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【雑誌POSSE連載第0回】オメラスから発つ道の途上でーこの壊れゆく世界を拒絶するということ|岩本菜々

岩本菜々:1999 年生まれ。一橋大学社会学研究科修士課程在籍。 2020 年にPOSSE に参加。在留資格のない若者への学習支援活動を経て、現在は若者の住居や奨学金問題に関する相談対応や、調査研究に取り組んでいる。

 8月31日刊行の雑誌『POSSE』vol.54より、私の連載がスタートした。


 とりわけこの3−4ヶ月、私はラジオや新聞、テレビ番組などあちこちで社会問題に対してコメントしたり、意見を述べる機会を多く頂くようになった。しかし実のところ、マスメディアでも、SNSでも、ほんとうに言いたいことや表現したいことと、求められているコメントが乖離している気がして、それに悩まされてもいた。

 メディアで語るときには、わかりやすいエピソードや数値で語ることが求められる。しかし、「ストライキで50円分の賃上げを勝ち取りました」と話した瞬間に、本当に伝えたい闘いの躍動感や、闘いの過程で得た抵抗の経験は色褪せてしまう。また、奨学金返済者の生活がいかに悲惨かを代弁するたびに、その人たちが持っているはずの現実に立ち向かうエネルギーを自分が奪い取っているようで歯痒い思いをしていた。

 そんな中、このたび連載という形でなんでも自由に書くことのできる場を与えられた。

 連載の方向性を考えていたときに思い浮かんだのは、あるとき読んだ短い物語に出てきた、今の世界のあり方を徹底的に拒否し、静かにそこを歩み去る人々の姿であった。

 その物語とは、A.K.ル=グウィンの『オメラスから歩み去る人々』である。私はその小説の存在を、2021年の『世界』11月号に掲載された酒井隆史の論考「すべてのオメラスから歩み去る人々へ──反平等の時代と外部への想像力」で初めて知り、それから原作を読み、その物語がずっと心に残っていた。

 彼らの姿に着想を得て、連載タイトルは「オメラスから発つ道の途上で」とした。

 連載第0回では、この小説のあらすじを紹介しながら、この小説からタイトルを引用した理由と、このエッセイが目指すところを記していきたい。

オメラスから歩み去る人々

 『オメラスから歩み去る人々』というのは、要約するとこういう話だ。

 あるところに、オメラスという街がある。その街は柔和な気候で、作物が十分に獲れ、豊かな文化を有し、誰もが幸福に暮らしている。まさに理想郷といっていいような街だ。しかしその幸福には、たった一つの代償がある。

 街には牢屋があり、そこには10歳くらいの子供が閉じ込められている。その子供には知的障害があり、長い間閉じ込められているために言葉を発することもできなくなり、十分な栄養が与えられていないために脚のふくらはぎもないほど痩せ細り、腹だけがふくらんでいる。しょっちゅう自分の排泄物の上にすわるので、尻や太腿にはいちめんに腫れ物ができて、膿みただれている。子供は時折「大人しくするから、出してちょうだい」と懇願するが、その願いを聞き入れるものは誰もいない。

 なぜなら、この子供の存在こそが、オメラスの幸福を支えているからだ。オメラスの住人であれば、街の幸福も、人々の豊かな生活も、その子が外に出ればたちまち崩れ去ってしまうという事実を誰もが知っている。

 この事実は、子供たちが8歳から12歳に成る頃、大人たちから知らされる。子供たちは最初、この事実にショックを受け、怒りに震える。そしてどうにかしてこの子を牢屋から連れ出し、温かい食事を与えてやれないものかと考える。しかしそのことをすれば、数十万人の幸福が崩れ去ってしまうのである。子供たちはこのパラドクスに直面し、何週間も思い悩むことになる。

