きみはともだち

【あらすじ】
 退屈な大学生の篤弘は、入学者オリエンテーションで二つ年上の同級生、宗に出会う。つるむ相手のいない者同士なんとなく共に過ごすうち、次第にほどけてゆく宗の表情やしぐさに、篤弘は自分が感じたことのない、得体のしれない感情に侵食されていく。

 2022年冬。極東の国が戦争を開始し、世界のニュースを薄暗く塗り替え続けているころ、江藤麻美もまた、灰色のコンクリートの壁に囲まれた廊下を、固いパンプスの踵の音を響かせながら歩いていた。これから依頼人との接見を行う。

 事前に受け取った被疑者の資料を頭の中で繰りながら、江藤は歩を進める。大学の同期生を殺害したのだという。

 江藤にとって殺人事件の被疑者の弁護はこれが初めてで、知らず知らずのうちに呼吸が浅くなる。さほど凶悪な事件ではない。口論になった末のカッとなっての殺害である。事務所の上司は「被疑者の刑の減軽が最優先だが、まあ、そう珍しい事件でもないから。」と眉を上げ、少し間延びした口調で江藤を送り出した。

 今回の事件の争点は「計画的な犯行であったか否か」「明確な殺害の意志があったか否か」であろう。被疑者の経歴を確認するに、いたって普通の善良な学生に思えるが、殺害された被害者の経歴に少々難があった。明らかにすべきは、殺害の理由がその被害者の経歴に関連しているかどうかである。

 江藤は必要事項をざっと頭の中でおさらいし終えると、ちょうど接見室の扉の前に到着した。簡素な白い扉の正面に立ち、一つ深呼吸をして心を落ち着ける。

 江藤がこれから対面するのは、殺人犯である前に人である。どんなに些細な事柄であっても、見落とすことがあってはならない。

 江藤は軽くノックをし、静かに扉を開けた。

 部屋は広めに作られているはずだが、窓のない薄いグレーの壁が空間を狭く圧迫している。部屋の中央で仕切られたアクリル板の奥には、既に被疑者が座っていた。

 「今回弁護を担当いたします、江藤麻美と申します。これから刑の確定まで、協力して減刑に努めていきます。よろしくお願いします」

 一礼すると、アクリル板越しの被疑者も習って会釈をした。顔を上げるも、目線はアクリル板とテーブルのつなぎ目を彷徨っている。

 失礼します、と断ってパイプ椅子に腰かけ、被疑者と対面する。

 黒髪の短髪で、眉が太く精悍な顔立ちに見える。平均よりはやや大柄に見え、そういえば高校までは柔道部だったか、と江藤は思い返す。

 大学2回生と聞いていたが、眼孔が落ちくぼみ、目はうつろで、やや肌が乾燥していて、実年齢よりは老けて見えた。 殺害を後悔しているのかも、と江藤は考えた。裁判官に被疑者の後悔や反省を前面にアピールできれば、更生の余地ありと判断される可能性が上がり、減刑が狙える。江藤は音にならないよう、細心の注意を払いながら、詰めていた息をゆっくりと吐きだした。

「よろしくお願いします」

被疑者がワンテンポ遅れて、江藤に言葉を返した。目線は下を向いたまま、声は掠れていて覇気がない。

「ええ、よろしくお願いします」

会話をしてくれる気はありそう。江藤は少しだけ肩の力を抜いた。

「食事は摂れていますか。睡眠も」

軽いアイスブレークをしようと、軽い話題を振ってみる。被疑者が少しだけ視線を上げ、江藤の顔を捉えた。

「…まあ、はい。」

すぐに視線が下がり、今度は江藤の襟元の向こう側を見つめている。

 あまり会話が弾まなさそうなので、江藤は切り替えて、さっそく事件の概要を尋ねてみることにした。

「ーーではさっそくですが。まず、被害者と出会ったときのことを聞かせてください。警察にもお話しされたとは思いますが、もう一度私にも教えてください。覚えていることは、些細なことでも構いません。状況や、その時感じたことをできるだけ詳しく話してください」

なるべく穏やかに聞こえるように、被疑者に話しかける。

 被疑者は床を這うような声で静かに話し始めた。

「…あいつと出会ったのは、大学の入学者オリエンテーションでした。席が隣になったんです。それが初対面でした」

***

 大学の正門からキャンパスに到着するまでの道沿いに、桜の木が何本か植わっているのを見た。温暖化の影響か、四月も初旬だというのに花はすべて散り、葉桜になっている。散った花弁は綺麗に清掃され、桜の花の痕跡はどこにもなかった。

 本田篤弘は、二駅離れた実家から一番近い公立の大学、という条件でS城大学に入学した。偏差値50そこそこのこの大学は、比較的ゆるい雰囲気で、推薦入試やAO入試で運よく潜り込めたであろう学生や、もっとランク上位の国立大を狙って前期で失敗、後期で2ランク落として入学金や授業料の低い地元市営大に確実に滑り込んだ運の悪い学生まで様々だ。

 早々に同じ出身高校同士でつるんでいる同期生を横目に、篤弘は一人でキャンパス内で一番大きな講堂のある一号館に向かう。同じくS城大を志望していた高校時代の友人、加藤祐樹は前期で不合格、滑り止めの地元私大に入学した。加藤はオカルトや都市伝説、検索してはいけない言葉などおよそ明るいとは言えない趣味を持っていたが、人間的には明るく、付き合いやすい人柄だった。S城大と祐樹の入学した私大ではかなり距離があり、空きコマにどこかの店で落ち合うか、という提案をしても、実行は到底不可能であった。

 一号館の105号室に向かうと、既に同学部の入学者たちでごった返していた。入学者オリエンテーションの指導担当の教官が前から詰めて座るよう促している。しかし座席は自由なので、篤弘は教室に入ってすぐ、左の列の一番後ろの端の席に座った。

 大きな講堂の座席はみるみる埋まっていき、ほぼ満席になったとき、誰かが篤弘の肩を叩いた。

 「ごめん、一つずれてもらっていい?」

 講堂の座席と机は、横長の机に椅子五つが横一列に固定されており、椅子の後ろをよけて真ん中の空き席に座ることは不可能だ。篤弘はすぐにテーブルの上の荷物をずらし、自分も右隣の椅子に体を移した。

