詩を中心に、中野重治について

中野重治年譜(一九〇二~一九七九)

一九一九 旧制第四高等学校文化乙類に入学

一九一九~二一 校友会雑誌『北辰会雑誌』
 短歌、「塵労鈔」(四編)

一九二三 関東大震災のために疎開していた室生犀星を訪ね、以後関わりを持つ
一九二四 東京帝国大学文学部独文科に入学

一九二五 文芸雑誌『裸像』…大間知らと創刊
 「浦島太郎」~「浪」(二〇編)
  ※「大道の人々」は一九二三年に新聞に投稿か

一九二六~二七 文芸雑誌『驢馬』…窪川鶴次郎、堀辰雄らと創刊
 「たばこ屋」~「彼が書き残した言葉」(二一編)
  ※「豪傑」は未詳、「帝国ホテル」は『辻馬車』に、「「万年大学生」の作者に」は『文藝戦線』に、「道路を築く」は『無産者新聞』に発表

一九二七 日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)中央委員として、機関誌『プロレタリア芸術』を編集
一九二八 全日本無産者芸術連盟(ナップ)常任委員として、機関誌『戦旗』を編集
一九三〇 原政野と結婚。治安維持法違反容疑で逮捕、年末に釈放出所
一九三一 日本共産党に入党。ナップ出版社版『中野重治詩集』の製本中に警察が押収

一九二七~三一 様々な雑誌に寄稿
 「新聞にのった写真」~「今夜おれはおまえの寝息を聞いてやる」(一四編)
  ※『プロレタリア芸術』に発表したのは「新聞にのった写真」、「兵隊について」、「法律」、「やつらの一家眷族を掃き出してしまえ」、「壁新聞をつくるソ同盟の兄弟」の五編

一九三二 日本プロレタリア文化連盟(コップ)の大弾圧で逮捕
一九三四 懲役二年執行猶予五年で出所(転向)
一九三五 ナウカ社版『中野重治詩集』が三四頁分を切り取られて刊行
一九三五~三六 転向小説五部作を執筆

一九三六~四一 様々な雑誌に寄稿
 「画壇の英雄」~「古今的新古今的」(一〇編)
一九四五 招集を受け長野県に駐屯。その場で終戦を迎える。同年共産党に再入党

一九四六~四七 様々な雑誌に寄稿
 「きくわん車」~「取つて二十五へ」(三編)

一九四七~五〇 参議院議員として活動

一九五七 「竜北中学校校歌」

一九六四 部分的核実験停止条約問題をめぐって共産党から除名

一九六四 「丸山中学校の歌」


●『驢馬』(一九二六・四~一九二七・三)

・室生犀星が資金援助
・編集は窪川鶴次郎、中野重治、西沢隆二、堀辰雄、宮城喜久雄
・寄稿者に芥川龍之介、室生犀星、百田宗治、千家元麿、佐藤惣之助、佐藤春夫、萩原朔太郎らがいる
「同人共通の主義を構えず、室生を慕う若い詩人たち個々の禀質を育てる雑誌だった」
(佐藤健一「驢馬」『現代詩大事典』)


●プロレタリア運動内の対立・結合(一九二七~二八)

・労働芸術家連盟(労芸)…『文芸戦線』
・日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)…『プロレタリア芸術』
・前衛芸術家連盟(前芸)…『前衛』
※プロ芸と労芸の分裂(一九二七・六)、労芸から前芸の分裂(一九二七・一一)
 →プロ芸と前芸が合同、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が成立(一九二八・三)
全日本無産者芸術連盟(ナップ)…『戦旗』
芸術大衆化論争(一九二八・六~一九二八・一一)
 :中野重治〈芸術の面白さは芸術性そのものにあり、その価値は表現の素朴さと甚大さによって決まる〉
  鹿地亘〈我々の芸術はプロレタリアートの激情を組織化する〉
↓反論
  蔵原惟人〈中野の論は理想論・観念論である〉
      〈大衆を文化的に高めるような芸術形式確立の運動と、大衆に宣伝・扇動する運動の二つが必要だ〉
↓反論
  中野重治〈大衆の文化的な低さは政治的な問題だが、芸術家は大衆教化をも自身の仕事にする必要がある〉
      〈芸術形式による解決と、芸術を二方向に分ける考えは誤りである〉


