PhantasMaiden 3.5話
ひどく懐かしい感触が五感を刺激する。私が歩を進める度に、それは段々と強く、濃くなってゆく。
闇夜に点々と輝く焚火の明かり、土と金属の入り混じった独特の臭い、あちこちから響く談笑の声、それら一つ一つの要素が、私に懐かしさと安心感を与える。
私――エミリア・プラテルは、自らの領域に足を踏み入れていた。というのも、連続で戦闘を行ったことで消耗した体力を、一度各々の領域で休憩することで回復しようと私が提案したからだ。恐らくは今頃ジャンヌも、自らの領域に辿り着いていることだろう。
「なるほど、これは……」
私の推測では、領域の内部はその人物の性質に強く起因する。例えば、生まれ育った場所や、その人物が望む場所、過ごしやすい場所であることが多いように思う。現にあのオオカミの場合は自分の住んでいた村だったし、ウェーバーの場合は彼女がそうありたいと強く思い描いた環境が再現された。シェリーについても恐らくは同様だろう。
私の領域は――ひとことで言うならば、夜の駐屯地のような場所だった。辺りをざっと見渡すだけでも、多くの兵士が昼間の戦いの傷を癒し、また次の戦いに備えているのが見える。そして私の生きた場所も、まさにこのようなものだった。
「変わらないな……この場所も」
直感的に惹かれ、その中でも一際大きな仮設テントに入る。その中は自分がよく用いていた部屋(果たしてそう呼ぶことができるかは怪しいが)と同じものだった。
「……」
同じく仮設されたベッドに腰掛け、鎧を外してゆく。外した装備を丁寧に布の上に置き、そのまま卓上の用具を使って整備する。その行為に意味があるのかはわからないが、今はとにかく何か作業をしながら頭の中を整理したかった。
「ジャンヌ……」
その名前が、思わず口から零れる。ジャンヌ・ダルク、私の尊敬する人、目指すべき人……私の生涯において、ジャンヌ・ダルクという人物が与えた影響は計り知れない。その人が、今、私の隣にいる。共に剣を取り、戦ってくれている。私にとって、これほど嬉しいことは無い。
それと同時に、疑問も浮かび上がってくる。この世界で出会った彼女は……どこか、違う気がする。無論、彼女も昔は村娘であったことは知っているし、あるいは私が知らなかっただけで実際の彼女は争いを好まず、ある種臆病であったのかもしれない。
だが、この違和感はそれらの要素だけでは説明できない。今私が彼女に対して感じている違和感を言語化するのであれば、彼女は……ジャンヌであってジャンヌではないと表現するのがしっくりくる。
「ジャンヌ、貴女は――本当に貴女なのですか?」
気が付けば、一通りの装備の手入れが終わっていた。ランプの灯を消し、少々硬いベッドに身を預ける。
「私の願い……失ったもの……か」
この世界に来た時にアリスに言われた言葉を思い出す。思えば私は今までずっと、ジャンヌを守るために剣を振るっていた。そもそも私には願いというものが無かったし、取り戻したいと願ったものも無かったからだ。晩年は戦いの場に赴くこと叶わず病床で息を引き取ったが、それに特段未練があるわけでもない。
だが、彼女と出会ってしまった。――ジャンヌ・ダルク。
彼女の隣に居たいと思ってしまった。
彼女のために剣を振るいたいと思ってしまった。
彼女をもっと知りたいと思ってしまった。
今の私には……願いがあるのかもしれない。あるいは、アリスの言うことが本当なのであれば、私が彼女に抱く違和感の正体がわかるかもしれない。いやむしろ、彼女を私の思い描くジャンヌに――
「――ッ!」
湧き出てきた邪な考えを、頭を強く降って掻き消す。そんな考えは彼女に対する冒涜だ、それは私が一番よくわかっている。だが、もしそんなことが許されるなら、という甘美な悪魔の囁きは、私の頭の片隅にこびり付いたまま離れない。
いずれにせよ、最後は恐らく――ジャンヌと対峙しなければならない。アリスの言ったことが正しければ、私かジャンヌのどちらかが死ななければならない。そして叶うなら、私はジャンヌに生き残ってほしい。私を倒して、あの人に願いを叶えてもらいたい。あの人の、せめてもの力になりたい。
その時に私は、改めて問わなければならない。ジャンヌに対して、私自身に対して。自分が何を望むべきなのかを、自分が何を選択すべきなのかを。
「……」
そこで、私の意識は眠気によって途切れた。
「――う」
しばらくすると意識が覚醒する。すぐさま身体を起こし、装備を整えて感触を確認する。体感していないだけで長い間眠っていたせいか、だいぶ身体が軽くなった気がする。
昨夜で考えが纏まり切ったわけではなかったが、ひとまず今の自分がやるべきはただ一つ、それは他の参加者を1人でも多く倒すことだ。これはもちろんジャンヌの為でもあるし、今は――自分だけで戦いたい気分だった。
準備を終えて外に出ると、周囲は変わらず夜のままだった。領域では昼夜すらも他の場所と異なるのか――そんなことを考えながら、焚火の周りで談笑する兵士たちの間を通り抜けてゆく。
この兵士たちは、永遠に来ることのない戦いのために備えているのであろうか。あるいはこれは、これからの戦いや決断を恐れている私の心の投影なのかもしれない……そんな自虐じみた思考から逃れるように、私は自らの領域を後にした。
「わぁ……」
