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「君たちはどう生きるか」アンチメタファーの最終地点

公開からおよそ1ヶ月が経ち、この映画がどのように受け取るべきなのかの初見分はほぼ出揃ってきたのではないかと思う。

私自身はどのように解釈したのかはYouTubeにて2本、大枠と詳細に分割して発表しているのでそちらを参考にしていただきたいが、簡単に言えばこの映画は「宮崎駿監督の創作人生を振り返ったもの」と表現してしまえば大雑把には捉える事が出来る。

そうした見方は今ではほぼ一般的な見解の地位を得つつあるようにあると思うし私自身も同意している。
しかし一方で、そうした見方をベースにした上で「作家の自己満足である」「ジブリの内幕を知らなければ理解できない作品など傲慢だ」という類の批判や嫌悪の感想も見られる。

今回はそうした意見に対して、(それを否定するわけではないが)もう少し深めて考えていきたい。

宮崎駿はメタファーを極端に嫌っている

かつてローランドケルツ氏による2009年の公開インタビューの際、ケルツ氏は宮崎さんに対して「トトロという妖精は何を象徴しているのでしょうか?」という質問をした事がある。
これに対して宮崎さんは「象徴とか、そういう無駄なことに子供の大切な時間を奪うのは馬鹿馬鹿しいと思います」と不快感を露わにした事がある。

象徴や隠喩(メタファー)の学術的な定義の差異はとりあえず置いておいて、宮崎氏が言いたい事は恐らくだが、「隠された意味」であるとか、もっと卑近な言い方をすれば「本当は怖いトトロの真実」的な事はとても嫌っている。彼は別にわざわざ何かを隠して、高度な難しい分析をしないとわからないような知識や意味というのは、まず子供に向ける物でないばかりか、本来文字で伝達した方が早いような事をわざわざオシャレに隠して描くなど極めて馬鹿馬鹿しい事と考えているアンチメタファーの人間なのだ。

では「君たちはどう生きるか」はどう見れば良いのだろうか。あそこに描かれているものは何かを象徴したものだと解釈しない限りはほとんど意味をなし得ないシーンが多いように思える。

メタファーではなくエッセンス

なんだか言葉をただ言い換えて煙に巻こうとしているように見えたら申し訳ないが、私はエッセンスという言葉をレビューでも多く用いた。

アオサギというキャラクターは、鈴木敏夫氏がモデルと言われる事が多いし、私もある程度それは納得しているが、同時に私はあそこには手塚治虫の影も感じられると分析した。

なぜなら主人公眞人はほぼ宿命論的に、アオサギを倒すべき弓矢を用意して有無を言わさず彼を最初殺そうと考える。

鈴木敏夫氏の詐欺師めいた言動はエッセンスとしては感じるが、しかし「打倒すべき存在」としては鈴木氏にそういう印象はないし、あのブツブツの鼻は鈴木氏にはない要素だ。

一方で手塚治虫であれば、お茶の水博士や我王など鼻はトレードマークであり、鳥といえば火の鳥である。また宮崎氏は1989年のCOMIC BOX手塚治虫追悼号誌上で、「手塚治虫は倒すべき存在だった」と明確に書いている。

手塚氏は宮崎さんの少年時代のアイドルであり、無意識レベルにも宮崎氏の創作に影響を与えた人物である。

また、アニメーターとして業界に入ってからは消費者の立場から見ていた手塚氏と、同業者としての手塚氏のギャップに大きく失望し、苛烈に手塚治虫批判を繰り返していった。

仏ヌーヴェルバーグの若者たちが世に出るために先行する詩的リアリズムの作家たちを、さすがに敵視しすぎだろうというほど意図的に強く批判することで自分たちの地場を確立したように、宮崎氏にとっては手塚治虫を打倒するという事はある種の通過儀礼であり、そこに彼が新宝島を愛した少年から大人へと成長していく彼なりの汽水域があった。

