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『悪は存在しない』ではなく『アホは存在する』 / レビュー ネタバレあるよ

公開が始まって割と早めに見に行きましたが、自分の中でレビューを残していませんでした。

ちなみに記事タイトルは毒舌をかます雰囲気を出していますが、そういうわけではありませんし、作品を否定しているわけでもありません。
ま、読んでもらえればわかりますので前置きはさておきレビューしていきましょう。

『悪は存在しない』ではなく『アホは存在する』

いきなりキツめの言葉でスタートしますが、私の鑑賞後の感想はまさにこれでありました。
主人公匠は奥さんを亡くしているか(あるいは逃げられているかで)不在が提示され、心理的なダメージが短期記憶障害として提示されています。

初めは私は奥さんを亡くしたという過去作「ドライブ・マイ・カー」と同様の建て付けかなと理解していましたが、時を経てむしろ奥さんは「愛想を尽かして逃げてったんじゃなかろうか」と考えるようになりました。それくらいこの主人公の匠という人間はかなりしょうもない男に思えます。なぜそう思えるかを少し長くなるんですが考察を書いていきます。

ニーチェの『善悪の彼岸』

タイトルの「悪は存在しない」。このワードで最もすぐに思い浮かぶのは、ニーチェの『善悪の彼岸』です。

「神は死んだ」というワードでも知られるニーチェですが、晩年はこの善悪の彼岸とツアラトストラはかく語りきにおいて、社会的な規範や常識、善悪を超えた超人思想としてよく知られています。(彼の本懐はキリスト教からの脱却でしょうがまあ置いといて)

主人公の匠は上段で書いたように短期記憶障害が見られるように心に傷負っている、そしてまた山の生活が長くなるにつれて、徐々にフツウの人間性を消失していっており、社会性や規範意識が薄れ、善悪の彼岸に差し掛かっている人間を表現しているものと思います。

ほとんどのキャラクターが日常的で自然なセリフ回しで喋るのに対して、匠一人だけがセリフが言い切り型、断定口調、そして抑揚が文語的で不自然に演出されています。
職業俳優を用いず、演技素人の人間をあえて用いることで棒読みに近い読み方をさせることにより、人間性の感じられないツアラトストラ的な超人へ差し掛かっているという表現かと思います。

冒頭の長大な森見上げカットは、おそらく匠が日々歩いて見上げていた景色、人間性を失い自然に意識が溶け込んでいく過程を、観客自らも踏みこんで追体験していく、そんな感覚を導出しようと企てたものかと考えています。

自然の奥深き相関関係

こちらはグランピング説明会の時に、「水は上から下に流れる」であるとか鹿の通り道がとかで、土地開発はさまざまな自然環境を変えてしまう話に提示されています。

都会の人間はもちろんのこと、人間という矮小な存在には知悉し難い自然の韜晦がある。いわゆる自然科学による「因果関係」としてではなく、結果しか見えない「相関関係」が自然にはまだまだ存在しているよということが一つ映画の大きなモチーフとして中盤示されています。

さてでは「善悪」というものはどちらでしょうか。
まあいうまでもなく因果関係ですよね。

・(因)殺人を犯せば (果)悪である。
・(因)貧しき人を救えば (果)善である。

善を成せば善、悪を犯せば悪。

一方で自然は何かを行えばどこかになんらかの影響が出る、しかし明確に因果を把握する事は人間には到底出来ない。ジュラシックパークにも出てくる「カオス理論」的な相関関係しか垣間見ることが出来ない捉え難きものです。匠はその自然の相関関係について、本作では誰よりも詳しいことが描かれていきます。

引き裂かれた存在としての匠

しかし、とは言えです。

いくら匠が山に詳しかろうが、善悪の彼岸を超えていようが、所詮彼は肉体を持ったただの人間に過ぎません。むしろ科学的に病理学では彼は「ソシオパスです」の一言で済んでしまうのかもしれません。

グランピング説明会では、彼は近隣住民の味方をして開発に徹底抗戦するかと思いきや、よく聞くとそうではなく、どっちつかずで曖昧な態度しか示していません。この「都市にも田舎にも加担しない、帰属意識の曖昧さ」が彼がまさに引き裂かれた宙ぶらりんであることを示します。

また匠がグランピング説明会終了後の夜に描いている絵には、東京から来た人物のスケッチを描いていますが、その絵をよく見ると上半身は人間の胸像だが、下が植物の枝のように変化しています。こちらもまた、認識レベルで人間(文明)と自然のどっちつかずな中間部に彼がいることを示していると私は捉えています。

そしてそんなどっちつかずな匠を、濱口監督の眼差しは半分シリアスに、そして半分はアホだと批判的に見ているのだと私は思っています。

どこからそれが言えるでしょうか、それは終盤の例の事故の流れです。

クライマックスに関しては一見、解釈の余地が沢山あり、ネットを見渡しても「匠は花と心中しようとした」というような人情系解釈から、「花は鹿とスピリチュアルなつながりがあり転生した存在」というような、相当神秘にふったメタフォリカルな解釈も見かけました。
その辺は自由に味わっていただければよいのだと思いますが・・・