 「ありがとう」

 篤弘の肩を叩いた青年は少し微笑み、篤弘が空けた椅子に腰かけ、肩にかけていたトートバッグを床におろしてから、手帳と筆記具の入った筆入れを取り出し、机の上に置いた。

 大学デビューを期に脱色して浮きまくった派手な髪色をした学生も多い中、なんとなく自然体で落ち着いた印象の青年は、自分よりもかなり大人に見えた。

 「なんか珍しい?」

 青年が苦笑しながら篤弘に問いかけてきた。そこで初めて、篤弘は自分が青年をじっと見つめていたことに気づいた。

 「いや、ごめん。ちゃんと手帳とか持ってんだなと思って」

 全く思っていないことを取り繕うように言う。しかし、言い訳として咄嗟に出した言葉にしては適当だったと篤弘は自画自賛した。自分はこれまで手帳など持ったことがない。スケジュールはスマホのカレンダーアプリに入れるし、自主的に日記も書いたことがない。

 青年は「ええ?」とまた笑った。目が細まると涙袋が浮き上がる。自然体でも芋臭く見えないのは、全体的に色素が薄いのと、なんのことはない、ただ単純に容姿が整っているからだった。あ、こいつイケメンてやつだ、なるほど、と篤弘が勝手に納得していると、青年は青年で勝手に納得したように言った。

「ああ、確かに。メモはスマホでする人も多いよね」

 青年が手帳の新しいページを開きながら言う。窓から入る日光に照らされて、青年の指にうっすらと産毛が生えているのが見えた。ふうん、イケメンでも指に毛、生えんだな。篤弘は一人で感心した。

「ずっとメモは紙にしてたから、こっちのほうが慣れてるってだけ」

 篤弘が青年の指毛に注目している間にも、青年は穏やかな声で話し続けている。確かに、皆この短い空き時間にもスマホを弄っているというのに、隣の青年は手帳の新しいページに、黒いペンで「入学者オリエンテーション」と書きつけていた。その文字も、書写のお手本のように美しいというわけではないが、ある一定の規則にて形作られているのが見て取れる。読みやすい字だな、と篤弘は思った。

 「学科どこ?」

 青年は篤弘に尋ねた。手帳に書きつけることがなくなって手持無沙汰になったのだろうな、と篤弘は思った。

「物理」

「え、俺も」

ややぶっきらぼうな篤弘の返答に対し、青年は若干嬉しそうに言葉を重ねた。

「名前なんて言うの」

笑みを浮かべたまま青年が篤弘に尋ねる。

「本田篤弘」

「篤弘、俺は内田宗」

篤弘は青年をなんと呼ぶか一瞬悩んだが、相手は自分を下の名前で呼ぶことにしたようだったので、自分もそれに倣って同じく下の名前で呼ぶことにした。

「宗か、じゃあ、これから四年間よろしく」

「うん、よろしく。俺、大学に知り合いいないから、最初に同じ学科の人に会えてよかった」

宗は机に肘をつき、少し姿勢を崩しながら言った。ずっと笑顔だな、と篤弘は思った。

「他県から?」

「うん、あと俺現役生より二つ年上だから…」

「えっ」

何気なく明かされた新情報に篤弘はたじろぐ。

 高校まで柔道部だった篤弘は、上下関係順守の世界で生きてきた。一つでも年が上なら圧倒的強者である。篤弘は条件反射で背筋を伸ばした。

「えーっと、敬語使ったほうがいいっすかね…」

「いやいや、同じ一年生だから、そんなのいいよ。むしろ気を遣われたくない」

「あ、そう…。じゃあ普通にするわ」

宗が少し困り顔だったので、篤弘も切り替えることにした。浪人だってゴロゴロいるのだ。むしろ年上だと早めに教えておいてくれてよかった。気まずいからと隠されて、あとから発覚するほうがいろいろとよくないことになりそうだ。

「浪人してたのか?」

 そのまま会話を終えるのも何か変な気がして、何気なく聞いてみる。さすがに、2年も浪人してやっと、それも他県からわざわざ学びに来るような大学ではない。

 宗は事も無げに言った。

「高校に既に遅れて入ってるんだよね。通信制だったんだけど。いろいろあって」

 『いろいろ』について、篤弘は触れないことにした。現在の宗と自分の距離感で掘り進める話題ではないと思った。

「ふうん、なんか大変だな」

 ここまで喋ったところで、マイクのハウリングが講堂内に響き渡り、次いで教官が「はい、では入学者オリエンテーションを始めます―」と講話を始めたところで会話は終了した。

 会話が終わってよかった、と篤弘は内心で安堵し、講堂内の静かなざわめきに紛れ込ませて、小さく息をついた。

 それから、他に連れ立つ相手もいなかった篤弘と宗は、自然と2人で行動するようになった。教室で互いを見掛ければなんとなく隣に座り、時間が合えば流れで一緒に昼食をとった。敦弘は週に一度、活動とは名ばかりの集会をしている柔道サークルに所属し、宗はサークルには入らなかった。

「サークル、気に入るのなかったのかよ」

 学食の大盛りのきつねうどんを勢いよく啜りながら、敦弘は訪ねた。

「先輩と繋がり作った方が過去問とか楽だってよ。必修はいいけど、選択は俺と違うの取ってたろう」

 宗はカレーを咀嚼しながら、スプーンで皿の端の福神漬けを弄っている。

「馬鹿にしてるだろ。篤弘以外にも友達くらいいるよ」

宗は汗をかいた半透明のプラスチックのコップをあおり、半分ほどまで減っていた水を飲み干した。ガツ、とコップを大袈裟な動きで学食のテーブルに打ち付けて、宗はムッとした表情を作って言った。

 実際、宗はサークルに所属していないのに、友達関係には困っていないように見えた。人当たりが良く、清潔感があり、授業の前後や昼休みなど、よく他の学生と軽い雑談をしているのを見かける。

「今、実験は青木さんとペアだから大丈夫だよ」

表情の割にさほど不機嫌でない声色で宗は言った。青木美穂は大学祭の実行委員会に所属しており、入学早々、各所に散らばる同期や先輩の間に瞬く間にネットワークを張り巡らせた。彼女の周りはいつも賑やかだが、やや賑やかすぎることもあり、篤弘にとって青木の印象はあまりいいものではない。

 まあ、彼女が一緒なら大丈夫か、と、篤弘は油揚げに噛み付いた。うどんの汁と油揚げにしみこんだ甘い煮汁がじゅわりと溢れて口内を満たした。

「青木さん、もう実験のレポート持ってるんだよ。S判定だった先輩のやつ」

「はあー?ずりぃ」

「過去問あったほうがいいって言ったのはお前なのに」

宗は苦笑しながらも、してやったりといった顔で盆にコップを置きなおすと立ち上がる。

「もう行く?」

「うん、青木さんと実験の課題一緒にやることになってる。お先に」

「あ、そう」

宗は盆を両手で持ち上げ、椅子を腰で押してテーブルの下に押し込むと「じゃ」と言って返却口に向かって行った。篤弘は返却口に盆を押し込む姿を見ながらぬるくなった汁をすする。

