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しるこサンドともう会えないひと

 ある日のお茶の時間のことである。私は時折、お師匠様(仮称。私の専門分野の先達)の勤める職場に武者修行に伺っているのだが、そこでは10時と15時のお茶休憩が徹底されている。実にホワイトな職場である。

 その日のお茶請けはお土産にいただいたしるこサンド、それも抹茶味であった。素朴ながらしっかりとした食べ応えがあるしるこサンドは、根強いファンが多い商品だ。もちろん私もその一人である。
 私がうきうきと飲み物を用意していたとき、ふとお師匠様が懐かしそうにつぶやいた。

「――私のおばあさんが最後に買ったのは、しるこサンドだったんですよ」

 そうしてお師匠様が語った思い出は、以下のとおりである。

 お師匠様のおばあさまは、一生の最後を病院で過ごされた。亡くなられたのはコロナウィルスのパンデミックがおこるずっと前であったので、お師匠様たちはおばあさまを無事に見送ることができたようだ。
 そのおばあさまとお師匠様が、病院の購買に寄って必要なものを買っていたときだ。お師匠様がおばあさまに、何か欲しいものはないかと尋ねると、おばあさまはしるこサンドの袋を持っていらしたのだという。それがおばあさまの、最後の買い物になった。

「それでねぇ、ちゃんと私にひとつ寄越すんですよね。なんとなく食べそびれて、まだ車のダッシュボードにありますよ。何年も前ですから、もう食べられないでしょうけどね」

 そう話を結ぶと、お師匠様はコーヒーを啜った。

 この小さな思い出話から私は、祖母と孫の関係だとか、これからもずっとお師匠様の車に積まれるだろうしるこサンドだとか、小さな焼き菓子を見るたびに想起されるであろう故人と生者の確かな交流だとかを読み取ってしまって、だいぶ精神的に掻き乱される羽目になったのだった。

 我ながら読解力と想像力、或いは妄想力とさえ言えるようなものが、ひとより鋭敏である自覚がある。日常に潜む確かな人間どうしの交わりを目ざとく見つけては、勝手な推測を多分に交えたストーリーを構築して、ひとりであわあわしてしまう。楽しいんだか難儀なのか、自分でもよくわからない。

 そんな過去と感情の凝縮を拾い集める私にとって、このしるこサンドの話は、過剰なまでの刺激物であった。

 「人間は二度死ぬ」という言葉を遺したのは、永六輔氏である。「人間は二度死にます。まず死んだ時。それから忘れられた時。」私はしるこサンドとお師匠様の思い出を通してはじめて、この言葉を本当の意味で納得することができた。
 「故人が生者のなかで生き続ける」ということがどういうことなのか、こんなにもまざまざと目にする日が来るとは、思ってもみなかったのだ。
 私も少なからず、死というものに触れてきた覚えがある。何人ものひとびとが、私の中で思い出になっている。それがこの先何十年も、私とともにあり続けるのだということを、愚かにも私は、このときにやっと理解したのである。

 多分これから、私ともう会えないひとを結びつけるものが、この現世に増えていく。それはとても寂しくて、とても穏やかなことなのだろう。

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