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働くを考える話①社会人ほやほや編


社会人1年目、働き始めてすぐに組織に属していることが向いていないのではないかと思い始めた。

その違和感は消える事なく、5,6年の月日が流れた。

転職した回数5回。

いつも頭の中はぐるぐると忙しく動いていて、あれこれ試したいタイプの私は、きっと周りから見たら落ち着きがなく『え、前と言ってたこと違うじゃん!』と言われがち。

反省もある。後ろめたさを感じる日もある。

だけど、心の奥では『だって“今”は、心からそう思うんだもん』と思っている。

いろいろ動いてみた結果の“今”なのだ。前と同じ心境な訳がない。

あと数年経ったら、その時の気持ちや経験したことを忘れちゃうかもしれない。記憶があるうちに書いてみることにした。

きっとこんなに赤裸々に過去の事を書くのは最初で最後。


こんな私の、人生の失敗談と忙しない生き方。

こんな奴もいるんだな~と、読んでいただければと思います。


自己紹介

平成5年生まれ。O型、ロマンチストな乙女座。

福井県の小さな港町、海の目の前に生まれた。漁師の孫。2人姉妹の長女。

ごく平凡な家庭に育ち、地元の高校に進学。大学まで実家で過ごした。

職業は理学療法士(physicaltherapist=PT)

社会人一年目は県内の病院に就職し、それを機に一人暮らしを始めた。

社会人二年目に東京の病院に転職。

それから3、4年東京で過ごした。その間、転職2回。

東京でコーヒー店長と出会い、(実は幼馴染なので再会というのが正確)

【コーヒー店長についてはこちら↓】


その後、半年ちょっと2人で長野に暮らしていた。転職4回目

2019年の終わりに福井にUターン、ポルタ開業に向けて動き始めた。

2020年私的、働き方改革。週3日しか働かないを試す。結婚もした。

転職5回目。そろそろ履歴書の職業欄に収まらなくなってきたところ。

文字に起こしてみると

『一身上の都合により退職』 し過ぎ。



そして今、【ポルタの喫茶室】という小さなお店を開いている。


16歳で将来を決めるには情報が少なすぎた


高校生の段階で将来の道を決めなさいと言われても、、と思っていた。

高校も部活が決め手となって学校を選んだ。

中学から始めた吹奏楽で、強豪校で部活がしたいという理由だけで進学。

勉強より部活がしたいという理由だけで普通科より勉強が楽そうな商業科に決めた。青春ど真ん中だった。

正直、部活がなかったら高校も辞めていたと思う。学校が好きではなかったし早く大人になりたいとずっと思っていた。

あまり勉強を一生懸命した記憶もない。目的なく勉強することが苦手。好きな事しか頑張れない。

商業科なので、高卒で就職する子も沢山居たけれど、私の中にその選択肢はなかった。というより想像がつかなかった。


漠然と、『人の役に立てる仕事』であることと、『手に職をつける』ということだけが頭の中にあった。なぜかは分からない。

高校生の私がなんとなく開いた『13歳のハローワーク』

この本の中から職業を決めることにした。

たまたま開いたページで見つけた『PT』という仕事。

医療現場=人の役に立てそう&国家資格

みたいな感じで決めた気がする。

知り合いのおばちゃんに『リハビリの先生になろうかと思う』と言ったら

『この手は、人に差し伸べてあげる手やで~何か教えてあげる先生になるといいわぁ』と手相をみて絶賛され、背中をどーんと叩かれた。

その一言で完全にその気になった。(おばちゃんは手相を見れる占い師でもなんでもない)


県外の大学に行きたかったけれど、将来的には福井で働きたいと思っている旨を担任の先生に話したら地元の大学の方がいいと言われてそうすることにした。(今思えば超適当な面談だった)