 狙われてんな、と篤弘は思った。

 篤弘が抱いた宗の第一印象は、ほかの学生たちとそうずれたものではなかったらしい。学生委員会が開催した学科ごとの新歓パーティーで、さっそく宗は女の先輩に話しかけられていたし、男の先輩ですら、盛んに宗を「イケメンだ」と囃し立てた。隣にいる俺にも、フォローと言わんばかりに「君も男らしいね」と声をかけた。

 その時宗を囲む学生たちの中に、青木もいたのだ。青木は積極的に宗に話しかけるわけでもなく、色々と質問に答える宗をじっと上目遣いで見つめ、時折周りを見回す宗と目が合ったときにすかさずにっこりと笑顔を投げかけていた。その時、同じ白々しい挙動の女はほかにも何人かいたが、青木が宗を狙っていると知ればそのうち過半数は脱落するだろう。青木は女子学生の中でかなり力を持っていると、篤弘は見ていた。

 あの様子だと、宗が青木に強引に篭絡されるのも時間の問題かもしれない。宗の恋愛事情は知らないが、意思が強そうな青木と、おっとりしている宗はなんだかんだ相性がいいかもしれないと篤弘は思った。宗からは「こだわり」のような確固たる意志があまり感じられなかったのだ。

 腹は満ちていないが、うどんの汁も完全に冷えてしまったし、生協の売店で菓子パンを買って、学内の共有スペースかどこかで時間を潰すことにした。

 途中柔道サークルの先輩に出くわし、大きな声で名前を呼ばれ、雄たけびのような挨拶に笑いながら軽く返事をするなどし、キャンパス内のサークル棟の屋上にあるウッドデッキに備え付けられたベンチに腰を掛けた。菓子パンの袋を雑に破りながら、5月のさわやかな風が頬をなでるのを感じる。日差しは暖かいが、風はまだ冷たい。篤弘はパンを大きな一口でかじり、もごもごと口を動かしながら、屋上の上から景色をぼうっと眺める。

 正面は学内の緑化に大きく貢献している木々が、上方には青く透き通った空、左手には砂利の敷き詰められた駐車場、右手には大学の図書館がある。図書館を何気なく眺めていると、ちょうど入り口の自動ドアが開き、仲睦まじい男女が出てきた。

 宗と青木だ。 二人は何事かを話し合い、笑い合い、時に青木は宗の腕に控えめに触れながら、対面して建つ実験棟の二号館に入っていった。

 二人はお似合いだ、と篤弘は改めて思った。自分は青木のように主張の強い女は好きではないけど、宗はきっと違うだろう。宗から人の悪口など聞いたことがなかったし、考えれば考えるほど宗も青木のことを気に入っているかもしれないと納得していく。

 宗とは出会って2ヶ月も経っていないが、篤弘の大学生活に、もはや宗の存在は必要不可欠だった。青木と宗が恋人同士になったら、きっと青木は宗に四六時中べたべたとひっついているに違いない。篤弘は考えながら、小さくため息をついた。菓子パンの最後の一口を咀嚼し切って飲み込み、パン屑が端に寄った袋をくしゃりと握る。

「めんどくせえな」

 呟いた一言は、宗とは別に連む人間をまた一から見つけなくてはならないかもしれないことへの焦りと、じわじわと自身の心を侵食していく得体の知れない感情に対してだ。篤弘はその二つをまるごと見て見ぬ振りをして、重い腰を上げベンチから立ち上がった。ちょうどその時また、さっぱりとした5月の風が吹いた。髪が揺れ、首を擦り抜ける感触に篤弘は目を閉じる。まるで心にへばりついたもやがかき消されていくようだった。篤弘の脳裏には、その時なぜか日に照らされて透き通った宗のまつ毛と、少し血管の浮いたまぶたがぼんやりと浮かんでいた。

 次の日は一限から四限までみっちりと授業が詰まっているうえ、翌日の一限にレポートの提出があった。宗と篤弘は、菓子やら総菜やらを買い込んで、宗が一人暮らしをしているアパートで泊まり込みでレポートを仕上げることにした。

「買いすぎた」

「どうせ今日寝ないだろ」

「寝ろよ!」

笑い合いながら連れだって鉄製の階段を登る。宗の部屋は二階建て木造アパートの201号室だ。

「角部屋か、いいな」

「篤弘は実家だっけ」

「おう」

「じゃあ毎日おいしいごはん食べれるんだ」

「いやあ、うちの母親そんな料理うまくないからな」

「出てくるだけいいだろ」

鍵穴に鍵を差し込みながら宗が言う。伏せられた目元を見て、昨日、さわやかな風の中で宗のまつ毛が頭に浮かんだことを思い出した。

「お前、毛の色素薄いよな。ハーフかなんか?」

唐突に投げかけられた質問に、宗は多少驚いたようだったが、ガチャリとドアを開けて、篤弘を中に促した。

「いや、純日本人だけどね。寒いとこで生まれたからじゃないかな…」

「へぇ、そういえば聞いたことなかったけどどこなの?」

「岩手」

「へぇ

」靴を脱ぎ、短い廊下の左手にはミニキッチンが備え付けてあり、その向かいにはユニットバスに続く引き戸があり、微妙に開いた戸の隙間から、暗闇に洗濯物が干されているのが見えた。さらに進むと突き当りに居室につながる扉がある。

 「汚いところですが…」

テンプレートの言葉を発しながら宗が居室のドアを開ける。

「別にきれいじゃん」

篤弘は言いながら部屋を見回した。八畳ほどの居室は、正面にくすんだ青色のカーテンがあり、向かって右にはノートパソコンが乗ったデスクとオフィスチェア、左にはきちんと整えられたベッドが据えられている。中央には正方形の黒いローテーブルがあった。全体的にものが少ないが、デスクのわきの本棚には、篤弘が小学生の頃に放送されていたヒーローのフィギュアが飾られている。

