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努力と同じくらい「判断」の経験を重ねなければならない

日本は努力が重んじられる。

努力を重ねる子が教師や親に重宝され、評価され、結果が出なくても過程が大切だ。お前は良くやったと褒められる。

それはそれで間違いではないだろう。

しかし、何か重要なことを見落としているような気もする。

そう、結果に対する評価項目が、努力などの「やる気」にばかりフォーカスされているのである。

確かに努力は大切だが、見当違いの努力を重ね続ける子が育ってしまったら大変だ。

サッカー選手になりたい子が、永遠にランニングの練習をしていても上手くなることはないだろう。

東京大学に合格したいなら、それに合った勉強法を選ばなければならない。

他のクラスメイトがしている勉強はバッサリ捨てて、自分の志望校にあったものを取捨選択する必要があるのだ。

志望校が違うのだから、みんなと同じようにばかりやっていてはならない。

つまり、何に集中して、何を諦めるかの「判断」の力も、同様にとても大切なのである。

それにも関わらず、判断よりも努力が圧倒的に重視されているのはなぜだろうか。

私は、日本の労働環境の中に答えがあると考える。

この国は、主には労働者で成り立っている。
莫大な数の労働者に対して、彼らを動かす起業家やオーナーが少数存在している。

そう、「判断」を下すのは、常にオーナーたちなのである。

直接言われることは決してないが、オーナー達は「労働者の判断能力」は重要視していない。

自分の考えた通りに働いて欲しいのである。

そして、何も考えずにひたすら努力することができる奴が最も都合が良い。

自分の思い通りに動いてくれて、自分の予想以上に努力してくれて、利益を会社にしっかり納めつつ、低賃金で働いてくれるからである。

私は日本の努力を重んじ、「判断」に重きを置かない教育に違和感を覚える。

国内の格差の構図が、小中高生の段階から作り上げられているのではないかと思う。

現代は、変化が異常に激しい時代である。

そんな中で何も考えずに生きていては、誰かの良い駒になってしまうことは避けられないだろう。

自分で考え、自分で判断する。

そして、判断したら必死で努力する。

努力をする前、している時、そしてした後。
全ての過程で、「判断」ができなければならない。

激動の時代を力強く生き抜く人材を育てたければ、「判断」に重きを置いた教育にもっと力を入れるべきだろう。

最適解を教える時代は終わった。

これからは、子供達が自分で課題と向き合い、解決しようと試行錯誤する必要がある。

頑張れ、日本の未来を支える子供達と教育者達!

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