プライド
「柴田さん、ご紹介いただいた京都の研究所の件、お願いしてもええですか?」
僕は、信楽を離れる決心をした。
喜美子の穴窯の自然釉の作品を昨日見た。
自分の支えがなくてもやってのけた彼女の強さ、ひたむきさ、情熱を目の当たりにして、どれをとっても自分が劣っている事を突きつけられた。
気がついたら、立ち尽くして泣いている自分がいた。
なんの涙だったのか。
わからないまま、頬を生温かいものが伝っていて、僕はそれを止める術もわからなかった。
男として彼女に愛されているのは理解しているし、自分もその点は揺るぎがないし、一生手を離さない覚悟もあった。
ただ、それは男と女としてであり、陶芸家の八郎としてはもうどうして良いかわからなくなっていた。ただ、ノートに『すごいな』と書くことしかできなかった。
本当は、すごいな、の後に沢山の言葉を込めたかった。だが、どんな言葉も今の自分には陳腐なものに思えてしまった。
すごいな
すごいな
すごいな
喜美子
同じ言葉を繰り返すだけになってしまった。
壊して前に進む。
その言葉を喜美子は体現したが、自分は、それがどうしてもできない。
そんな自分が同じ信楽にいてはお互いのために良くない、と信楽を出る覚悟を決めた。
柴田さんに紹介してもらった京都に行こう。そう思って挨拶に来た。
そこで柴田さんに「ええんか?ハチ、勧めたわたしが言うのも何やけど、このまま京都に行ってしもたら、奥さんに負けた、そう言われるで」そう言われ、僕は思わず「奥さんやありません。陶芸家の川原喜美子です」
と言い返していた。
僕は、最初から喜美子の才能を認めていて、ずっと世間に知らしめたかった。なのに、いつも世間は『奥さん』としてでしか、認めてくれなかった。
『川原八郎』と言う陶芸家のせいで。
僕は、穴窯をやり続ける喜美子を信じてやれなかった。
だからと言うわけではないが、彼女の足枷になる事は出来るだけ取り除いてやりたかった。
柴田さんに喜美子の為に信楽を出るのか?と聞かれたが、そこまでカッコいいものではないが、そうあればいいとも思っていた。
夫としてのプライドだ。
喜美子のことを、お願いします。
そう柴田さんに頭を下げて、信楽を出る覚悟を再度固めていた。
信楽の街を見下ろせる場所に八郎は登り、街を見下ろした。
10年住んだ地、新しい仲間も、家族もここにいる。
この先に続く道に何があるのか。
不安は大きいが、
喜美子の成功、武志の幸せをただ願い。信楽の地に礼をしていた。ふかく、深くお辞儀をした。
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