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読み切り ちいたら散歩~GO TO キャンペーン下の金沢を歩く~ 前編

ポスト研究会では、今年、コロナ禍と呼ばれる状況においても、自分たちが出来ることはないか、逆にこの状況だからこそ出来ることがあるのではないかと、数々のトーク・イベントを企画し、そのたびごとに記録を動画とテキストにして発信してきました。
その派生として、春にはメンバーの一人、高原太一が「ちいたら散歩~コロナ自粛下のジモトを歩く~」を連載しました。今回は、GO TOキャンペーンを利用して訪れた12月の金沢で、見つけたもの、出会った風景をレポートしたいと思います。前・中・後編の3回企画です。

【読み切り】ちいたら散歩~GO TOキャンペーン下の金沢を歩く~(前編)

①乙女像との出会い
 金沢名物というカツ・カレーを食べて、路線バスに乗り込むと、私と同じようにGO TOを利用して各地から来た観光客で、バスのなかは混み合っていた。その大半が、若い女性グループで、当然のことだが、全員マスクしている。しばらくは窓の外の景色を眺めていたが、気がつくと、あんなに混んでいた車内には私しかいない。バスも市街地を抜けたようで、坂道を登っていく。「次は終点、千寿閣です」とアナウンスが告げる。一体「千寿閣」とはなんであろうかと訝しりながら、私はバスを降りた。

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 12月6日というのに、その日はすっかり暖かく、持っていたダウンコートは始終、私の腕に掛かっていた。千寿閣は、地域の高齢者施設で、トイレを借りたい、と思ったが、外部からの訪問はこの時世では厳しい。諦めて、今回の目的地である「長崎キリシタン殉教者の碑」を探す。

 この碑を知ったのは、家にあった「金沢おさんぽマップ」の地図を見ていたときだった。卯辰山(うたつやま)公園という「金沢市街を一望できる」公園のなかに、「長崎キリシタン殉教者の碑」が記されていた。なぜ、金沢に「長崎キリシタン」が?そして、それはいつの時代の「殉教者」だろうか?幸い、前日はある学会の研究会が入っていたが、この日は帰りの新幹線まで時間がある。ぜひ、この碑を見に行こうと決め、金沢駅で前日も一緒だったポス研メンバーと別れ、私はバスに乗り込んだ。

 歩き始めてすぐ、これはサンドイッチマンの「帰れマンデー」のような景色だなと思っていると、次のような看板を見つけた。

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 「ああ豊川海軍工廠 女子挺身隊 殉難乙女の像」。見るからに、右っぽい匂いがするが、しかし、なぜ豊川(おそらく愛知の豊川だろう)の海軍工廠の「殉難乙女の像」がこんな場所にあるのだろうか。看板の下の地図は、よく分からないが、とりあえず←100mを信じて、向かってみた。

 すると出会ったのが、相撲場であった。

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 今年はコロナで恒例行事であっただろう、相撲大会もなかったのか、草が観客席を被っていて、すこし廃墟感があった。それはいいとして、困るのが、クマである。

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 クマに人が襲われたニュースは、地球温暖化の影響もあって、今年何度も耳にした。実際、相撲場の周りを親子グマがウロウロしていても、まったく不思議ではないほど、人の気配はない。しかし、先ほどの不鮮明な地図を見る限り、この相撲場の裏手に「乙女像」があるのは間違いない。え~い、こここでクマに食われても、学者たるものこの先に進む、と蛮勇を奮い、クマ避けに舌でカンカンならしながら(効果があるかは全く分からないが)、相撲場脇の道を登っていった。そして、見つけたのが、この乙女像である。思ったよりも大きいことに驚いた。

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 解説の碑によれば、次のような歴史があった。「すぐる太平洋戦争の末期 昭和二十年八月七日午前十時三十分 愛知県豊川海軍工廠に敵機の大編隊が襲来し 一瞬にして二千四百七十七名の尊い人名を奪った 石川県女子挺身隊員五十二名もその惨禍の犠牲となって祖国に殉じた(中略)おとめたちの尊い死は その後十七年顧みられないで歴史の彼方に埋もれていた 中日新聞北陸本社が主唱し…(後略)」。

 つまり、このポス研でも「10月の『戦争』」というテーマでトークイベントを行なったときに話題になった学徒動員や女子挺身隊の歴史が、この地にも刻まれていたということだ。石川県の女子学生は、愛知の豊川まで行っていた。乙女像が出来たのは1962年8月7日。合祀者氏名には空襲で戦死した52名の全員が記されている。

