝ってほしかっただけだ」と思ったそうです。
 当時の取締役が葬式で読んだ弔辞には「短い生涯をなかなか受け入れることはできないが、これも天寿と理解する。会社の行く末を遠くより見守って頂きたい」と書かれていました。

労災申請をするまでの経緯と会社の対応

 葬式後、名義変更などの手続きをしているなかで、金融機関の担当職員が自宅に来た際、父が亡くなった理由を聞かれた母は「脳幹出血です。働きすぎなんじゃないですかね」と話したところ、それに対して職員は「それはもしかしたら労災になるかもしれない」という話をしてきました。ここではじめて労災申請について知ることになりました。
 後日、職員が労災申請の資料を持ってきて「普通の年金の金額は微々たるものだけど、もし労災が下りたら金額は全然違います。労災申請をやってみる価値はあります。もし申請するのであれば協力します」と申し出てくれました。母は役所に対して良いイメージは持っておらず、最初は消極的だったらしいのですが、その職員に説得され、労災申請することを決めました。それからは、労基署での手続きに何度か同行してもらったり、労働時間の証拠を集めるアドバイスをしてもらったりしたそうです。
 父が亡くなってから1ヶ月後、会社の取締役二人が自宅に来て、退職金50万円を支払うことを伝えてきました。死ぬまで働かせたにもかかわらず50万円という金額を支払ってきたことについて母は言葉が出なかったそうです。
 その後、労災申請書類一式を会社に送り、労災認定の協力をお願いしたところ、当時の社長と工場長が、次のように書かれた手紙を持って自宅にやってきました。
 「(労災申請書に書かれていた)「連日7時20分に出かけ夜10時30分過ぎに帰宅」の述に関しまして、弊社としてはご指摘のあったような勤務状況にはなかったように考えております」「このような結果につながった原因としては、生活習慣または年齢的な部分もあったのではないかと考えております」「今回提出いただいた書類には押印はせず、この書類をもって基準監督署様の判断を仰ぎたいと考えております」
 その時、取締役から「残業を100時間や200時間やってるわけないので労災にはならない。一人だけが多かったわけではない」「なんならタイムカード見せましょうか」と言われたそうです。労災認定に協力するどころか、生活習慣や年齢を指摘して、亡くなった原因は本人の自己責任であるかのような内容でした。母は「そこまで強気で言って来るということは、タイムカードを改ざんして残業時間をゼロにしてるかもしれない」「この人たちとこれ以上話しても埒が明かない。さっさと帰ってほしい」「会社が判子を押さなくても、お父さんは会社に殺されたも同然。しっかりと労基署が調べてくれるはず」と思ったそうです。

労災認定。「過労死」という言葉との出会い

 過労死が起きた1年後の2012年、労働基準監督署に「発症前2ヶ月においては残業時間の平均が98時間とほぼ100時間に近い時間外労働に及んでおり、請求人は著しい疲労の蓄積をもたらす特に過重な業務に従事していたと認められる」という内容の労災認定がされました。その時に自分なりに労災について調べていたところ、過労で亡くなるという意味の「過労死」という言葉があることを知りました。
 父の死は幸いにも労災が認定されましたが、それは労働基準監督署が調査をして会社のタイムカードなどを見つけることができたからです。遺族のなかには、会社が意図的に証拠を隠したり、そもそもどういう証拠があるのかわからないなどの理由から、長時間労働やパワーハラスメントの証拠を見つけることができずに労災申請すらできない人が大勢おり、国に対して裁判を起こす遺族も多くいます。
 労災が認定され、会社の働かせ方が原因で父が亡くなったと国が判断したのにもかかわらず、会社からの謝罪も説明も一切ありませんでした。国からの労災認定がおりましたが、労災給付金は会社ではなく国が支払うものです。会社は支払う労災保険料率が上がること以外は、何の損失もありません。会社は長時間労働をさせて命を奪ったことに対しての責任を何一つとっていないことを知り、会社に対して不信感を抱きました。漠然とですが、裁判を起こして会社に責任を認めさせたいと思いました。しかし当時、自分は高校生で未成年だったということもあり、また父が亡くなった直後で、家族も疲れていたこともあって、行動に移すことはできませんでした。
 ただ、いま振り返れば、この労災申請・認定という経験が、のちに会社に対して裁判を起こすうえで重要な契機となりました。労災を申請していなければ、あとから会社を訴えることができなかった可能性も高かったと思います。