「お、エンライガーじゃん。好きなの?」

部屋を見回しながら、篤弘はひとまず床にスーパーの袋を置いた。宗はデスクの横のフックに背負っていたバックパックをかけながら言った。

「知り合いが好きで、テレビでやってた時にもらったんだよね」

「へえ」

エンライガーが放送されていたのは7年前だ。篤弘はその頃小学5年生で、二つ年上の宗は中学一年生ということになる。

「世代ってわけでもなさそうなのに」

篤弘がぽつりと言うと、宗は笑いながら言った。

「俺は世代じゃないけどね、その子は好きだったから」

ふい、とエンライガーのフィギュアを目にいれた宗の顔が、今までに見たことがないほど優しい眼差しだったような気がして、篤弘はついじっと見つめてしまった。

「…なに?」

 篤弘の視線に気づいた宗は少し気まずそうに笑う。

 見つめたのは自分だというのに、篤弘も気まずくなって乾いた笑い声を漏らした。

「いや、あー」

 頭の中で右往左往しながら言葉を探す。別にやましいことをしたわけではないのに、なぜか言い訳を探した。

「あー…。…お前、顔綺麗だよな」

言った途端、宗は驚いたように目を見開いた。たっぷり3秒沈黙した後、少し目を伏せて視線を横に逸らし、肩をすくめながら「ふうん」と小さくつぶやいた。宗はそのままベッドフレームを背もたれにして床に腰を下ろし、篤弘に「まあ、座って」と声をかけた。

 据わりが悪い気分になりながらも、テーブルに対して直角になるように篤弘も床に腰を下ろす。クッションもラグもないので床に直だ。夏だというのにフローリングの床がひんやりと感じられて、篤弘はまたもや落ち着かない気持ちになった。

 手持無沙汰なので、スーパーで買ってきたスナック菓子を一つ取り出し、「これ、開けるな」と一応家主に断って封を切る。自分たちが座るテーブルの辺とは対角側にその菓子の袋を置いた。一つだけつまんで口に放り込み、自分のバックパックから課題のプリントと授業のレジュメの入ったクリアファイル を取り出す。バックパックの中ではなぜかペンケースのファスナーが開いていて、ペンや消しゴムがほかの荷物と混じって散乱していた。

「俺の」

篤弘がバックパックの中の筆記具を拾い集めていると、宗が唐突に言葉を発した。篤弘のほうは見ず、ただ正面にある本棚のほうを向いている。

「俺の顔、綺麗って思うんだ」

宗の表情は変わらない。篤弘は、宗の独白じみた呟きに、「言ってはいけないことを言った」と思った。

「…なんかまずかった?」

恐る恐る問いかける。少しだけ体を縮めて、宗の顔を上目遣いに伺った。

 篤弘のその様子を見て、宗は笑った。

「いや? あのフィギュアくれた子も、同じこと言ってたんだよね。だからちょっと懐かしくなった」

宗は改めて篤弘と目を合わせて、にっ、とほほ笑むと、自分もデスクの横にかけたリュックを漁って、筆記具とレジュメを取り出し、テーブルに置いた。篤弘は肩の力を抜き、「なんだよ」と声を上げた。

「地雷踏んだかと思った」

深いため息とともに言うと、宗はますます笑った。

「嬉しいよ、普通に」

「じゃあ普通に嬉しそうな顔してくれ!」

「ごめんごめん」

二人は笑い合い、「じゃあ、やるか」と篤弘が言った。それから二時間半かけて、宗が課題のレポートを半分ほど仕上げた。篤弘はまだ自分たちの実験結果と参考文献を見比べている。スーパーの白い袋の中にはまだスナック菓子が詰まっている。

 時刻は21時を回り、窓の外には星々が輝いていた。

 篤弘は炭酸の抜け始めたサイダーをボトルごとあおり、スパークしそうな脳を冷やした。

「一旦休憩するかあ」

宗は時計を見て言った。

「合わないんだよなぁ、実験の数字が。誤差のレベルじゃないんだよ、これはまずい」

「ペアの人は?」

「あっちも進んでないっぽい。今同じ実験だったヤツあたってみてるって。確か横尾と桜井は同じ実験だったと思うけど、あいつらは期待できねえもん」

横尾と桜井は気のいい人間だが、勉学においては要領が悪い上に授業中も真面目とは言えない。実験のレポートを首尾よく進めているとは到底思えなかった。「あー…」と宗は苦笑すると、ズボンのポケットからスマートホンを取り出した。画面を見ると、メッセージの通知があった。

「青木も今レポートやってんの?」

「そうそう」

篤弘の問いに答えながら、宗は左手の親指ですいすいと返信を入力する。片肘をついて右手で口元を覆っているため、表情を伺い知ることはできない。

「レポート詰まっちゃったっぽい」

宗は引っ切り無しに震えるスマートホンに対応しながら篤弘に言った。

 篤弘は自分のレポートを横目に見ながら、新しいスナック菓子を袋から取り出して開けた。

「ペアだし、青木とお前でレポートやったほうが効率よかったよな」

空気を含んだパフ状のスナック菓子を口に放り込み、もぐもぐと租借しながら何でもない事のように言う。しかし篤弘は、「これから青木がここに来るかも」と内心気が気ではなかった。青木がここに来たら、自分の居場所がなくなってしまうように感じた。

「まあ、そうかもね」

宗と青木のメッセージのやり取りは続いているようだ。宗は、いろいろとメモをしてある自分のレジュメの写真を撮り、青木へ送ったようだった。

 篤弘は急に居心地の悪さを感じて、自分もバックパックの側面のポケットからスマートホンを取り出し、ロック画面を見る。案の定、同じ実験テーマの横尾から、実験レポートを写させてほしい旨のメッセージが届いていた。

 はあ、とため息をつく。「まだ1/3程度しか進んでいない」と返事をした。即座に既読がつき、間髪入れずに泣き顔の絵文字が送られてきた。

 「続きやるかあ」

宗がスマートホンを伏せてテーブルの上に置いて、シャープペンシルを取った。

「青木は?」

「わかんないって言ってたところ画像送ったし大丈夫」

宗が言う間に、また宗のスマートホンが震えた。宗はスマートホンをひっくり返してテーブルに置いたまま、人差し指で返信を入力した。指が液晶の上を何往復か滑ると、また宗はスマートホンを裏返しに置いた。

「いいのか?」

「うん」

「青木、なんて?」

「サークルの人とファミレスで課題やってるから来ないかって」

宗がスナック菓子の袋に左手を突っ込み、一つだけ手に取ると、雑に口に放り込んだ。咀嚼しながら、そのままここでレポートの続きに取り組むことにしたようだった。

「行かないのか?行けばいいじゃん」

篤弘は心にもないことを言った。口元に少し笑みを浮かべながら、何でもない事のように、努めて冷静に言った。 宗はこちらを横目で見ながら少し目を細めた。

「篤弘が行くなら行く」

「はぁ?」

篤弘は少しだけ目を開いて驚いたふりをした。実際に驚いてはいたが、その他にある別の感情を気取られないように大げさに表情を作った。

「なんでだよ、俺別のテーマだから役に立たないって」

「そうじゃなくて」

宗は篤弘の主張をしっかりと聞き終わった後、篤弘に比べ心持ち静かに言った。

「俺、篤弘がいないならやだ。楽しくない」

「楽しくないって…」

レポートに楽しいもくそもあるかよ、と、ぼそぼそと半ば説教じみた言葉を吐きながら、篤弘は内心自分の気持ちが激しく高揚するのを感じていた。自分をじっと見つめる視線の中心にある、瞳の淵がいつもより鮮明に見えた。グレーがかった光彩と、白目の境目は、まるで水彩絵の具のグラデーションのようににじんでいる。二つも年上の癖に、子供のようなことを言う。俺がいないと楽しくない。俺がいないなら行かない。宗の言った言葉が頭の中で反響する。だって、お前と青木は仲がよさそうに歩いていたじゃないか。腕を控えめに触られたりして、まんざらでもなさそうだった。行けよ、青木はきっとお前をそういうつもりで呼んだんだ。

