9月20日/鳥の日記
・鳥見会。
・ワシだ!
・眠そうなペンギンだ!
・ハシビロコウだ!
・なんか大した写真がないな。
・楽しかった~。
・鳥がウロウロしているのを眺めるのも面白いのですが、一番うれしかったのは、餌やりコーナーの横を通りかかったところ 突然自分の肩にエボシドリが乗っかってきてくれたことでしたね。予期していない 鳥サイドからの突然の急接近がテンションを上げるので。
エボシドリ
・”不意のボディタッチが一番ウケるわ”ってユーミンも歌ってた気がする。
・歌ってないか。
・余談ですが、その後の飲み会で”おばさん先生のボディタッチにドキッとすることがある”という話をしたところ 同行者がドン引きしていたのが印象的だった。
・晩飯、二次会として居酒屋にも行ったのですが、写真が一枚もないや。何食べたんだっけ?
・帰宅して夜。
・大学にパソコンを置きっぱなしにしているせいで、日記が書けなかった。今日からは持って帰ろう。
・日記にスキを押してくれた人の文章を読んでいたところ、HSPの話をしていた。
HSPとは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味で、「Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)」と呼び頭文字をとって「HSP(エイチ・エス・ピー」と呼ばれています。(中略)HPSの特性は共感を得ることが難しく、HPSでない人たちとの差に自己嫌悪を感じることや、まわりに合わせようと無理をして生きづらさを感じやすくなる性質といえます。
・インターネットは現実世界を生きにくい人の割合が高いので、このような話題がウケるのだ。
・この人はHSPであるということにより周りから”HSPであるということを言い訳にするな”ということを言われており、”別に言い訳ではなく、自分の気質が生きづらいと言っているだけだ”という反論をなさっております。なんかこの文全体に悲しみが漂ってるな。
・”HSPである”と自認することによって辛さが除かれないのであれば、もうその名を捨てるしか無いんじゃないかなぁ。
・日常のなか、一人で辛い思いをしている人がHSPという括りを発見することによって、「自分と同じような苦しみを感じている人がいるんだ」「自分が劣っているわけではなくて、そもそもの気質が違うんだ」「仲間たちはこのような心持で日常の辛いことを乗り越えているんだ」ということを知ることが出来る。それが括りが存在する最大の利点で、その利点に与れないのならば自分をその枠に当てはめてしまうことをやめてしまった方がいいんじゃないかしら。
・ぼくの言語性IQと動作性IQは-読者は悟れ-ボーマンダのこうげきととくこうくらい離れており、グレーゾーンきわきわなのですが、別に病気であると自認することによって得るメリットもないなと思ったので、一番高いIQの数字以外は全部忘れるようにしている。問題の根本を解決せず、まわりの受け入れてくれる人に 自分の荷を背負わせてしまおうという。
・結局、生きにくさを作っているのは気質そのものではなく、気質と環境との不調和なので、生きやすい環境が見つかるまで関係性をシャッフルし続けるしかないのかな、と思います。”HSPと向き合うための心持”なんて、破壊的な友人ひとりで踏みにじられるだろうから、そのような人がいない場所を探して彷徨うしかないですよね。そのような環境があるかどうかは分からないのですが……
・あと、投薬治療を受ける気がないのであれば、病院より臨床心理士さんのところに行った方がいい気がします。もう多分何度も行っていると思いますが。HSPが心理学分野の言葉である以上、生きやすさを求めて医学へ向かうのはチグハグというか、「漢方医学で診断して、西洋医学の薬物療法を受ける」みたいな不自然さがあると思う。その学問の中で体系だっている事柄なのであれば、その学問の中で完結させないといろいろと齟齬がでちゃうからね。
・臨床心理士さんと話すときのモヤッとした手ごたえ、かなり好きなんだよな。決して反撃してこず、こちらの言葉を受け止めてくれたのかな、と思いきや弾かれる、みたいな。例えるなら、大量のババロアを殴っているような感じ。
・ババロアの下りは余計でしたね。
・さようなら。
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