 しかしやがてほとんどの人は、そのうちこの事実に慣れてしまい、こう考えるようになる。その子が解放されたとしても、もうあまりにも長く恐怖の中に晒されていたせいで、人間らしい扱いに応じる術を知らないかもしれない、と。こうしてあれこれ理由をつけて自分を納得させるうち、彼らの怒りの涙はやがて乾いていく。

 豊かで恵まれた生活と引き換えの、たった一人の犠牲。ほとんどの人はこうして、さまざまな理由をつけてその犠牲に慣れていく。彼らは、特別に薄情な人というわけでも、例外的に共感能力の欠ける人というわけでもない。むしろ、どこにでもいる、よく「わきまえた」、思いやりのある、牢の子供以外にはどの人に対しても優しい市民たちだ。その大多数の市民たちの無言の承認のもとで、小さな子供はいつまでも牢に閉じ込められたままになっている。

 しかし、ル=グウィンは物語をここで終わらせない。中にはごく一部、分別をわきまえた一市民としてこの街で生きていくことのできない人々がいることが、物語の最後で打ち明けられる。

 しかし時折、信じがたいことに、閉じ込められた子供を見に行った少年や少女が、そのまま家に帰ってこないことがある。また時には年をとった男女が数日黙り込んだあげく、ふと家をでていくことがある。彼らはオメラスの外に出て、そのまま歩き続ける。行き先はわからない。そこが今より幸福な土地なのかもわからない。しかし彼らは、自らの向かう先を心得ているらしいのだ。

 自分たちの豊かな暮らしと引き換えに踏みにじられ、犠牲になっている子供が一人いる。その事実に目を瞑って生きることができない人々。彼らはただ、静かに街を出る。自分たちが今まで生きてきた社会を拒絶し、別の社会へと歩き出すのである。

この世界を拒絶する人、留まろうとする人

 私たちの世界は、オメラスほど美しく粉飾されているわけですらない。家を失い、路上にうずくまる人々の姿。ビザという名の小さな紙切れがないだけで、収容され、殴られ、殺される人を映した映像。数千年かけて育った森林を焼き尽くす山火事のニュース。私たちのオメラスはいま、その街中が燃え盛り、暴力に溢れ、崩壊しかけている。

 それにもかかわらず、社会の崩壊が進めば進むほど、オメラスから出ようとすることがいかに馬鹿げているか、牢にいる子どもが苦しむことがいかに仕方のないことかを、より意固地になって説く人が増えていると感じる。

  今年の初め、入管法改定案(難民申請の回数を3回に制限し、認められなかった場合の母国への強制送還や、日本に留まり続ける人への刑事罰適用を可能にする法律)が再提出された。これを受け、国会前には毎週のように、在留資格によって命に線引きをすることを拒否する人々が集まった。当初集まった人の数は決して多いわけではなかったが、それでも人々は、隣人を「犯罪者」に仕立て上げることを拒絶し、これ以上人を殺すなと声を張り上げた。 

 ところがこの訴えは、いたるところで壮絶なバックラッシュに晒された。やがて火の粉は、在留資格のないクルド人の支援活動をしていた私のところにも飛んできた。きっかけは、私が支援活動の中で出会ったクルド人の中学生が法改定に抗議するために書いた「将来の夢を追いかけたいけど、仮放免だから追いかけられない。」という紙の写真と「仲間を殺すな」というコメントをSNSに投稿したことだった。

 この投稿は、送信して数秒とたたないうちに炎上した。コメントや引用はたちまち2000を超し、写真は悪意あふれるタイトルとともにあちこちのまとめサイトに転載された。大半のリプライは入管法改定の正当性を「外国人の犯罪率」などのデータを持ち出して説明し、「どうせ法案は通るのに」「大人しく強制送還されればいいのに」などの言葉で抵抗がいかに無駄なことであるかを主張するものであった。

 入管法の改悪に反対する人々に対し、異常なまでの執着を持って反論を投げつけ、いかに入管法の通過が「正しいこと」なのかを言い募る人々のその「必死さ」が、最初私には理解できなかった。しかし、だんだんとその反発の正体に見当がつくようになった。