「篤弘、別に行きたくないだろ。青木さんのとこ」

「いや、そんなことはないけど」

え?と、今度は宗が少し驚いた顔をした。

「青木さんのこと苦手だと思ってた」

「え?」

「違った?」

「いや…」

少し間を開けて、いや、違わない、と篤弘はつぶやいた。篤弘は、自分の中のよくわからない感情に翻弄されていた。篤弘は、宗を他人の行動に感情を左右されない人間だと思っていた。まだ出会って二か月弱だが、見かけは優しくおっとりしていて、誰のことも不快にさせない柔らかな印象だが、しかし「それはそれ、これはこれ」という自分の意志がはっきりしているように見えた。その、「それはそれ、これはこれ」の「これ」の部分に自分自身が入っているのだと知って、篤弘の体温は急激に上昇した。

 宗は他人との心の距離がある。これまで篤弘が感じていたことだ。行動は共にすることが多いけれど、それはその時々にたまたま近くにいたからであって、特別自分でなければならない理由はなかったはずだ。そう篤弘は思っていた。

 「ほらね」

宗は心底おかしそうに笑った。鼻の付け根にしわの寄った、少しいびつな笑い方だ。いつもの綺麗なだけではない、悪戯っぽい笑みだった。

 篤弘がいないと楽しくない、ただそれだけの言葉になぜこんなにも心が乱されたのかがわからなくて、篤弘はただ「うん」とだけ言った。

 レポートは結局、朝の4時までかかった。

***

 それからというものの、宗は何かにつけて篤弘の後をついてくるようになった。篤弘には宗以外に特別親しいと思える友人もいなかったので、特に支障はなかった。柔道サークルの部室に宗が来て、先輩たちとの雑談に混ざったことがあった。先輩たちは、自分たちに比べてひょろっとした、線の細い宗を見るなり、ここには似合わないなと言って笑った。宗と篤弘も、それにつられて笑った。先輩たちは宗のことを気に入ったようだった。宗も、話しやすい先輩だねと言った。学校が終わった後に二人でラーメンを食べに行ったりした。もう少し暑くなったら海に行こうとか、夏休みに自転車で、少し長い時間をかけて旅行をしないか、という話もした。そのすべてに、宗は笑って答えた。篤弘と二人きりの時だけ、あの鼻の付け根に皴の寄る、子供のような変な笑顔を見せることもあった。

 篤弘は、何でもない風を装っていた。しかし、自分より少しだけ背の高く、女性に好かれる風貌の、二歳年上の宗が、自分に懐いて笑顔で後ろをついてくるのに、とてつもない優越感を感じていた。

 一度、青木が授業終わりに宗を大学祭の実行委員会に誘っている現場に遭遇した。宗は「ありがとう。でも忙しくて、時間がないんだ」と言って、その誘いを断っていた。

 宗は別に忙しくない。俺と遊んでるだけだ、と篤弘は内心ほくそ笑んだ。学内でも人気者の青木の誘いよりも、自分との遊びの時間を優先したことに篤弘は狂喜乱舞した。青木は「そう、じゃあ今度、飲み会だけでも来ない?一年生だけでやるし、委員会の外の人も来るから、宗くんも楽しいと思うよ」と食い下がった。宗は「バイトのシフトがまだわからないから、行けたら」とうやむやにした。

 少し離れたところから見ていた篤弘と、宗の視線がぶつかる。宗が笑った。

 「じゃあ、また」

 そう青木に告げると、宗は小走りで篤弘のもとへ駆け寄った。

「見てたなら声かけてよ」

「邪魔かと思って」

「いや、邪魔してくれたほうがありがたかった」

宗が小声で言った。青木は少しだけこちらを見て、いつもの仲間と逆方向へ連れだって歩いて行った。

「篤弘飲み会興味ある?」

「ない。誘われてたろ、行ってくれば?」

「行かない」

もはや行かないのをわかっているのに、篤弘はわざと宗に促して、案の定否定され、勝手に満足した。二人はその足で食堂に向かう。三限は空きコマで、四限は出席で点数が六割もらえるので、授業に出さえすればそれだけで単位がもらえる単元だ。

 食堂で篤弘はカツカレーを、宗は生姜焼き定食を、それぞれ盆に料理を取って、空いている席に座った。

「ごめん、ちょっとトイレ。先食べてて」

宗が立ち上がったので、篤弘は「おー」とだけ返事をして、銀色のスプーンをカレーと白米の境目に突っ込んだ。大きくすくってばくりと口の中に入れる。食堂のカレーは、市販のルゥにスパイスを追加で入れているのか、安っぽい甘みの後に妙に本格的な辛みが追ってくる。咀嚼しながら、ザクザクの衣をまとったトンカツの一切れを、スプーンのへりを押し付けて、力任せに半分に断ち切った。白米とカレーの上に分割したカツをセットし、スプーンで一緒にすくいあげてまたばくりと食らおうとした時、斜め前から声をかけられた。

「お疲れ」

口を閉じて声のしたほうに視線を向けると、青木だった。

「お疲れ」

返事をして、またカレーに向き直る。スプーンに盛った山の頂点に載ったカツがバランスを崩しかけていたので、急いで食らいついた。咀嚼していると、青木が宗の置いて行った盆の横の席に座った。

「本田くん、宗くんと仲いいよね」

「あー、うん」

青木は篤弘がカレーライスをもぐもぐと咀嚼するのを見ながら続けた。

「大学祭の実行委員主催の、一年生飲み会があるんだけど」

「へえ」

「よかったら来ない?一年生は無料で食べ飲み放題、二年生以上の先輩が全部奢ってくれるんだけど」

「楽しそうだな」

篤弘が言うと、それに目を輝かせて、声を高くして言った。

「来週の金曜の夜だよ。暇?」

青木は笑顔で首をことりと傾けた。

 人好きのしそうな、可愛らしい笑顔だなと篤弘は思った。とびぬけて美人というわけではないけれど、きちんと身なりに気を使っていたり、控えめに化粧をしていたり、たまに周りが見えなくなるほどににぎやかになるのは玉に瑕だが、彼女を好きになる男はきっと多いだろう。