とりあえず早く手に職つけて大人になるのだと生き急いでいた。だから3年制の医療系の短大に進学。


当たり前だが、専門職の学校に進学すると、資格試験に合格する為のカリキュラムしか組まれていない。

入学した段階で、3,4年後の職業がもう決まっている。ただひたすらその為に座学と実技実習を重ねる。そして国試対策の日々。

なにも不安なことはなかった。就職先も予想はついていて、県内の就職先には必ず知っている先輩が居る。県外に転勤みたいなこともなければ、給料が大きく変わる事もなく。

何も疑うことなく、友達と楽しく過ごし、勉強し、国家資格を取り、予定通り就職した。


在学中、子供の発達に関わる分野にとても興味が湧いた。

実習先も希望して小児分野にしてもらった。

小児領域のPTになることを目標にしていたのだが、その年は希望の病院で求人が出ず、それ以外ならもうどこでも良かった。

制服がちょっとカッコよく見えたことと、建て替えたばかりで綺麗という理由で福井市内の病院に就職。就活も一瞬で終わった。


社会人1年目


病院で働いているというだけで、『偉いね』と言われたり、“ちゃんとしてそう”みたいなイメージを持たれることが多かった。全くそんな事はない。

学生時代の実習中も、白衣を着て『先生』と呼ばれる仕事に、憧れと誇りを持っていた気もする。


実際に働いてみると、患者さんからは直接『ありがとう』と毎日感謝され、

大したことをしていなくても『先生』と呼ばれ、

退院していく患者さんのご家族には『あなたのおかげ』だと言われ、

みるみる回復していく患者さんを見ていると自分は少しでも役に立っていると錯覚した。

まだ知識も技術もない新人なのに、これは天職かもしれないとさえ思った。


でもその一方で、徐々に5年後、10年後の自分を思い描くことが出来なくなった。

10年経った時、自分はまだこの場所にいるのかと思うと、言葉にできない違和感を感じた。

“働く”って何? この時初めて働くことについて真剣に考え始めた。

組織の中の、自分の立ち位置や色々な人間関係が渦を巻く中に居ることが、だんだんと息苦しくなってきた。

何が正しいのかも分からない。 

ただ淡々と働いて、お金を貰うこと事が正しいのか。頑張っている人も、そうでない人も貰う金額は一緒だった。やりがいを見出して楽しそうに働いている人もいれば、辞めたい辞めたいと言いながらダラダラ過ごしている人も居た。

飲み会の席で愚痴が飛び交う瞬間や、時々悪口が聞こえてくること、

“働くってそういうもんだよね” という諦め半分の声が、

些細なことでも、とてつもなく苦しく思えた。


そんなある時、患者さんから言われた言葉にハッとする。


その人は、骨折をして入院してきたのだが、色々な病気をして痩せたその身体とは対照的に、シワシワの笑顔からにじみ出る人柄が本当に素敵で、上品で、力強い言葉が印象的だった。


『あなたの仕事はとても立派だし必要とされている。でも、もっともっと違う世界も沢山ある。それでもあなたは、ここに居る?』


心を見透かされたような気がして、愛想笑いをすることしか出来なかった。


社会人2年目


当時付き合っていた人が、東京で働くことになった。

生粋の田舎娘で、地元が大好きな私にとって東京は程遠い場所で、住む場所として認識したことがなかった。

初めて、県外で働くという選択肢もあるのかと意識した出来事だった。


2泊3日で、東京に遊びに行った日。

電車を待っていた時に、なんとなく求人サイトを開いてみた。

【東京都 PT 小児 求人】で検索。

出てきた求人情報を眺めると

一度諦めていた分野の求人が出ている。条件も悪くなかった。知らない地名だったけど、なんとなく逃してはいけないような気がして。


都内の駅ど真ん中で、ざわついた人混みの中、気づけば電話を掛けていた。

淡々と話は進み、明日福井に帰る前に見学に行くことになる。自分でも驚いたが、なんとなく清々しい気分だった。


次の日。

ガラガラとキャリーケースを引っ張って、そのクリニックに訪れた。

今働いている病院とは比べ物にならないほど小さく、マンションの一階に看板が掛けられていたが

“東京らしいな~”と訳の分からない感想を持ちながら、中に入った。


勢いで見学に来ました!という福井弁交じりの小娘がキャリーケースをガラガラ転がしているのは、かなり変だったと思う。


一通り話をして、一旦福井に帰ることになる。

何も根拠はないが、数か月後にはここに居るだろうと勝手に思いながら、帰りの新幹線は妄想劇を繰り広げていた。


そこからは怒涛の日々で、あまり覚えていない。

絶対に東京に行くのは許さん!と反対する父親を説得するのに3ヶ月かかった。今まで何を言っても反対されることはなかったが、今回に限っては心配で心配でしょうがなかったのだと思う。