●中野重治の詩論

『批判者』は言ふ『自然を見てよろこびを感じたり、子供に死なれて泣きながら骨上げするのはプチ・ブル的だ。我々の同志は、あるものは刑務所にゐる(…)じゃないか』
 しかし一たい××(引用者注:伏字は「何が」か)(…)時あつて僕らに、わが子の骨上げもできないやうに強制するのか? ××我々に一すじの日光も与へず、二年も三年も一片の青空も見ることなしに密室に閉ぢこめておくのか? 僕らは元より豊富で複雑な生活を要求する。僕らが人間的欲求の満足をすべて押へられ、資本家のための機械の一ぶにされてゐることに反対する。その為にこそ時あつて、二年三年の長い間草木の芽生えを見ないことをも承知するのだ。だから僕らの自然に対する欲求は全く強い。(…)涼しい木陰で打ちとけて話し合つたり、海水や河水を浴びたり、季節々々の祭の催し物をしたり、さういふすべての天然の、自然の、島やケダモノや草木やの眺めをほしいままにしたいし、せねばならぬのだ。(…)
最後に、では僕らは言葉としての×××××××(引用者注:「党のスローガン」か)といふやうなものを詩に入れてはならぬかどうかといふ問題は考へてみよう。これは今までに書いたことからして明白だ。勿論入れていいし、入れねばならぬ。ある場合にはあるスローガンそのものが詩の標題になることさへあるだらう。がそれは言葉としてのスローガンをその詩の取り扱う何かの話の上で結びつけることではない。そのスローガンの言葉を情緒をつたへる詩の言葉として使ふ事であり、労働する人間の感情をうたふことがそのスローガンの言葉になる、つまりそのスローガンの言葉が情緒の結晶した姿であるという意味で使ふのだ。(…)
 僕らが『幻想のため』にでなく『真実の要求のため』に戦ふものである以上、(…)この要求のふれるあらゆるものを歌ふ。(…)魚や虫や水や煙をうたふ。それは僕らが、裏切りものに対する憎悪(…)をうたふのと違はない。

中野重治「詩の仕事の研究」(『プロレタリア詩の諸問題』中野重治編、一九三二)https://dl.ndl.go.jp/pid/1213949/1/17


●中野重治の詩史理解

 日本に新しい詩の運動が始められて以来幾人かのいい詩人を私たちは持つた。そしてその詩人達の出発は、抑圧され監禁されて来た彼らの感情の開放を以ていつも企画された。(…)それは旧来の詩歌観、倫理観、考へ方一般に対する、かういふやり方での宣戦だつた。(…)
 だが彼らの思索が戦ひであつたといふのは、彼がそれを意識して居たといふことではない。彼はその感情と感動とが何に由来するか見究めては居ない。彼は何よりもまづ歌つたのであり、歌ふことに急いだのである。だからそれは既成の詩歌観、倫理観、考へ方一般に対しては――客観的には、即ち存在としては――戦ひだが、それ自身のための――主観的の、即ち主張としての――戦ひではなかつた。従つて彼は、主として恋愛、そして軟弱なものとして当時眼隠し的に排斥されて居た勘定の開放を、それとして歌つたのであつて、恋愛を蔑視するもの、彼にとつて忽せにし得ない協力な真実を軟弱だとして排撃するものに対する反感や反抗やは、それ自身直接には彼の歌の対象となり得なかつた。それの一歩手前のもの、即ち彼の意味に於ける感情の開放は、彼の詩人としての才藻と推移する時とによつて、一と先づそれとしては完成された。そしてその完成が、同時に、その後起つた自由詩の運動の土台となつて行つたのである。萩原朔太郎氏等の感情詩社の運動もこの自由詩の運動の一つとして起つたものに外ならない。古い形に盛られた古い感情は歌はれ尽した。そして古い形をたたきつぶすための仕事を感情詩社の人達がどんなに旺にやつたかは人が知つて居る。
 古い形はたたきつぶされた。そして新しい形が創られた。新しい感情と感動はのびのびと手足を伸ばして行つた。だがこの時もやはり、その新しい感動がどこから来たかは考へられなかつた(…)(言ふまでもなく新しい感情がのびのびと手足を伸ばして行つたといふことは、のびのびとした感情が手足を伸ばして行つたと言ふのとは違う。新しい感情はむしろ、つらい、淋しい、不幸な、我慢のならないものを多く含んで居たのだ。萩原朔太郎氏に就て言えへば、「月に吠える」と「青猫」との殆ど全作品がそれを示して居る。)「月に吠える」が現れ「青猫」が現れた時、人々は関心し、けれども彼らを関心させた表現を必要とした感情がどこから来たかを明かにしなかつた。(…)彼らがそれを明かにしなかつたばかりでなく当の萩原氏自身も明かにしなかつた。もし氏がそれを明かにしたのであつたなら、恐らく私達は別の「青猫」を持つただらう。そこには恐らく幾分の憤怒が盛られたらう。実際には憤怒は盛られなかつた。憤怒は、「郷土望景詩」に至つて初めて洩らされた。鋭くめづらしく、「洩らされた」と言ふよりも吐き出された。元来私達は憤怒の歌を殆ど持たなかつたしまた今も持つて居ない。今私達の求めるものの一半がその憤怒の歌にあるのに。

中野重治「郷土望景詩に現はれた憤怒」(『芸術に関する走り書的覚え書き』一九二九)https://dl.ndl.go.jp/pid/1171575/1/133

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