不登校に対する認識の違い
以前、不登校の子を持つ保護者としてある地方で講演した時、反応が二種類に分かれるのを感じました。
経験者からは、強い共感の言葉をいただきましたが、未経験な方や教育関係の方々は、違和感や疑問を抱かれているように見えました。
もしそこに悩んでいる最中の方がいたら、その反応を見て相談や利用を思いとどまったかも知れません。
これはしばらく前の話でして、今は不登校への関心が高まり、対応の選択肢も増えて来ました。それでも、閉塞感を感じている人は減りません。その理由の一部は、この立場による認識の違いであろうと感じています。
当時は保護者寄りだった自分ですが、そこからの数年で、先生達の気持ちや労働環境、子ども達の本音にも目を向けて来ました。
そして、家庭だけではなく、学校側も身近で不登校という現象が起きた時に揺れる気持ちを味わいながら、その揺らぎを擦り合わせにくいことを実感しました。
教員や保護者は多忙ですし、互いへの遠慮も期待もあります。そうして、家と学校とでは違うかも知れない子ども像を擦り合わせない、つまりは前提を共有しないまま関わり合いが進むことがあります。
けれどもこの現状をそのままにせず、大人同士の風通しを良くして、起点となる認識を共有できたら、各々の心理的な負担や時間が軽減でき、大人達の知恵や熱意、子ども本人のより良くありたいという気持ちや能力を噛み合わせる可能性も拡がるのではないでしょうか。
認識を変えることは簡単そうで簡単ではないですが、そこを取り上げてみることが、今必要だと感じています。
不登校に対する一般の認識
まず、子どもの不登校を経験したことのない方々が感じているであろうことを、「一般論」として整理してみたいと思います。
以前、私たちの活動がネットの記事になった時に寄せられた匿名コメントや、教育関係者の方々の反応を思い出してまとめてみましたが、もちろんこのような意見ばかりでは無いことは承知しております。
・親が甘やかしていたからそうなったんだろう
・子どもの怠惰じゃないのか
・他の子は平気なのに、なぜそんな些細なことで学校に来れなくなるのか(そのくらいがんばろう)
・そこまで丁寧に手を差し伸べる必要があるのか(過保護じゃないのか)
・いったい何が問題なのかわからない(個人の問題じゃないのか)
これらの言葉を向けられた時、とても傷つきますが、発している人達は、そこまで影響があると思わずに発していたりします。
そう言えてしまうこと自体、認識のギャップがあることを示しているのですが、単純に「知らないんだろうな」「感じ方が違うのだろうな」と割り切れる場合もあります。
グサリと来る時、その言葉の発信源はわかっているであろう近しい人達であることが多いようです。決して、万人にわかって欲しいと望んでいるわけではないのです。
不登校の子を持つ親の認識
子どもの不登校を経験した・している親本人も、子どもがそうなる前は未経験者の一人でした。
だから、上に書いたような感覚もわからなくはないし、その感覚で対応していた時期もあったりします。
けれども、それではなんの変化も生まない。そう気づいて認識を、対応を、変えて来たのです。
甘やかしじゃないのか、過保護じゃないのか、怠けてるんじゃないか、自分が何か間違っているんじゃないか、そう感じて我を省みる行動は勇気がいり、そう簡単にできるものではありません。
これまでの積み上げてきた生活を覆して組み直す。不登校の子どもに対応するのは、高速道路を逆走するくらいの方向転換。そういっても過言ではないくらいエネルギーが必要です。
そのくらい心の揺れ動きや生活の大きな変化を経験しているのですが、形として見え難いですし言葉にもしにくいです。
けれども、少しずつ子どもの気持ちに近づけているような実感や、小さな変化を喜べる初々しさみたいなものも感じていたりするのです。
その最中で、一般論を向けられるのは、揺れている小舟に大波が押し寄せるかのようなこと。
コツコツ再構築してきた気持ちが振り出しに戻されるような気がしたり、その小さな気づきや変化が全く無意味かのように感じたりしてしまうんです。
一般論はあくまで一般論です。立場をともなっていたとしても、ガイドや支援の前にひとりの人として相手を見る。そして感じること。これは、時に言葉よりも大切でしょう。
せっかく教えてあげたのに。
助けになるかと思ったのに。
このままだと将来が心配なのに。
など、無力感や不甲斐なさを感じるかもしれませんが、その感覚を持った時こそ、通じ合いたい人との接点が見えてくる時かも知れません。
立場が変われば、自分が従うべきルールも、守っておきたい人間関係も、見える景色も違いますが、互いに上下関係に立たずに同じ目線で関わることで、新たに生まれるものがありそうです。
認識の違いを作っているものとは?