まあ話が長くなったが、言いたい事はつまりアオサギには複数の人物のエッセンスが混ざり込んでいるという事を言えればそれで事は足りる。

誰かをモデルにしたキャラを出したからと言って、それは1:1で意味を変換して、鈴木敏夫という特定個人に何か言いたい事があるわけでもなければ、手塚治虫を今更全世界に向けてディスりたいという目的のためにわざわざ映画を制作する訳もない。
むしろこれは宮崎氏が実際生きてきた自分の人生から「はじめは打倒すべきもの」そして「その過程で自分を少年から大人へ導いてくれた船頭」というキャラを造形する際にそのエッセンスとして活かしている、実際に体験してきた事だからこそそのエッセンスにはしっかりとして手触りや普遍性が宿るはずだという信念があるというだけである。

こうした手法は君生きが初めてなわけでもなく、過去にもたとえば千尋は知人の娘さんがモデルになっている。つまりキャラを生き生きとさせるための材料でしかない。

メタファー映画 「ラブレス」

一方で、ではエッセンスではなくメタファーと明確に言える映画の例も出しておきたい。2017年のロシア映画、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の「ラブレス」という映画だ。

この映画はある愛のない夫婦の子供が、自分ができちゃった婚で生まれた望まれない子供であったことを盗み聞きしてしまい、絶望して家出する。夫婦は捜索願いを出して息子を探しはするものの、明らかに大して心配などしておらず、結局映画の最後まで息子は見つかる事はないという暗澹たる映画になっている。

この映画では、本編の筋とは何ら関係なくクライマックスで急にウクライナ情勢のニュースが流れており、ラストシーンでは母親がRussiaと書かれた服をまとっている。

つまりこの映画は、ロシアと旧ソ連圏の小国との関係性をメタファーとして描いており、親であるロシアは「我々は一つの家族である」と外面的に、または義務的には言ってるものの、実際には子であるウクライナに対しての愛などそもそも始めからなく、子供側の都合など知ったことでもない。つまりその仮面親子の関係を「ラブレス」であると描いた作品である。

その4年後に実際にウクライナ危機が起きた事は今更ここで言うまでもないだろう。

さてこの映画の場合には、1:1で親=ロシア、子=ウクライナと変換しないと、ほとんど何を描いてることにもならない単なる幼児虐待だけの映画になってしまう。そうした内容の映画であれば、わざわざフィクションで、役者がそれっぽく演じてやる意味などまるでない。
実際の体験者、その道何年の専門家に知見を取材したドキュメンタリーや医療ビデオの方が遥かにアクチュアルで学ぶべき内容になるだろう。

つまりこの映画では必ずメタファーとして意味を変換しなければならない類の映画であり、プーチンの目をかいくぐるために「隠している」という事情が作り手側に明確に存在している。

君生きのエッセンスと、ラブレスのメタファーを比較すれば、どちらもキャラクターの裏側にモデルがいるにも関わらず、明らかにやっている事が違うという事がわかるはずだ。

結論

長くなったのでこの辺で結論を述べる事にする。

つまり君たちはどう生きるかの中には、実在のモデルや、ジブリの会社事情、後継者問題、さらにはアニメーターの薄給問題や、アニメファンの生態までがエッセンスとして抽出されていると思うが、かといって、それはあくまでも人間の人生一般、この世界の普遍性の一部として借用している要素に過ぎず、宮崎駿が描きたいのは別に特定個人や団体の趨勢などでは決してない。

世の少年たちに立ちはだかる普遍的な問題、乗り越えねばならない思春期の敵、精神的なハードル、世界に横たわる利害関係、そうしたものの造形の材料の一部としているだけである。だからこそ君たちはどう生きるかという普遍的なテーマに至る事ができる。ジブリの後継問題なぞは世間にはどうでも良い事である。

その部分で歪んだ解釈を挟んでしまうからこそ「自己満足」「ジブリの内幕など知ったこっちゃない」という結論に至ってしまう。

もちろんそういう読み方はすべきでないとまでは言わないが、「豊かな読み方」と「貧しい読み方」の違いは確かにあるだろう。

何がエッセンスとなっているのかを感じ取ることは無駄ではない(し、実際自分は動画レビューでそれをやっている訳だが)、それはあくまで映画を味合う補助的なものでしかないことは観客の姿勢として考えねばならないと思う。そうしなければ観客は自らの首を自分で締めるだけになるだろう。

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