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7月23日/Supponcalifragilisticexpialidociousな日記

・人の面を拝みながら酒を飲むのはよいですね。ただ普段は自分がどれくらい飲んでいるか数えているのに 人と飲むとすっかり忘れてしまうので、翌日「結構酔ってたな」ってなりやすい。


・悩みと相談について。たとえば後輩に単位と人間関係について相談されたとして、前者には答えられるのに後者には答えられないのはなんでだろう?って考えると、単に自分が経験しているかどうかの差ですね。

・そういえば、たまに臨床心理士の方と話す機会があるのですが、彼らに相談事をすると必ず自分の体験談と絡めた話し方をするんですよね。当時の自分は「なんでぼくが相談してるのに自分の話をするんだろう」って思ってたけど、そもそも「私も経験していますよ」ということを示さなければ 患者に 相談に乗る資格があると思われないのか。

・ただ、人間関係に関してはどんなに経験豊かな人であっても他人の人間関係に同化することはできないし、そもそも自分と他人では思考様式も違うので、自分がどんな人間になったとしても「悩んでんじゃん。相談乗るよ?」とは言いたくないな……

・ので、今後は「自分は他人からの相談に対して”そのようなことがあったんだ”という事実の追認しかできませんよ」というスタンスを明確にしていくことにしました。何のアドバイスもできませんよ というスタンスを明らかにしていくことだけが誠実さだと思うのですが、みんなはどう?

・結局のところ問題を解決する矢先に立つのは他でもない当人なので、自分が満足する(他に責任転嫁しない)選択をするためには自分で考えるしかないですよね。その選択をできるだけ利益をあるものにできるように今自分の置かれている状況を書き出してみるというのは大切だと思いますが……

・だからその書き出しの場に同席してその人が状況を整理しやすい雰囲気を作り出すことだけが僕にできる全てだと思います。

・ダメな例→「うぇーい、そんなん告っちゃえよ」

・全部の相談にそういうテンションで返す臨床心理士がいたらそれはそれで人気が出そうだな。言い切りが好まれる時代だから……

・ガイドライン的にクビか。


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・昼は天一を食べた。この写真使いまわしなんだけど、同じもん頼んだし別にバレないだろ。


・人の”かけがえのなさ”について。”みんなちがってみんないい”って言いますけど、みすゞ的には”ちがい”がかけがえのなさを形作っているということなんですかね?同じくらい速く走れて同じくらいの数の唄を知っている人がいたとしたらかけがえがなくなる?

・自分のクローン人間(分子の動きとかを完全に再現した自分そっくりの人間)に今の立ち位置を乗っ取られて路頭に迷ったとして「自分のかけがえのなさ」は低下すると思いますか?

・結局のところ、”ぼくを認識するぼくが存在する”ということが大事なんじゃないでしょうか。我思う~ではないですけれども。上のクローンの話を鑑みると、特定の遺伝子を含んだ精子と卵子が結合したからぼくがいるわけではなくて、ぼくがなぜかぼくだったので特定の遺伝子を含んだ受精卵からぼくが生まれた、という。自分を形作る遺伝子とか肩書とかの要素は”考えるぼく”の形成に全く関与していないんですね。

・ここまではずっと自分の話をしていましたが、もしあなたに”考える自分”があるのであれば、中心にあなたがいるという点で私とあなたは住んでいる世界が違って、その世界は(遺伝子等に関わらず)あなただけのものである、という点がその人のかけがえのなさを作っているんじゃないでしょうか。あなたが死んだらあなたの観測する世界は終わってしまうから死なないでほしい、という。

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・「カンパーイ!サシ飲みなんて久しぶりですね!……先輩、アタシ最近毎日辛いんです。自分よりできる同期を見たりすると、自分の存在意義ってなんなんだろうって考えちゃうんです……」

・「毎日辛いんだね。ぜんぜん心配することはない。君の辛さは自分のかけがえのなさが揺らいでいるから起こっているんだよね。君の自我が何により規定されているか考えてみよう。ここから遠く離れた宇宙にそこに地球と全く同じ星があってそこに地球と全く同じ環境があると仮定してみる。そこにはもちろん君も君の親もいて、それは君と原子構造から何から完全に一緒だったりするから、意識や精神も含めて君自身と全く同一なはずなんだけど、今ここにいる君は彼女のことに気付くことさえできないよね?だから、そいつは君と全く同じ原子構造であったとしても赤の他人なんだ。こうなると個数的に同じということと性質的に同じということに関して考えなければいけない。この違いは分かるかい?図書館にある1冊の本を違う時間に二人の人が読んだとしたらこの同じ本は個数的に同じ本だけど、二人の人間が本屋で同じ種類の本を買ったとしたら、この二つの本は個数的には別で性質的には同じ本だと言える。さて、性質的に全く同じもの2つのものはあり得るかな?この問題は単純に考えても否定できるよね。性質的に全く同じものを二つ並べたとしても1つになってしまうことはない。それは、簡単に考えれば時間とか空間とかが存在するからだね。時間とか空間がない可能世界を想定すると、そこでは性質が全く同じものは個数としても同じものとして扱われちゃうんだね。全く同じ性質の二つのボール、ここではA、Bと呼ぼうか、それを箱に入れて混ぜたとしても、その二つは依然として別のものであり続けるんだ。僕たちにはそれが区別できなくなったとしてもね。そこには時間的な連続性が効いてくるんだ。人間で考えてみよう。持っている性質が全く同じで、時間空間上の位置も全く同じ性質をもった2人の人間なんて、ちょっと考えられないよね。もし同じ位置に自分と全く同じ性質を持った人がいたら……」

・「今までありがとうございました!今日で部活も辞めます!お代は結構です!さようなら!」

・やはりこうなっちゃうか……


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・ペットショップにすっぽんを買いに行った。動物が好きなんだけど、カエルは脆すぎるんだよな。いるか……?

・いませんでした。カス!

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・やばい菌。


・今日一日全く勉強していないことを思い出したので、もうそろそろ引っ込みます。

・さようなら。


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