 彼女はきっと、宗本人にアプローチをして自分の思いを実らせるのが難しいと踏んで、周りから固めようと思ったのだ。その判断は多分正しい。策士だ、と篤弘は感心した。

 しかし、それはその周りの人間が彼女に好意的な感情を持っていて初めて成立する作戦である。篤弘は青木のような、悪く言ってしまえばうるさい女は好きではなかった。作戦は素晴らしい。だが相手が悪かった。万が一宗がお前を好きになって、めでたくお付き合いを始めることになっても、お前は絶対宗を束縛して、自分を何より第一優先にしてもらわないと気に食わないんだろう。大学祭の実行委員会に誘っておいて、それで宗が委員会のほかの女が宗と仲良くしようもんなら、「なんで私以外の女の子と楽しそうにするわけ?」と理不尽に詰問するのだ。しまいには「友達と私どっちが大事なの」と問うのだろう。冗談じゃない、と篤弘は思った。夏休みに俺たちは自転車に乗って貧乏旅をする。長いこと自転車に乗るから連絡も取れない。お前にそれが耐えられるか?宗が青木の誘いを断って篤弘のもとに駆け寄るとき、その後ろ姿を恨めしそうに眺めるのを篤弘は見ていた。あの目はそうだ、お前は絶対そういうやつだ。

 篤弘は、このほぼ偏見で凝り固まった考えを根拠に、よし、橋渡しは絶対にしない、とこの瞬間に決めた。

「バイト」

「えーっ」

青木はあからさまにがっかりした声を上げた。「そっかあ~…」と青木はうなだれた。

「ごめんな」

宗を連れていけなくて、と内心で告げた。いやいや、全然。また誘うね、と青木は言って、立ち上がった。

「じゃあね」

青木は軽く手を振って、食堂に入ってくる人混みに逆らって去っていった。時間にして三分ほどだっただろうか。さらに二分ほど経って、宗が帰ってきた。

「なんかめちゃくちゃ混んでた」

「おう、おかえり。今青木が来てたよ」

「青木さん?」

篤弘と対面して座り、少し冷えた生姜焼きに箸をつける。

「飲み会誘いに来てた」

「篤弘のところにも?」

宗は苦笑した。笑いながら、「行く?」と篤弘に向かって言った。

「行かん」

「ふうん」

さして驚かず、宗は白米を口に入れる。

 笑う宗を見ながら、いいのかな、と篤弘は思った。宗はまだサークルに入っていなくて、再来月には夏休みが来る。きっとどのサークルも、夏休みに合宿だの旅行だのをして、より親睦を深め合うのだろう。対して自分たちは、二人きりで貧乏旅行をしようなどと計画している。お互いがお互いに偏りすぎている気がした。

 しかし、それでもいいかと篤弘は思った。 宗のあのくしゃりと歪んだ、自分だけに見せる変な笑顔をまた見たいと思った。

***

 夏休みの三日目から、大体二週間かけて関東を自転車で旅をすることにした。フェリーで一晩かけて横須賀に移動し、積んだ自転車で一週間、安宿に泊まりながら移動する。行き当たりばったりで、地図を見ながら都度目的地を決めることにした。八日目からは、違う道を通って一週間かけて横須賀のフェリー乗り場に戻る。このために、二人とも中古のロードバイクを買った。宗は籠のついたママチャリで今回の旅に挑もうとしていたが、昔漫画で読んだ知識をもとに篤弘が止め、篤弘は土木作業の日雇い、宗は在宅で校正のバイトをして旅行とロードバイクの資金を貯めた。

「既に焼けてるな」

 宗が篤弘の土方焼けを笑った。Tシャツの袖を少しめくると、色の境目がくっきりと表れている。

「お前も二週間でこうなるんだよ」

笑って、二人は横須賀のフェリーポートに降り立つと、海沿いに自転車を走らせ、美術館へ向かった。ガラス張りの美術館の中の絵画や彫刻を一通り見て、敷地から一望できる東京湾をゆっくりと眺める。潮風に吹かれて色素の薄い宗の髪の毛先が宙に流れ、そこが日に照らされて、より透けるような色になった。

「暑い」

遮るものが何もない屋外で、雲一つない晴天だ。さわやかな景色とは裏腹に、八月の太陽は二人の肌をじりじりと焼いた。

「お前、日焼けしたら皮剥けるタイプ?」

「いや、赤くなって、痛くなって、何日かしたら元の色に戻る」

「やばいじゃん、日焼け止めは?」

「この夏は焼きたいんだよ」

「焼けないんだろ」

宗の鼻の頭が、既に赤みを帯びているのがわかった。コンビニに寄って、日焼け止めを調達して塗らせようと篤弘は決意した。

「さすがに焼きたい」

宗は言うと、ほら、と言いながら自分の腕と篤弘の腕を並べた。篤弘は宗の意図を汲んで、見やすいように自分の腕を前に掲げたが、その瞬間ギョッとして、笑った。

「すげえ! 食パンみてえ」

食パンのふかふかの内側の部分と、固い耳の部分のような色の違いに、篤弘は思わず噴き出した。

「本当に焼けねんだな」

「ね。だから多少はこの二週間で焼きたい」

「そうか…」

じゃあ日焼け止めはなしか、と、不服そうな宗の顔を見て篤弘は考え直した。

 結局、その日の夜から宗の肌はどんどん赤みを帯びていって、真っ暗になるころには腕や顔が真っ赤になった。特に首の後ろや腕の外側は自転車に乗っている間常に日に晒される上に、宗は肩の位置までTシャツをまくっていて、かなりひどい状態だった。

「痛い」

「そりゃそうだろ」

二人はこの日ビジネスホテルのツインルームを取って、ユニットバスの冷たい水を溜めた浴槽に、「痛い」しか言わなくなった宗を服を剥いて放り込んだ。水圧に肌を押されて「うわあ!!」と宗が叫んだが、10秒ほどじっとしていると徐々に体の力が抜けていくのが見て取れた。

「調べたらアロエのジェルがいいらしいから、ひとっ走り買ってくる」

「わかった、ありがとう…」

ばしゃ、と手ですくった水を顔にかけながら宗が言った。顔も頬や鼻が赤くなり、やけどのようになっている。薄く目を開けて篤弘のほうを見ながら、宗はへへ、と力なく笑った。

 その顔を見ているとなんだかたまらなくなって、篤弘は宗の濡れた頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。

