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働くを考える話②上京編



東京生活の始まり

さっそく新しい仕事が始まった。

今までとはガラっと違う分野。発達障害を中心に、療育支援を行っているクリニックだった。0歳から小学生くらいまでのお子さんとそのご家族たち。

すべてが新しく、知らないことだらけだったが、想像していた以上に生活に馴染むのは早かった気がする。

何より、勉強することが本当に楽しかった。


キャリーケースをガラガラ転がして見学に来たことと、福井弁のイントネーションは散々いじられたが、アットホームな職場だった。

東京の人は冷たいと聞いていたけれど、ここでは、いい出会いが沢山あった。

初めて仕事のことを本音で話せる先輩にも出会えた。その人は男の子4人を育てるパワフルママだったが、その元気な働きぶりとカラっとした性格が大好きで今でも大尊敬している。働くことが大好きな人だと思った。

生き生き働く女性が凄く好きなのだと、改めて実感する。


この頃に、子供の足の発達について勉強し始めた。

私が靴作りを始めることになった、本当に最初のきっかけの場所。

この話はまた今度。


孤独と向き合う


仕事は順調に進む一方で、母の様子はあまり良くなかった。

月に1回は地元に帰省していたが、母の様子をみてそのまま東京に戻る。

家族の空気もどんよりとしていた。

手術で胸を切除し、抗がん剤治療が始まっていた。

毛が抜け落ち、食事も手を付けられずに横になっている母を見ていると、何も出来ない自分に嫌気がさした。

そんな家族の空気を残したまま、後ろめたさを抱えてまた一人で東京に戻っていく。

東京の部屋に戻ってきても気持ちが休まることはない。

一緒に住んでいた彼とも上手くいっていなかった。生活リズムはすれ違い、価値観のズレを受け入れることもできず、一緒に居ることが苦しく感じる。

段々と、気持ちに余裕がなくなっていった。

友達のSNSを見る事さえも嫌になる。誰かに連絡をするのも億劫になった。


『ストレスでハゲそう』と冗談で言っていたら

ある日、本当に禿げた。

頭頂にできた10円玉くらいの円形脱毛が、徐々に広がって500円玉2枚分くらいのハート型になった。

そのハートのおハゲをみた時は、ショックを通り越して笑ってしまった。

その後、彼とも別れる事にした。


誰にも言えない弱音を抱えて、東京に独りぼっちだと思った。

でも全部自分が選んだ道だ。

仕事帰りの電車のホームで、ぼーっと考え事をしていた。

到着した電車から、雪崩のように人が降りてくる。サラリーマン風のおじさんと肩がぶつかってしまい、舌打ちされた。

駅からの帰り道、涙が溢れて家までの道が果てしなく遠く感じられる。

少しでも気を抜いたら崩れてしまいそうで、強く居ないと何かに飲み込まれてしまいそうだった。


立ち止まっていても時間は流れる


あの時期は、どう考えても完全に病んでいた。

追い込まれるまで気づかない鈍感さと、人に頼るのが下手くそな自分に呆れるが、自分自身と向き合う良い時間だったのかもしれない。


髪の毛も、いつの間にかちゃんと生えてきた。

時間が解決するというのも本当だと思う。

母も少しずつ元気になり、東京に遊びに来てくれるようにもなった。


どうやって立ち直ったのかは、覚えていないけれど気づいたら元気になっていた。

きっと、友達や家族の方がその時の事を覚えているのだと思う。

時々昔の話になって、あの時大変だったね。と言われるけれど、そんなこともあった気がするなぁと思う程度で、あまりピンと来ない。

もちろん楽しいことも幸せな事も沢山あった。

“いつでも帰っておいで”と待っていてくれる人達が居る事に、帰る場所があるという事に、どれだけ支えられていたか。


三国に帰る度に、ゆっくりと景色を眺める

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あぁ、帰る場所があるから頑張れるのか。

心底思わされた。当たり前のように広がっていたこの景色の豊かさも、人も、空気も、食べ物も、全部全部。

三国の人が、三国を好きだと言う理由が良く分かる。

具体的な言葉にはできないけれど。



新しい生活

東京に来て2年が経とうとしていた。

もっと長い間居た気がするけれど、まだ2年しか経ってない。

仕事では、さらに勉強したい事が増えた。もう少し大きい場所で、色々な経験を積みたいと思うようにもなった。

それと同じくらい、組織を作る側になってみたいとも考えるようになった。

色々な心境の変化があった時期。じっくりじっくりこれからの事を考えていた。


その時はアットホームな職場で伸び伸び働けていたが、個人の小さなクリニックとあって経営も組織としても未熟で不安定だった。

だからといって大きな組織に属すことが苦手なのは1年目に気づいている。

でも、やっぱり、、見てみないと分からない。


地元を出るとき、東京に住むのは3年、長くても5年と決めていた。

限られた時間の中で、出来る限りのことはすべて吸収して地元に帰ると決めていたので、フットワークはかなり軽かったと思う。

むしろ動いていないとダメだと思い込み、かなりハードに動き回っていた。


色々な場所に行き、話を聞き、動き、悩み、自分の考えを話した。

もう少し、学べる場所へ、より多様な人が居る場所へ。

気づいたら新しい職場と家が決まっていた。


丁度その頃、コーヒー店長とも再会する。


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