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上天のまほろば ①

 未だ記憶に根深く、それこそ廃屋に繁む蔦のように脳に絡みついている。
その出来事は誰に話しても信じられることはない。

 科学技術の発達した昨今、摩訶不思議な出来事は科学を享受する人々にとっては到底受け入れられ難いものだった。
であるから、この記録を発信し、受け入れてもらえる人がいれば、それだけで幸いである。

 私はその年の春に精神を崩し、退職をしていた。私の人生において、仕事を辞めるなんて珍しいことでもなかった。精神を崩す度に転職を繰り返しているからだ。

 私は心療内科に通った帰り、その近辺にある山や森を療養がてら散歩をしていた。
社会から遠ざかれる事が目的であり、それが何よりの幸福だった。

 病院から数分の場所は既に行きつくしていたので、その日は少し足を延ばして全く人気のない場所にある山へと向かった。それが私の過ちだった。

 始めは順調に踏みしめられた登山道を辿って天辺に向かっていたのだが、登山道は見晴らしの良い広場を最後に途切れてしまった。

 景観は圧巻だった。広々とした青い空に漂う白い雲。眼下には家屋がポツリポツリとある程度で、その先には太平洋が見渡せる。人工物があまりなく私にとっては心地よいものだった。

 その景観から踵を返そうとしたが、歩んできた登山道の隣には、どうやら人か、何かが通った後が見て取れる茂みがあった。私は好奇心に駆られるままにその道を行くことにした。

 道中には登山者の目印ともとれるテープが低木に括り付けてあった。私はそれを辿る。
不安はなかった。人生を諦めた私にとって不安など程遠いモノだったのだ。

 しばらく草を踏み、倒木を屈み抜けると、背の高い木々の間に、木造とコンクリートの混ざる建造物だったものが見える。

 私はしばらくその建造物を見つめていた。いや、視線を逸らすことも、体の硬直を解く事もできなかった。何とも、呼吸さえ止まっていたのだ。

 本能的な警告は無視され、しばらくすると私はその建造物へと足を踏み入れていた。

 入口と思しき木造の扉枠をくぐるも、目に入るのは倒壊した為に姿を見せたカビを含む木材。
未だ辛うじて建物としての形を残そうとする柱からは、電球がコードに釣られた形でぶら下がっている。

 奥へと足を進み、一室はトイレ、一室は浴槽、一室は大広間。
 大広間を見渡すと待合の為の椅子がある。カウンターがあり、その奥にはキャビネットが見えたので、ここはもしかすると病院だったのではないかと私は考えた。

 案の定、カウンターの下には〇〇精神病院という看板があった。
私は大広間を後にし、建造物の探査を進める。

 すると、先がかなり長く、床抜けが酷い廊下が見えた。廊下に入ると私は息を飲んだ。廊下の右手には木の格子で分けられた小さな個室が廊下の始めから終わりまで続いている。
 その個室は各四畳の大きさで、畳は荒らされ床板がむき出し。格子が付いた窓はシダが絡まり外を伺うことはできない。家具などは一切なかった。

 私は恐る恐る崩れた床を個室を横目に進んでいく。恐怖よりも好奇心が勝るというが、そういったことは一切なかった。不安が怒涛に押し寄せてくる。不安など私には程遠いモノなどと言ったが、所詮、社会起因の不安など些末なものだったと痛感した。
 しかし、私の足は歩みを止めることはなかった。好奇心でないなら何が私を動かしているのか。

長い廊下を左に曲がるも、未だ格子で囲われた個室は続く。
ようやく終わりが見えるも、最奥の個室は異様だった。
その個室には黒く染みついた跡があったのだ。

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