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 家族や遺族は、この「乙女像」について、あるいは碑文の内容について、どう思っていたのだろうか。同じくポス研で、記念碑や銅像をテーマにトークを行なったので、そんなことも気になった。

②碑に次ぐ、碑、そして一枚の新聞
 思ったよりもハードな出だしに期待と困惑を抱きながら、一体この卯辰山というのは、どういう場所なのか、気になり始めていた。というのも、次から次へと碑に出会うのである。

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 前者は、1998年8月9日に建立された石川県原爆被災者友の会による「原爆犠牲者追悼碑」、後者は1965年9月14日建立の「鶴彬句碑」。鶴彬(つる・あきら)は、「現かほく市高松町に生まれた 1937年 反軍反戦的理由で「川柳人」誌を発禁処分とした所謂「川柳人社弾圧事件」のあと同年12月逮捕され、東京野方署に拘引、翌年の9月14日未釈放のまま獄中死した 享年29歳」の俳人であった。東京野方とは、近くに豊多摩監獄(小林多喜二や三木清ら政治犯が多く収監されていた)を控える、中野駅からそう遠くない場所である。そこで1937年に亡くなった俳人の碑が建てられたのが1965年、28年後のことだった。

 なんとも哀しい気持ちに襲われながら、この碑がある辺り(すこし日本庭園のようになっていた、なんとなく来たようなカップルたちが散策していた)をウロウロしていると、次に見つけた碑は、これまた大きかった。

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 近づいて見ると、「殉職警察官之碑」とある。裏に回ると、「昭和八年五月建之 警察協會石川支部」と書かれている。昭和8(1933)年に、なぜこのような巨大な碑が建てられたのだろうか。パッと日本史の年表を思い浮かべても出てこない。とりあえず歩きを続けた。

 そして、目的である「キリシタンの碑」を探すため、案内図を見ていると、この近くにもう一つ「殉職消防団の碑」があるのが分かった。ここらへん、というかこの山はどうも殉難や殉職、獄死など、大概が日本史と関わるような出来事/事件に巻き込まれて亡くなった者たちの碑に満ちているようである。いわゆる「忌み山」というやつなのだろうか、と思いながら、ひとまず「殉職消防団の碑」を見ようと、向かった。途中、地元の人らしいおじいちゃんに出会うが、スズをバッグにつけていたので、クマは本当に出るのだろう。

 そして、グラウンドゴルフ、つまりはゲートボールに勤しむ高齢者たちの脇で、天高く建っていたのが「殉職消防団の碑」である。先ほどの警官の碑よりは、少し荘厳さで劣るが、これも立派である。

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 後ろに回って見ると、「昭和十年七月建立」とある。つまり1935年に建てられたのだが、先ほどの殉職警官の碑(1933年)といい、この金沢で、1930年代前半、すなわち昭和前期に、このような「鎮魂の碑」(顕彰の碑ともいえる)が建てられないといけない、なにが起きたのだろうか?そして、中野・野方で治安維持法によって獄死した鶴彬の死は1938年である。これらが、もし一つの事件で繋がっていたら…と松本清張のような世界を夢想していたら、この消防団の碑からほど近いところでふと目に留まったのが、植え込みのなかに棄てられていた古そうな(でも汚れた感じはさほどない)新聞紙であった。

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 なんだか古そうだな、と思いつつ、発行された年号を見てビックリ!

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 「昭和38年6月26日」。まさかの東京オリンピックの前年!ついに、「時空警察」の見過ぎで、時空の裂け目に入ってしまったのかと思いました(笑)前日は雨で、この日も地面はぬかるんでいたのですが、この新聞は全然濡れている感じもない。一体、なぜここに?そして、誰が??

 この卯辰山、そうとう闇が深い場所かもしれません。そして、「長崎キリシタン殉教者の碑」はどこにあるのか?!中編に続きます。

【執筆者プロフィール】
高原太一(たかはら・たいち)

東京外国語大学博士後期課程在籍。専門は砂川闘争を中心とする日本近現代史。基地やダム、高度経済成長期の開発によって「先祖伝来の土地」や生業を失った人びとの歴史を掘っている。「自粛」期間にジモトを歩いた記録を「ぽすけん」Noteで連載(「ちいたら散歩 コロナ自粛下のジモトを歩く」)。論文に「『砂川問題』の同時代史―歴史教育家、高橋磌一の経験を中心に」(東京外国語大学海外事情研究所, Quadrante, No.21, 2019)。

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