見出し画像

宙ぶらりんの含羞――或いは自己診断という羞恥心との戦いについて

 自動車免許をお持ちの方ならば、運転適性検査を受けたことがおありだろう。免許がなくても、就職活動に伴う自己診断などで、あるいは単なる暇潰しに、似たようなことをなさった方もいるかもしれない。
 私も例に漏れず、かなり詳細な設問に答え、機械的に己の性質を分析されるという、腑分けでもされているような仕打ちを幾度も乗りきっている。

 その度に私は、傍目にはわからないだろうが、ひとり鉛筆を片手に葛藤し、恥じらいを覚え、憤慨し、妥協している。
 本記事は今まで私が、「自己診断」を受けながら感じていた自意識の悲鳴の記録であると同時に、専門家へと教えを乞う質問文である。果たして誰に聞けばいいのか、全く想像がつかないので、ネットの大海に文章を垂れ流す所存だ。有識者の回答をお待ちしている。


 まず私の前に立ちはだかるのは、「自分は〇〇ができる」――YesからNoまでを五段階評価――というような設問だ。〇〇に当てはまる事項は、たいてい善行・模範的行動である。
 シンプルに考えれば、日頃の行いを思い返し、自分なりの評価を下せばよいのだろう。
 ところが、私のようにひねくれた人間は、ここで迷いなくYesとは叫べないのである。

 もちろん私は、常にお天道様に顔向けできないような生き方はすまいと心に決めている。今日を命日と思い、いつ死んでも悔いがない日々を送るべく、志だけは高潔でありたいと願っている。
 しかしながら、いくら意識を高く保ったところで、所詮は人間のすること、実生活が思うように伴うとは限らない。むしろ、伴わないことのほうが多い。故にこの問いに対する私の思考は、以下のとおりである。

「いや、そうありたいと願ってはいるけれども、いつもいつも最善を選べているわけじゃないしな……気づかずにスルーしたり、失敗したりしてしまうこともあるしな……中間かNo寄りの回答にしておこう。」


 ――このような思考を経てこのような回答に至るのは、私だけではないはずだ。カシオミニを賭けてもいい。

 もしこれが、「自分は〇〇であるよう努力している」というような設問であれば、私は何の迷いもなく、Yesを選択するだろう。努力していることは間違いないのだから、なんの後ろめたさもなく己を肯定することができる。
 裏を返せば、不確定要素が多く、失敗する可能性がわずかでも存在するものごとについて、特に倫理的・感情的判断が絡んでいて間違いのない答えが存在しない「善行」や「模範的行動」に関することで、自分は常に正しい行動がとれていると、なんのてらいもなく肯定することは、私にとっては後ろめたいことなのである。

 だいたい、このような問いにおいて、「まあ人間なんだから、そう毎回は上手くできないけども、なるべく頑張っているよ」という善良な小市民的回答が用意されていることはまずない。中間の選択肢「どちらでもない」「場合による」が用意されていれば、まず良心的である。

 或いは、無難な回答を用意するとばらつきが出ないから、極端な答えを求めるのだろうか。
 そのような事情があるにせよ、たいてい極端なYes・Noでは自分の答えのニュアンスを表現することは難しく、「同じYesでも思考の過程によっては全く意味合いが異なるのではあるまいか、いやそれすらも計算にいれてこの検査は作られているのか?」という疑問を抱かずにはいられない。すべて計算ずくだとすれば、それはそれでものすごいものだ。


 ここまでの記述を読み返すに、我ながら実に面倒くさい。

 面倒くさいついでにもうひとつ。私は、「常に相手の立場に立って物事を考える」というフレーズが大嫌いだ。したがって、「あなたは常に相手の立場に立って物事を考えることができるか」という質問に対しては、迷いなく「No」と叫ぶ。
 相手の立場や認識、意見、感情を常に意識し、円滑なコミュニケーションを図ることは、非常に大切なことだ。人間関係における想像力の欠如は悲劇的な結末を招きかねない。それは、私も重々理解している。
 しかし、だ。想像力が欠如することと同じくらいには、「自分は相手の立場に立って物事を考えることができる人間だ」という思い込みもまた、危険なことではないだろうか。

 私は自分が偏見にまみれ、凝り固まった人間になることがたまらなく恐ろしい。最早、過剰な恐怖と言ってもいいほどに。
 そして偏見から逃れるためには、己が偏見にまみれた人間であることを自覚・反省し、未知の物事に対する柔軟さと謙虚さを失わないことが必要であると、常日頃心掛けている。偏見にまみれないために、偏見にまみれた自己を自覚するという、なんだかとんちのような話だが、目下これが最も有効な策である。

 このような(ひねくれた)意識を持った人間にとって、「あなたは常に相手の立場に立って物事を考えることができるか」という設問が、いかに腹立たしく滑稽なものであるか、お分かりいただけるだろうか。
 この問いを前にした私の心中はこうだ。

「いや、そりゃ当然相手への気配りや理解を忘れないように頑張ってはいるけれども、私はそんなにできた人間でもないし、第一ほんとうに相手の立場を完璧に理解するなんてことは、他者にとっては不可能じゃないか。
努力はしても、『相手の立場に立って物事を考えることができている』なんていう自己評価は傲慢だし、あまりに危険な思い上がりではなかろうか――設問のニュアンス的には『考えて』いればYesでいいんだろうけど、ここで臆面もなくYesと答えるのは己の信条に反する。嫌だ、絶対に嫌だ――!!!」

 とまあ、ここでも私の足を引っ張るのは「後ろめたい」という感情だ。言ってしまえば、私は善人であると自称することに猛烈な「後ろめたさ」を抱き、羞恥心を覚える。
 自己分析が正しければ、この感情の根源となっているのは、謙虚さへの憧れと慢心への恐怖だ。――などと言ってはみるものの、実際には「ちょっと悪ぶりたい」というような、子供じみた動機なのかもしれない。

 兎にも角にも、私は自己診断を受けるたびに、この「後ろめたさ」と戦う羽目になっている。そして、大方の場合この感情に敗北し、露悪的な回答を提出することになる。

 先程も少し触れたが、私が常々気になっていることは、設問に対してこのように葛藤し、このようなプロセスで回答を決定する人間がいることを計算に入れたうえで、診断が設計されているのかということだ。
 毎度毎度、私は質問のニュアンスをくみ取りながらも、文面に反発し、空気を読まずに回答している。繰り返すが、なんとも面倒くさい人間である。気になるのは、このようなひねくれた回答をしていて、ちゃんと設問の意図に適っているのか、ということだ。
 私としても、質問者に意地悪をしたいわけではない。己の心に正直になった結果として、勝手に葛藤し、妙な回答を繰り出しているだけなのだ。もしもこれが質問者の迷惑になり、間違った診断結果を誘発するというようなことがあれば(アンケートの外れ値になってしまうなど)、私も己の羞恥心と戦う覚悟はできている。
 もし、統計学や心理学などに明るい方がおられたら、是非ともご教授いただきたい。

 最後にひとつ明記しておきたいのは、あくまでもこの「後ろめたさ」は常に自分にのみ発動する感情だということである。「後ろめたい」という感覚自体が、自分に対する嫌悪感であることは言うまでもないし、このような設問に対して、朗らかにYesと答えられる人を私はけして嫌悪しない。むしろ憧れさえ覚える。
 この文章を書いていてなおのこと、己の面倒くささにほとほと嫌気がさした次第だ。行き場のない羞恥心が私を襲う前に、筆を置くことにする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?