自らが労働者としてパワーハラスメントを経験

 2013年、私は高校3年生で、就職活動をしていました。当時の私は、違法行為をおこなうブラック企業の存在をドラマで知り、法律違反が原因で父が亡くなったのではないかと考えるようになっていました。そうしたなかで、学校に送られてくる求人を色々見ていると、「将来は独立して経営者を目指すことも可能」と会社のアピール欄に記載している会社があり私は興味を持ちました。いま思うとかなり怪しい記載内容ですが、当時の私は自分が経営者になることで社員を大切にする会社を作ることができるのではないかと考えたのです。結局その会社は落ち、別の会社に就職することになりました。「父と同じようなことは起きてほしくない」「働く人の健康を守りたい」というのはその頃から思い始めていました。
 2014年に通っていた地元の高校を卒業した後、私は地元にある半導体部品を製造している会社で働き始めました。そこで経験したのは上司からのパワーハラスメントでした。3ヶ月の試用期間が終わったくらいから「不良品を出したらぶっ殺す」などと工場の責任者である部長から、ほかの社員がいる前で怒鳴られるなどの暴言や、肩を殴られる、ノートで頭を叩かれるという暴力もありました。精神的に参っていき「死んだほうが楽なのではないか」と思うようになりました。しかし、辞めた後にどうするかなどの不安からすぐに辞めるとは考えられませんでした。
 母の当時の記憶によると、パワハラを受けていた頃、私は食欲がなく、顔色は真っ青だったので「ただごとではない」と感じたそうです。そんな状態で車通勤をしていたので、事故が起きるかもしれないことが特に心配だったそうです。
 会社に行くことをやめた日ですが、朝の出勤中、いつもは直進する交差点をその日は右に曲がりました。そのとき何を考えたのかは覚えていませんが、おそらくストレスがピークに達していて直感で会社に行くのはまずいと考えたのだと思います。そのあとは数時間目的地もなく運転して、家に帰りました。カーテンを閉め切って自分の部屋で寝ていたそうです。結局八ヶ月で辞めることにしました。もし働き続けていたら本当に死んでいたと思います。

働く人の手助けをしたい

 会社を辞めた後は精神科に通院しながら自宅で療養していました。最初に行った病院の医者は、労働問題についての知識がなく、会社の事情や症状を訴えても、まともに取り合ってくれませんでした。なんとか紹介状を書いてもらい、別の病院に通院することにしました。何回か通った後、医者から仕事のストレスによって適応障害を発症していると告げられました。
 自宅で休んでいる間、今後何をしようか考えました。父の過労死と自分自身が経験したパワハラは両方とも会社という組織のなかで起きました。父が過労死した時、逃げられないような状況だったんだなということは漠然と想像していましたが、自分自身が働いて就活の大変さや辞めることの難しさを経験したことで、さらに具体的に父が置かれていた状況を理解しました。パワハラを受けている間は、頭の中が恐怖に支配され、正常な判断能力が失われていたと思います。このような状態では、「辞める」ことすら考えられなくなります。父も同じような精神状態だったのではないかと思います。過労死や過労自殺に対して「死ぬくらいなら辞めればよかった」と言い放つ人は未だに少なくないですが、簡単に辞められるものではないということを知ってほしいと思います。
 これまでの経験から、私は「会社に入って普通に働く」という将来は想像ができなくなっていました。同時に、父や私のように理不尽な経験を他の人にはしてほしくないと思い、働く人の手助けになるような仕事をしていきたいと考え始めました。
 そのために何ができるのか手あたり次第に調べていると、労働相談を仕事にしている社会保険労務士の団体のホームページを見つけ、私は興味を持ちました。最初は労働基準監督官の仕事に魅力を感じていましたが、大卒資格が必要ということもあって、受験資格をどうにかクリアできそうな社労士を目指すことに決めました。当時は社労士の本来の立場や仕事についての正確な知識は持っていませんでしたが、「労働者側」を名乗っているので、自分が目指している労働者支援ができるのではないかと期待していました。
 私はその団体で労働問題に関する仕事をしたいと思い、ダメ元でしたが、いままでの経験や労働問題に関係する仕事をしたいという思いをまとめた履歴書を送りました。そしてある日、団体の代表から電話が来ました。そこで伝えられたのは、本当に労働問題に興味があるのであれば東京に来て勉強会などの活動に参加してみればどうかという話でした。
 ところが、はっきりとは覚えていませんが父の過労死や私のパワハラ経験についての話をしたとき、「第三者が判断しないとわからない問題」と言われたのを覚えています。私はその言葉に違和感がありました。過労死に関しては労災認定が出ていますし、パワハラに関しては部長という立場の人物から暴力や暴言を受けています。そもそも労働者側を謳っているのに、「第三者」という言葉が真っ先に出ることに疑問を感じました。のちに「労働者側社労士」という存在に対しての違和感は増えていくことになりますが、その時は労働問題を学べるような他の団体を知らなかったので信用するしかありませんでした。