 いた、いたた、と言いながら、ばしゃばしゃと浴槽の水を揺らし、宗が声を上げて笑う。篤弘は、いつもは落ち着いてすました顔をしている年上の同級生が、素っ裸で、自分の手に反応して無邪気に笑っている様子に高揚した。

「アロエ、頭皮にも効くかな」

宗が頭を塗れた手で押さえながら言った。

「べたべたになるから、頭はとりあえず水で冷やせ」

うん、と言うや否や、宗は体を丸めて頭ごと水面に顔を突っ込んだ。そのまま、水面から右手を出して、篤弘の方向に向かってふりふりと手のひらを振った。

 その様子に少し笑ってから、篤弘はスマートホンで近くの量販店を検索し、ロードバイクで買い物に向かった。 三十分後に篤弘が帰ってくると、宗は服を着て、ベッドにうつぶせに横たわっていた。

「おかえり」

「ただいま」

篤弘は、二台のベッドの中央に備え付けられたサイドテーブルに、買った品物を並べる。

「なんかアロエジェル、思ったより安かった。それとコンビニで氷買ってきたから、これで冷やすぞ」

「うん、ありがとう」

それから、と篤弘はオレンジ色のパッケージの箱を続けて置いた。

「これ、サンオイルな。これがあると赤くならずに焼けるらしい」

「えぇ!?やったぁ!」

宗は飛び起き、サイドテーブルに置かれたサンオイルをひったくった。しげしげと成分表や使い方を読み込む宗から、篤弘がサンオイルを取り上げ、代わりにアロエジェルを渡した。

「あっ」

「まずはやけど治してからな」

宗はそうだね、と頷くと、アロエジェルのポットの蓋を開けてジェルを指ですくい、腕全体に塗り付けた。

「ひんやりしてる、効きそう」

「よかったな」

もう片方の腕にも同じように塗り付けたあと、両手に残ったジェルを首の後ろにも塗った。またポットから、同じようにジェルをすくうと、両手で顔全体に塗り付けた。

「多すぎたかな、これ」

その声に、篤弘は視線を落としていたスマートホンから顔を上げると、透明なジェルで顔をべたべたにして、前髪を額に何本か張り付けた宗が無表情でこちらを見つめていた。その表情が、すべての感情が抜け落ちたようなのに、顔は鼻や頬が赤くなっていてベタベタなのが間抜けで、思わず声を出して笑った。

「合ってる?」

「絶対違う!ははは」

化粧品だから多少は浸透するだろうが、それにしたって、鼻のキワや顔の凹凸に水たまりのように透明なジェルが溜まっている。篤弘はベッドの足側にある簡素なデスクの上のケースからティッシュを二、三枚取り、赤くなっている部分をよけて、宗の顔の余分なジェルを拭いてやった。その間、宗が口を閉じたまま、ふ、ふ、と鼻だけで笑うものだから、薄いティッシュの端が鼻息で揺れた。

 あらかた拭いてやって、ティッシュを顔から離したとき、ふと、宗の唇の皮がむけているのが目に入った。何も考えず、口の横の浸透しかけているジェルを指で拭って、目の前の宗の唇をその指でなぞった。宗は篤弘の指を追うように目線を下げて、次いで、いつもと違い、自分の顔より上にある篤弘の顔を見た。

「よしできた」

篤弘は宗の唇から指を離して、持っていたティッシュの乾いた面で自分の指についたジェルをぬぐった。

「汗、気持ち悪いから、風呂に入ってくる。そしたらどっか、近くの店に夕飯食いに行こう」

「わかった。調べとくよ」

おう、と返事をして、篤弘は浴室に向かった。 浴室に行くと、水は全部抜かれていて、浴槽内は軽く拭き上げられているようだった。篤弘は服を脱いで浴槽の中に入り、カーテンを閉めて、シャワーのコックをひねった。最初に冷たい水が出て、ほどなくして徐々に温度が上がっていく。

 篤弘は後悔していた。それと同時に、意外にも細かいことを気にしない質らしい宗に感謝した。

「キモすぎんだろ」

小声でつぶやいた。ティッシュで拭ってやるまでは、多少距離は近いかもしれないが、ない話ではない。唇に触れるのはやりすぎだ。しかも、大の男が二人、見つめ合って。 篤弘は固く目をつむって、先ほどのことはもう考えないことにした。ざっと頭と体を備え付けのシャンプーとボディーソープで洗い、アメニティのタオルで体を拭いて、Tシャツは変えて、ズボンは先ほど脱いだものをまた着た。

 浴室から出て、居室に向かうと、宗がパッと顔を上げた。

「やっぱり海が近いから、海鮮がうまいみたいだよ。歩いて五分のところに居酒屋があるから、今日はそこで食べよう!

」あっち、と居酒屋の方角らしき方向を宗が指さす。

 こんなにはしゃぐ奴だったか、と篤弘は思った。大学にいるときはもう少し落ち着いていて、他の人間の話を静かにうんうんと聞いてやり、いつも薄く微笑んでいた。旅はまだ初日だというのに、既に宗の新しい面が次々に発掘されている。そのたびに、篤弘の胸は今までに感じたことのない、不快とも言えない、どちらかと言えば快感とすら言えるような違和感で埋め尽くされていた。 何も言わなくなった篤弘を見て、宗は不思議そうに言う。

「魚はあんまり好きじゃない?ちょっと歩くけど、焼き肉屋もあるよ」

ここ、と言いながらスマートホンをトットッと音を立ててタップして、口コミサイトを表示させて篤弘の目の前に画面を向ける。

 「…いや」

篤弘は宗をじっと見つめたまま、溜息とともに声を出した。

「海鮮行こう。俺、海鮮好きだよ」

言いながら立ち上がると、宗は笑顔になって、「よかった、行こう」と言った。

 旅の移動はすべて自転車で、一日に二十キロから五十キロ移動した。途中観光地に立ち寄って割高な食べ物を食べ歩きしたり、明らかにデートスポットであろう場所にTシャツに短パンのよれよれの男二人で入り込み、意外にも楽しいと言い合ったりした。

 宗の日焼けは二日ほどで完治し、服から出ている部分にサンオイルを塗って、その後少し考えて「上裸で自転車乗ってもいい?」などと言うものだから、「それやるなら百メートル離れろ」と篤弘が返してご破算になった。その代わり、少し自転車を漕いで人でごった返す海水浴場に立ち寄り、レジャーシートの上に海パンで寝そべった宗にサンオイルを塗ってやって一日中肌を焼いた。篤弘は始めの三十分ほど隣に寝そべっていたが、早々に飽きて一人で海で泳いだ。たまに戻ってきて、魚の干物のように宗をひっくり返す。途中海の家で買った具の少ない焼きそばとカレーを二人でそれぞれ食べて、また離れてそれぞれに過ごす。