認識の違いは、個人の価値観だけでなく、その個人が置かれている環境も反映されていると考えています。
まとめるのは難しいのですが、あえて羅列してみると以下のようなことになるでしょう。
時代の変化とともに、子ども達を取り巻く環境が大きく変わり、ストレッサーが増えていること。
子どもに持って欲しい力が変わりつつあり、多様性尊重と言いながら、学校の中に柔軟性がないこと。
子どもを支える学校の先生や保護者が忙しく、検討や対応する時間や気持ちの余裕を持ちにくいこと。
こんなところかと思っています。
どれも、社会の変化や構造的なことに関連していて、個人の力で変えられるようなことではありません。
だからこそ、問題を自己責任論に終始させたり、対応する人にスピード感やわかりやすい成果を求めないこと。
そして、起きていることを持ち寄りあえる人達と、善悪判断なしに色々な角度から考えてみることが大切だと思います。
一般論を柔軟化してみる
さっそくですが、先ほどあげた「一般論」を、違う角度から考えてみましょう。
どうしても、保護者寄り、当事者寄りの見解になっているかと思いますが、いつもとは違う角度から見るための材料にしていただけたら幸いです。
・親が甘やかしていたからそうなったんだろう
・子どもの怠惰じゃないのか
・他の子は平気なのに、なぜそんな些細なことで学校に来れなくなるのか
・そこまで丁寧に手を差し伸べる必要があるのか
・いったい何が問題なのかわからない(個人の問題じゃないのか)
認識の違いを埋めるために必要なこと
それは、今所属している場所での同調や協調よりも、この先の長い未来を生きる力、根っこを育てるという気持ち。
そして、「そこまで必要?」と周りに思われても、丁寧に気持ちを汲み取ったり、やってみたいことを一緒にトライする。
そんな寄り添いではないでしょうか。
これは、過保護ではなくむしろ個々人のなかにある力を信じて見守る姿勢です。
はじめは、責められて凹んでいた子達も、周りの工夫や配慮、根気強い寄り添いの積み重ねによって、自己肯定感や他者を信頼する気持ちをしっかり溜めています。
そして、自然と学習にも気持ちが向いています。
これは、困りごとをパーツや分野に割り振ったり修正を試みるだけでなく、心の基盤に電気を通すような関わりが必要であることを示していると思います。
その電気を通す線は、太くて確実な一本線ではなく、細くても抜けない線の束。
気にかける目やさりげない配慮、周りの大人が和気藹々とする姿や美味しいご飯、綺麗な景色など、些細な営みやさりげない関わりが束となって電気が通う。人ってそんな生き物のような気がします。
なんとかしようと思うならば、当たり前を疑ってみる。
もしモヤモヤしたりわからなければ、鎧を脱いで訊いてみる。
そんな小さな勇気、今までとは少しだけ違うアクションが、大きなきっかけをもたらしてくれるようです。
長くなりましたが、まとめて言えば、認識の違いを融合させていくためには、認識に至る前の気持ちの段階で話してみることが大切ということになりそうです。
対話のできる場が増えていくことを、心より願っております。
ひとり一人に合った教育環境の実現を目指します。