上京し再就職したものの今度は「求人詐欺」の被害に

 2015年の春、体調が徐々に回復してきた頃に上京することを決めました。それに伴い東京での就職活動を行い、IT企業に就職が決まりました。
 しかし、その企業でも様々な問題がありました。基本給が18万円の求人を見て就職したのにもかかわらず、実際に振り込まれたのは14万円でした。差額の4万円は業務手当で研修中は支払われないとの説明でした。そんなことは求人のどこにも書かれていませんでしたし、面接でも説明はありませんでした。
 また、求人サイトのホームページに記載されていた新人研修は一切なく、同じ時期に研修所に出勤していた新入社員は放置されていた状態でした。そこは客席常駐型のIT企業でしたが、管理職や周りの社員の話を聞いていると、ITに関係のない事務、雑用、テレアポなどの仕事に配属されることも多いと聞きました。同じ時期に入社した社員にも違和感を抱いている人が多くおり、私は早めに辞めようと考えました。結局その会社は2ヶ月で辞めることにしました。
 辞めた後は振り込まれなかった4万円を取り返したいと思い、同じ時期に会社を辞めた一人を誘い労働基準監督署に行きました。今までの経験から会社を「疑う」ことの重要性を学んでいました。法律違反を行う会社が存在することは入社した最初から念頭にあったので、賃金請求をすることには抵抗はありませんでした。
 労基署の相談員からは「一度自分自身で会社に賃金請求をして、それで支払われなかった場合はまた来て」ということを言われました。そして、会社に対しての賃金請求の文書を自分で作り内容証明郵便で送りました。後日、会社の顧問弁護士名義で未払い分の4万円を支払うという内容の返事がありました。無事、口座にも振り込まれました。このようにわざと高い給料を提示して募集するという求人詐欺は、全国でブラック企業が使っているやり方だということはあとで知りました。

社労士団体への違和感

 その後、何度か社労士団体の交流会に参加しました。労働相談現場の話を聞いたりして勉強になることも少しはありましたが、少しずつ私がしたいと考えている労働者支援の仕事とは離れているということを感じ始めました。労働相談を通じてどうやって金を儲けるかという話が頻繁に出てきたり、労働相談に対して「共感して気持ちに寄り添う」「場合によっては転職をすすめる」などの対応をすることもあると聞き、根本的な解決になっていないのではないかと感じるようになりました。
 賃金未払い、セクハラやパワハラ、長時間労働などは、実際に未払い分を払わせる、慰謝料を払わせる、謝罪させる、残業時間を減らすことでしか解決とは呼べないと私は思います。相談者が転職をしたとしても、その職場の違法状態は温存されてしまいます。多くの人にとって切実であるはずの労働問題を利用して金を儲けようと考えている姿勢や労働者にとって問題の根本的な解決にはならないようなアドバイスをすることは私が目指している労働者支援とは違いました。そのような理由から、社労士では労働問題の解決をすることができないと感じるようになり、以前は大卒資格がないため諦めていた監督官への道を考えるようになっていきました。

労基の監督官を目指す

 父の過労死、自分自身のパワハラ被害や、求人詐欺などの経験を踏まえて、一度諦めた労働基準監督官を目指すことに決めました。社労士として、自分が目指している労働者支援をすることは不可能だと感じたからです。労働者側と名乗っている社労士でも、企業側の仕事を請け負う場合もあると知ったのが一番の理由です。そんな状況で、完全な労働者側として労働問題の根本的な解決を目指すことはできないと思います。労働基準監督官であれば違法な企業と正面から対立して、直接会社に対して法律を守らせることができ、私が目指す労働者支援ができると考えたからです。
 労働基準監督官になるには大卒資格が必要だったので、2016年4月に私は通信制大学の法学部に入りました。勉強に役立つかと思い、SNSで何人かの労働者側弁護士や専門家をフォローして労働問題についての情報収集をしました。
 ある時、SNSを見ていると「ブラックバイト」という言葉が流れてきて、どのような問題なのかと興味を持ちました。ブラックバイトについてのイベントを開催するという案内があったので会場に行きました。私はそこで、学生という立場であっても奨学金返済や生活費のために大学の授業を休んでまで長時間働かないといけないこと、賃金未払いなどの問題が存在していることを知りました。その会場には若い参加者が何人かいて、私が想像していた年齢層とは違ったので、どういう団体なのか気になり話しかけてみました。その団体がPOSSEでした。
 この連載の次回では、過労死裁判を始めるきっかけになったPOSSEでの経験や過労死遺族との出会いのなかで受けた影響について書いていこうと思います。私がいままで目指していた社労士や労働基準監督官とは異なる労働者支援を知ることになります。それは、一つ一つの支援から社会全体を変えていくという方法です。私はずっと父の過労死の責任を働いていた会社に取らせることを目的に裁判をしたいと考えてきましたが、様々な経験のなかで「社会全体から過労死をなくしていく」という目的に変化していきます。

著者
高橋優希(仮名)

1995年生まれ。大学生。15歳の時、父親の過労死を経験する。自分自身も職場でのパワハラや賃金不払いを経験し、悲惨な労働環境を変えたいと思い始める。22歳の時、原告として父が働いていた会社を提訴。父の過労死から10年経った今年、高裁で会社と取締役1人の責任が認められた。

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