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不信心者と戒名

 昨年、母方の大叔父が亡くなった。
 私から見るとだいぶ遠縁になる方なので、ご時世もあって葬儀には行かなかったのだが、母親や祖父母は参列した。

 大叔父の奥様と私の祖母は、お嫁さんと小姑の関係に当たる。嫁姑問題の亜種として、不仲になりがちな立ち位置のふたりなのだが、妙に共通項が多く仲がとても良い。

 大叔父が亡くなってから、葬儀が行われるまで、諸事情があって二週間ほどかかったのだが、その間にも奥様は私の祖父母宅を訪れ、あれこれと葬儀に関する愚痴を零していたらしい。主に、葬儀の費用面の愚痴だ。

 曰く、私の地元では寺がひとつしかなく、葬式商売が独占状態にあるため、檀家寺の住職がお布施の値を吊り上げているのだそうだ。
 本来「お気持ち」であるお布施を、住職が吊り上げるとは不可解な話であるが、葬儀に際してお寺のほうから要求があったそうである。

 今後のことも考え、仕方なく檀那寺に言われるままのお布施を出したそうだが、奥様は大層おかんむりであった。おかんむりついでに、香典返しの原価まで教えてくれた。そんなことまで言わなくていいんだよ、おばちゃん。

 もちろんすべてのお寺がこうとは思わないが、葬儀のあり方も多様化する現代において、私の地方の状況は健全とは言えないだろう。話を聞いた我々としても、不条理を感じながらもいかんともしがたい。
 特に、大叔父の家は檀家寺の敷地内に墓を持っているので、寺との関係悪化は避けたいところである。ご先祖様を人質に取られているようなものだ。
 そのような事情もあって、泣き寝入りせざるを得なかった奥様は、祖父母宅にて鬱憤を晴らしていかれたのだった。


 身近なひとの死は、悲しく寂しいものであると同時に、年長者にはいずれ訪れる己の最期を意識させる。祖父母も、それぞれに大病の経験があることもあり、自身の葬儀について考えるきっかけになったようだ。

 ところで、祖父母の檀家寺は件の悪徳寺ではなく、真言宗の某寺である。
 寺関連の諸事はすべて祖父が管理しているため、祖母は毎回お盆にやって来るお坊さんがどこから来た何宗の方なのか、全く知らなかった。辛うじて仏壇の掃除くらいはするが、神仏への敬意はあまりないひとなのである。

 では祖父のほうが信心深いのかと言うと、こちらはもっと酷い。
 田舎出身であれば、お盆にお坊様がいらして、仏壇にお経をあげていく、というイベントに馴染みがある方も多いのではないだろうか。例に漏れず祖父母宅にも、軽ワゴンを乗り回すお坊様がいらっしゃる。
 先述のとおり、祖父母宅の檀那寺は真言宗なので、お坊様は長いお経ではなく、短い真言を唱えて供養をしてくださる。自然とスピーディーな供養になるので、お茶を差し上げる間もなく、お坊様はお帰りになってしまうのが常だ。

 ある夏、私がお坊様を見送って、手際のよさに感心していると、畑仕事から帰ってきた祖父が「坊主は帰ったのか」などと言う。帰ったと答えると、祖父はよしよし、と頷いてから、
「あんなに短い間のお祈りで、本当にご利益があるんですかと毎回聞こうと思うんだけども、あんまりすぐに帰るから、毎年聞き逃すんだよなぁ」
という、実に罰当たりなことを言い出した。

 祖父母の家では、一事が万事こんな調子である。彼らにとっては神仏にまつわるあれこれは、「まあやっておけば間違いはない慣習」程度の意味合いしかないらしい。ふたりとも自分のペースで生きている人間なので、神仏にすがる必要もないのだろう。
 これが仏教説話の世界であれば、この不信心な夫婦にはそろそろ仏罰が下るころであろうが、ここはあいにく現代日本だ。今日も彼らは息災である。


 そんな神――否、仏をも恐れぬ祖父は、大叔父の逝去に際し、自身の葬儀について考えたらしい。
「俺が死んだら寺との付き合いも終いだから、何なら寺を入れないで葬式をやろうかな」などと呟いた。
 実際問題、祖父母家の親戚づきあい及び寺づきあいは、祖父がすべて管理しているため、祖母や私たちはノータッチである。今後世話にならないことを示すためにも、けして悪い案ではない。
 昨今ではお寺を介さず、最後のお別れとして葬式を行うひとも増えている。生前葬という方式も、一時期話題になった。わが祖父ながら、なかなか時代の最先端を行く爺である。

 しかし、ここで話の矛先が私に向いた。
「俺の戒名は港につけてもらおうかなぁ!」ときたのである。
 戒名とは、位牌に刻んである長ったらしいあのお名前のことである。厳密には仏門に帰依したひとに与えられる名前のことなのだが、今日では故人の死後の名前として認識されている。
 お寺につけてもらうのが一般的だが、戒名にもグレードがあり、良い戒名(高位の戒名)をつけようと思うと割増料金になるケースもあると聞く。これも、大叔父の奥様は檀那寺に勧められて高額な戒名をつける羽目になったらしく、怒りポイントのひとつであった。
 その話を踏まえて、身内につけさせれば一銭とてかからないというのが祖父の案である。もちろん、私は僧籍でも何でもない。文系に対する篤い信頼を、こんなところで披露されても困る。

 生前葬では自身が好きなものにちなんだ戒名をつけ、位牌まで作ることもあるらしく、インターネットで検索すると大喜利のような戒名が複数ヒットする。
 それを見た祖父はいよいよ調子に乗って、「釣りが好きだからなぁ、『釣果』とか入れたいなぁ」などとご機嫌だ。

 母は母で、「それするのはいいけど、ちゃんと遺言で書いといてね」とのんきである。私の母も、信心深いとは言い難いひとなのだ。祖母もほけほけと笑うばかりで、反対するはずもない。

 ここまで書いておきながら私自身、無神論者であるので、寺を入れない葬式をするのは全く問題ない。だが、戒名を私がつけるとなれば責任重大だ。祖父には少しでも長生きをしてもらって、考える時間を延ばしてもらわねばなるまい。
 古典文学など読んで知識をつけ、いつか訪れるその日には、気の利いた戒名がつけられるようにしておこう――何だかんだ祖父母に弱い私は、そんなことを考えてしまうのである。


 なお、祖父自身も楽しそうに、自分の戒名案を考えていたのでご紹介しよう。
爺:「釣果……名前が太郎(仮名)だからな……」
私:「ああ、戒名には俗名も入れるよね」
爺:「ナントカカントカ太郎釣果無ちょうかなし
私:「無いのかよ!!!」

 ――いや、無くていいのかよ。
 本当に、末尾はそれにしちゃうからな!!!

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