職場の退職の手続きは、一度決まってしまえば淡々と進んだ。

新しいステージに進むことを応援して背中を押してくれる人も沢山居たし

“一年ちょっとで辞めてくお前みたいな中途半端なやつに何ができるんや”とも言われた。

“彼氏について行きたいだけ”

“とりあえず3年はここで頑張ったら?”とも


自分の大切にしたいものと、そうでないものとを分別する作業をしていた時間だったと思う。


そこで10年働いたから分かる事、見えてくることも沢山あるはずで

その人にしか見えない景色がある。

だから全部ごもっともな意見だなと思った。もちろん悔しい思いもあったけれど、確かに自分はまだ何も知らなくて本当に中途半端で幼い。



選ばなくてはいけない


東京に行く準備も着々と進み、あと一週間程で退職するという日。

突然父から電話が掛かってきた。今から私の住むアパートに来るという。

凄く嫌な予感がした。


よそよそと、部屋に入ってきた父が重い口を開く。


『お母さんに、癌が見つかった。』


近くに居てくれ、頼む…と頭を下げ、父は泣いた。

父の涙など今まで一度も見たことがなかった。


“乳癌” まさか自分の母がそんなことになるとは思いもしなかった。

手術や抗がん剤治療が必要な事、最悪の場合の余命、

現実味の湧かない話ばかりで、あんなに元気にしている母の体の中に悪い病気が潜んでいるなど、信じられなかった。

『なんでお母さんなんや...』と小さな声を漏らす父の背中を見ながら

堪えきれずに涙が出てしまう。


必死な父の気持ちと、これから始まるであろう闘病生活と、

そんなことを感じさせずに、私の東京行きの話をウンウンと聞いていた母の顔が頭の中を行ったり来たりした。


父が帰った後、声をあげて何時間もわんわん泣いた。


決断の朝


泣き疲れて寝てしまい、頭が重い。

散乱したティッシュを片付けながらこれからのことを考えた。

こんなことを言ったら親不孝だと言われるかもしれないけれど、

一度決めた東京行きを辞めようという気持ちにはならなかった。

自分なりに、働くということ、自分らしく生きるということを散々考えて出した結果だった。

だからこそ、簡単に気持ちを変えることはできなかったし

やっぱり辞めるという選択が、母の為になるのかも分からなかった。


母に会いに、実家に帰った。

案の定、ケロっとした顔をして

『予定通りでいいんじゃない』と母は笑った。


本当は家族の誰よりも、一番辛いはずなのだ。そばに居てほしいと思っていることも分かっている。私が居なくなることで家族の負担が増えてしまうことも目に見えていた。妹にも申し訳なさが湧く。

本当にどうしようもない自由人で破天荒な娘だと思う。

でも、自分の道をしっかり歩むことが

いま私が見せられる唯一の親孝行だと言い聞かせるしかなかった。


いつも誰よりも近くで応援し続けてくれて、喜んでくれていたのは母だった。

私が自分なりの決断をするまで、病気の事を言わないと決めていた母の選択も

痺れを切らして『行くな』と言った父の気持ちも

痛いほど伝わった。


申し訳なさも、情けない気持ちもある。

でも、母は強い。

歳を重ねるにつれ、いつからか“母”というよりも“一人の女性”としてみるようになった。

何事にも一生懸命で、自分の行動に責任と誇りを持っている人だと思う。仕事に向かう姿勢も、なんでも楽しめるところも尊敬している。

絶対に味方で居てくれて、私たちの成長を何より喜んでくれている。

そして父に愛されている。

不器用で、繊細で、頑固な父だが、何よりも家族を大切にしている。

私が居なくても絶対に大丈夫だ。



出発の日


母が駅まで送ってくれた。友達も見送りに来てくれた。

駅の改札って、なんであんなに寂しさが込み上げるのか。

でも、見送られるよりも見送る方が寂しい気持ちも凄く分かる。


社会人2年目の夏。

色んな気持ちが渦巻きながら、

東京へ向かった。

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