しかしその前にまず、解釈の余地が全くない部分にこそしっかり注目すべきです。

花が怪我を負った理由はそもそも何?
きっかけは何?
なぜあんなラストに至ったのか?
その因果関係は何か。

それは極々単純に
「匠がお迎えにいくのを忘れたから」
ただこれだけの話です。

自然の複雑で神秘的な相関、なーんてこむずかしそうな事にかまけていた匠は、あろうことか普通の親ならまず第一に考えて実行しなければならない基本のキすら出来ず、そのために花が行方不明になり、町が総出で(東京からの外部の人間すら労を割いて)救出活動に駆り出されてしまうという、現場ネコレベルの凡ミスを盛大にやらかしています。

そしてさらにパニックになりそんな救出チームに攻撃をしかけるという行動は、戦場で張り切り過ぎて味方に乱射して味方の兵の首をとって「大将首だ!」と大喜びした北野武監督の『首』という映画の百姓のごとき次元です。

むずかしいことにテツガクして、めっちゃ基本的な因果関係が分からなくなってしまった男。
これが匠の本性であり、実は超人なんかではない。

私は濱口監督はこのことに自覚的であったと思います。
(というかこれを自覚していなかったらリアリティを求める監督しては結構やばいです)

前半あれだけ信頼感のある頼れる山の達人パイセンとして描いておきながら、クライマックスで紐なしバンジーみたいなアホな行動で窮地に立つように仕向けてある。

そもそも、自然を題材にするにあたって「悪は存在する」というパンチライン自体が相当馬鹿げています。善悪という概念が存在しようがしまいが、生物が生存するにあたっては、

「敵は存在する」


これに尽きるわけです。腹を空かせた熊を目の前にして、「悪は存在しない」と言って一体何になるんでしょうか?
悪はいないからと熊にハグでもしにいくんですか? 
善だとか悪だとかという建て付け自体が愚問に過ぎません。

だからこそ山の達人「匠」という名前も、一種のブラックジョークとしてつけたのではなかったかと私は考えています。

これがこの映画の本当のタイトルは「アホは存在する」という意味です。

アホの意味

さて、アホ、という強い単語を用いたのは別に毒舌でスッキリしたかったという中学生チックな理由からだけではありません。(ガキっぽくてごめんなさい)

この映画はゴダールの「気狂いピエロ」のオープニングタイトルデザインを踏襲しています。
気狂いピエロという映画は、ジャンポールベルモンド演じるフェルディナンという男が、道中さまざまな小難しい話、アートについて、政治について、革命についてなどを本を片手にひたすらテツガクし続けた挙句、最後は自分の顔にダイナマイトを巻き、戯れのつもりだったのに本当に起爆してしまって爆発し自死する、という悲しき愚かな「ピエロ」の滑稽さを描いています。(滑稽なのになぜかやたらシリアスな風味がする不思議な映画でもあります)

この悲しき愚かなピエロを、濱口監督が意図的に念頭に置いて本作を作ったかどうか・・・それは定かではありません。

しかし、作品のインタビューで彼は敬愛するゴダールについてこう答えています。(素晴らしいインタビューなので読みに行ってください)


ゴダールが撮ったものは、もしくは撮って編集して音響と組み合わせたものは、本来ものすごくバカバカしいことなはずが、むしろ神々しささえ感じられる。そのことを、信じられないような思いでいつも見ているという感じですね。どうやったらああいうものすごく生々しいバカバカしい現実を撮りながら、ある種の抽象に達したあのような映像になっているのか、全く謎です。

https://fansvoice.jp/2024/05/03/evil-does-not-exist-hamaguchi-interview/

意図的に気狂いピエロを参照していなかったにしろ、ゴダールのこうした「冷静に考えると単なるアホ」なのにも関わらず、なぜか神聖なものに見える、そんな手管を濱口氏は追いかけているような気が私はするのです。

本作『悪は存在しない』も、山生活をしまくった挙句社会性を失い、嫁は嫌気を差して出ていき、無職のくせに都会の人間に先生ヅラをぶっかまし、娘のお迎えを忘れてしまったせいで町総出で捜索する羽目になった上、なおかつパニクって救出部隊にチョークスリーパーをかけたどアホを描きながら、その映画学的な分厚い表現力の確かさから、多くの観客が「神秘的だぁ」「フカイナア」「テツガクゥ」と肘つき皺寄せなぜか感心する変な人が大量発生してるという意味では、”ある種の抽象に達したような" 極めてゴダール的な映画と言えるのではないかと思っています。

ましかし、冷静になって考えれば、こんなやつ現実にいたらとっとと病院に直行だぜ!と冷静に考えるのも、私は重要だと思うんですけども。

映画は「誤読」の芸術である

最後にこれは私の信条でもありますが、むかしロベール・ブレッソンがこんな事を言ってたのですね。映像っていうのは、言葉で補足をしないと実は意味性がほぼ固定できない特性を持つもので、見る人によって全然見方が変わるものでもあります。
メッセージの「正確性」のみを希求するのであれば、映像・映画などより文字媒体とか論文の方が遥かに用途的に向いているんだと思います。

ですので、私の解釈と全然違う!お前は間違っている!と批判し合う必要はなく、それ自体が映画の良さだと考えています。

映画を何万本もすでに見ている映画中毒の人の方がより顕著に、独特な誤読をして楽しんでいる傾向があり、そしてその方が映画にとって理想なんだ、と私は考えています。(と言い訳がましく残しておく)



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