エミリアと別れてから誘われるままに歩き続けると、そこは他でもない、オルレアンの街並みだった。見れば戦いの跡こそ見られるものの、瓦礫は道の端に寄せられ、通りからは人々の活気が感じられる。紛れもなく、防衛戦が終わった後のオルレアンだ。私たちが守った街、私たちを受け入れてくれた街。
辺りを見ながら歩いていると、道行く人々に声をかけられた。その多くは街を解放したことへの礼だったが、今の私には軽い会釈で返すことしかできなかった。
記憶を頼りに歩き続けると、甲冑を着た人々――恐らくは私と共に戦ってくれた人たちだろう――が集まる場所に着いた。兵士たちは私の姿を見ると皆一様に会釈をし、道を空ける。その向こうから1人の兵士がこちらに歩いてきて、目の前で兜を外す。私はその姿を知っている、彼を知っている、その名前は――
「……ジル」
「お久しぶりですね、ジャンヌ。お待ちしておりました」
ジル・ド・レ。かつて私と共にオルレアンの防衛戦を戦い抜いた人。私がよほどこの人を信頼しているからなのだろうか、自然と頬が緩む。
「どうぞ、こちらにお掛けください」
「えぇ、ありがとうございます」
言われるがまま用意された椅子に腰掛ける。意識しないようにはしていたが、やはり身体には疲労が蓄積していたらしく、座った瞬間に脚から力が抜けていくのを感じる。
私が座ったのを確認すると、ジルも同じく向かい側に腰掛けた。その顔は穏やかでありながら力強く、頼もしさを感じさせる顔だった。
「ジャンヌ……何か悩んでいることがありますね?」
ジルがゆっくりと口を開いた。それはまるで私を導くかのような、そんな声音のように感じた。
「……はい。実は……」
この世界で初めて自分の知る人物に出会えたからだろうか、あるいは私がジルをそれ程までに信頼していたからだろうか、気が付けば私は全てを話していた。
この世界のこと、今まで体験したこと、自分の感じてきたこと、他人の死、そして……それら全ても、このオルレアンのことも、生前の記憶も、どこか他人事のように感じること。
……目の前に居るジルは本物ではない。彼も恐らくは、この世界で私の記憶から再現された、領域の一部なのだろう。しかし仮にそうだとしても、誰かに悩みを、心のすべてを吐き出したかった。その行為がいかに浅ましいことかも、ジルにそれを行うことが何の意味もないということも私が一番よくわかっていた。だが自分のよく見知った姿を目の前にして、自分が抑えきれなくなってしまった。それに何よりエミリア……こんな私を尊敬して、隣で戦ってくれる彼女の前で、心の内を吐き出すことなんてできなかった。
ジルは私の話を一つ一つ頷きながら聞き、そして終わるとゆっくりと口を開いた。
「私もこの世界のことは多少ですが把握しています。アリスという少女のこと、貴女が他の方々と命を賭した戦いを行ってきたこと、そして私も……貴女の記憶を元にした贋作かもしれないということ」
予想外の答えに思わず目を丸くしてしまう。この人は、もしかして――
「ジル、貴方は――」
「とはいえ、私が貴女に語ることができるものはそう多くはありません。ですが、話し相手になることや、貴女に考える時間をお作りすることは可能です」
ゆっくりと、諭すようにジルが言葉を紡いでゆく。その様は私を導こうとしているかのようで――それは紛れもなく、私の知るジル・ド・レの姿だった。
「ちょうど今朝入ったハーブティーがあります。飲めば多少は落ち着くことでしょう。飲まれたら今日は一度、貴女の自宅に戻るといい」
気が付けば、もう日が沈みかけていた。手渡されたカップに口を付けると、言われた通り、纏まりの無かった思考がクリアになってゆく気がした。中身を飲み干し、自宅へ向かおうと私は席を立った。
「ごちそうさまです、ジル。話を聞いてくれただけでも助かりました」
「とんでもありません。貴女のお悩みは、やはり貴女自身にしか解決できないものでしょう。私にできるのはお話を伺うことと、こうして茶を差し出すぐらいのものです」
「本当に……ありがとうございます」
思えば私は生前、彼にどれほど助けられただろう。戦闘や軍略だけでなく、精神面でも私は大いに彼に助けられていた気がする。私は、そんな彼に何かを返すことができていたのだろうか。そう思いながら自宅へ向かおうとすると、後ろから声を掛けられる。
「ジャンヌ、慰めにすらなるかはわかりませんが……少なくとも私は、貴女は聖女ジャンヌ・ダルク本人だと……紛れもなく、そう思いますよ」
私はその言葉に押されるように、帰路に向かった。
用意された自宅に入ると、装備を脱いで身体を拭き、ベッドに横になった。眠気に身を任せながら、ジルとの会話を反芻するように頭の中で思い返す。
気づくと、私の意識は眠気によって水底に沈んでいった。
「――う、ん」
――窓の外から何かが聞こえてくる。何かの鳴き声のような……。私は気になって、声に導かれるままにカーテンを開けた。
その瞬間強烈な朝日と、オルレアンの街並みが私の視界に映った。朝日の眩しさに目が慣れてくると、目の前の路地に小さな生き物が見えた。
「……猫?」
よく目を凝らすと、それは一匹の黒猫だった。私はその黒猫が妙に気になって、身支度を整えて玄関の扉を開く。
玄関の目の前に居たそれは私の姿を確認すると、一際大きく「なぁご」と一鳴きし、私を案内するかのように歩き出す。私はそれが妙に気になって、何故か追いかけてしまう。
気が付けば私は、別の領域に迷い込んでいた。たった一匹の、黒猫に導かれて――。