 この世界が無数の「牢の中の子ども」を抱えていることを、彼らーこの社会から出ることの不可能性を主張する人々ーはよく分かっている。彼らはそれでも「他にオルタナティブはないんだ」と自らを納得させることで、この世界に溢れる暴力や、自分自身の苦役になんとか目を瞑ることができていた。

 しかし、この社会を真っ向から拒絶する人々の存在は、彼らが自分で自分を納得させるために用いてきた方弁が、全て詭弁に過ぎなかったことを暴き出してしまう。だからこそ、彼らはこの世界から出て行こうとする人の、その歩みを必死になって止めようとし、その営みの価値を徹底的に貶めようとするのだ。

 ル=グウィンの別のエッセイ「アメリカ人はなぜ竜がこわいか」では、あらゆる矛盾にもかかわらずこの世界に留まり、そこから抜け出す想像力(=ファンタジー)を恐れる大人たちの心性が鋭く分析されている。

(ファンタジーは)事実ではありません。でも真実なのです。子どもたちはそのことを知っています。大人たちだって知ってはいる。知っているからこそ、彼らの多くはファンタジーをおそれるのです。彼らは、ファンタジーの内なる真実が、彼らが自らを鞭うって日々生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくることを知っているのです。大人たちは竜がこわい。なぜなら、自由がこわいからです。

オメラスから発つ人とともに

 難民が殺されることのない社会。自然がこれ以上壊されることのない社会。ジェンダーによって差別されない社会。身を削る長時間労働をせずとも生きられ、残りの時間で絵を描いたり、親しい人と過ごせる社会。それらを思い描き、今の社会から抜け出すための抵抗を試みると、自由をおそれる様々な力が、その想像力を禁じ、封じ込めようとしてくる。

 身の回りの理不尽な校則や会社のルールに異を唱えたら「一人前になってから言え」「我慢しなさい」と言われた経験や、社会の格差に疑問を呈したら「じゃあ君には”対案”があるのか。経済をわかっているのか」などと言いくるめられた経験をしたことのある人は多いのではないだろうか。

 とりわけ対抗運動の少ない日本では、オメラスから出ようとするには大きな困難が伴う(物質的にも、精神的にも)。抵抗しようとすれば、時として向かう先が見えない中で、孤独に闘うことを覚悟しなければならないこともある。

 それでも、この社会の矛盾にただ耐えるのではなく、それを徹底的に拒否しようと立ち上がり始める人がいる。職場のセクハラにたった一人で声を上げる女性。家族を過労死させた会社との裁判に挑む人。自分に怪我をさせた会社に責任を取らせるため、経営者に詰め寄る外国人労働者。彼ら彼女らの決意とエネルギーに、私自身、何度も圧倒され、勇気づけられてきた。

 だからこそ、このエッセイは、自分を騙し、なんとか納得させながらこの社会の中にとどまることをやめ、別の社会へと出て行こうとする人とともにあり、その背中を押すようなものになればいい思う。

 連載では、私が運動の中でこれまで出会い、一緒に闘っている人の姿から見える、新しい社会に向かう展望を描きたい。

 それに加え、普段私たちは活動の中で、この抵抗運動の少ない日本社会では孤立してしまいがちな、別の社会を希求するエネルギーをどう集結させ、大きな流れにしていくかを議論し、新しい方法を考えている。そうした議論と実践の過程を、ここで共有したい。

 雑誌に寄稿した連載第一回では、「被害」ばかりを強調することで不正を行なう側の不当性を覆い隠し、当事者の抵抗のエネルギーを奪ってしまう報道のあり方への疑問と、それを乗り越える新たな独立メディア立ち上げの計画について書いた。

 こうしてリアルタイムで闘争の現場で起こっていることや、その中で持ち上がった計画について発信し、世の中に投げかける場が与えられたことを嬉しく思う。

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