 四回目に宗をひっくり返そうと、篤弘が海から上がったとき、宗が若い女性二人に話しかけられているのが見えた。なんとなく立ち去ろうと思ったが、宗に見つかるほうが早く、手を振られた。

 仕方がないので砂浜を踏みしめて近づいていくと、女性たちが「あの子?」「へえ、かっこいいね」「怒られちゃう?もう行こっか」と口々に言いながら、女性たちは宗に向かって手を振り、篤弘に向かって軽い会釈をして、きゃはきゃはと笑いながら小走りで去っていった。

 膝を三角に折り曲げて座る宗のもとへ篤弘がたどりついた。

「逆ナンか?」

「うん」

「それにしちゃ、すぐはけてったな」

「あの人たちには申し訳ないけど、そんな気分じゃなかったからよかった」

これ、あの人たちがくれたよ、と宗が篤弘にラムネを手渡した。篤弘はラムネ瓶に焼きそばを食べた後の割りばしを突っ込んでビー玉を落とし、噴き出す炭酸を口で受け止めた。

「なんて言ったんだ?」

炭酸が落ち着いたのを見計らって口を離し、宗に問いかけた。宗は篤弘のほうをじっと見て、あの、鼻に皴の寄った変な笑顔を見せた。

「彼氏と来てるって言った」

ラムネに口をつけかけていた篤弘は驚愕して目を見開き、自分の分のラムネを、篤弘の真似をして強引に開けて炭酸を噴きこぼして手をべたべたにしている宗を見やった。

「だから俺たち、今ゲイカップルだよ」

イヒヒ、とでも声を上げそうな顔で宗が言った。

「お前なあ…」

呆れた風を装いながらも、篤弘の内心では感情があちらこちらへ暴れていた。ごまかすためにラムネを一気に飲み干す。もうここまでくると、篤弘はその感情の正体が何なのか、いい加減理解していた。そして、まさかこいつは俺の気持ちを俺より先にわかっていて、からかっているんじゃないだろうな、という疑念も沸いた。

 篤弘は、自分が宗に恋をしたことを自覚した。篤弘はそれを自覚する前から、もはや宗に対しての客観的視点は皆無で、宗のあの、悪戯が成功したときの変な笑顔も、たまに見せる年上とは思えないガキっぽさも、あの日ホテルで見たまだらに赤くなった肌も、すべて無意識に記憶に焼き付けては、寝る前や自転車を漕いでいるとき、一人で風呂に入っているときに無意識に反芻し、宗が自分に向けた好意的な視線や会話を、脳内で何度も繰り返し再生していた。そして今、宗が何かアクションを起こしたときに、オートマチックに起こる反応ともいえる自分の心の動きの原因が何だったのかに気づき、納得した。 同時に少しの絶望があった。自分が男を好きになったことへの戸惑いがあった。

 篤弘が宗の邪気のない笑顔を見て思ったことは、この恋を成就させるのは早々に諦めようということだった。むしろこの気持ちを抱えたまま、ずっと友達でい続けることのメリットばかりを考えた。男同士の友情はきっと強いだろう。こうして二人で旅をするくらいなのだから、きっと大学を卒業してからも連絡を取り合って、たまに飲みに行くくらいはするかもしれない。その間に宗が他に女を作り、別れても、落ち込むかもしれない宗の話を聞いてやって、気にするなよ、女なんてお前ならより取り見取りだと笑ってやるのだ。友情に、恋情ほどはっきりとした切れ目が存在するとは思えなかった。長いこと離れ離れになったとしても、関係が断絶さえしなければ、宗が篤弘の存在など忘れてしまっても、ある日ひょっこり「元気か?」と連絡をよこせばいい。そこから昔の友人だと懐かしみ合いながら、また関係を再開させればいい。 篤弘はただ、宗とこれからもできるだけ一緒に居て、話したり、宗が笑っているのを眺めていたいと思った。それ以上をはなから諦めた。

「ごめん、冗談だよ」

呆れた物言いから無言になった篤弘を見て、宗が困ったように苦笑した。

「いや、違う。勿体ないことしやがんなってな」

「はは、ワンチャン狙ってた?」

咄嗟にごまかして、失言だったかもしれないと少し焦ったが、宗が篤弘の発言を気にした様子はなかった。

「焼けた?」

宗がサンオイルで少し滑らかに光る腕を篤弘のもとに差し出す。篤弘が自分の腕を宗の腕と平行に差し出して並べた。

「2分焼いたトーストって感じだな」

「よし」

宗は焼けづらい肌質ながら、連日カンカン照りの太陽の下自転車を漕ぎまくったおかげで初日のような生白さはなくなって、健康的な肌色になった。普段はTシャツの下に隠れている胴体も、一日念入りに焼いたおかげで、腕ほどではないがうっすらと肌の色が濃くなっていた。

 時刻はもう夜だが、まだ日が完全に落ちず、空はオレンジと薄紫のグラデーションを描いている。

「せっかくだし海、入ろうかな」

「競争するか?自由形で」

「無理、俺泳げない」

 そういえば宗は北国出身だった。息継ぎができないのか?浮かぶのは?と次々質問を投げると、宗はすべてに首を横に振った。

「浮きたい」

宗が真剣な顔で言ったのに篤弘が思わず笑って、じゃあ浮けるようになるか、と言った。

 二人は並んで、日の沈みかけている海に向かった。太陽光を遮るものが何もなくて、思わず目を細める。この時間になると、家族連れが撤収し、人の波も落ち着いていた。

 ざぶざぶと海を進み、海面がみぞおちくらいの高さの深さまでくると、宗は怯えの中に興奮が混ざったような顔をした。

「仰向けに浮くやつがやりたいんだよ。映画でよく見るやつ」

宗は両手を広げて言った。

「じゃあ、まずは俺が下に手を入れて支えといてやるから、とにかく体をまっすぐにしろ。へっぴり腰になるな」

「わかった」

篤弘が宗の側面に立ち、宗の肩を押す。宗は篤弘に導かれるままに両腕を広げたまま後ろ向きに倒れた。篤弘は、宗の腰の下に手を入れ、水面下まで持ち上げた。うわ、と宗が小さく声を上げる。足が完全に地面から離れたのを見て、篤弘は頭の下にもう片方の手を入れた。

「顎を引くな。頭は後ろに下げる感じで、体の力を抜くとうまいこと浮ける」

言われるまま、宗が無言のまま体制を整える。動きが止まったのを見て、離すぞ、と声をかけて篤弘が手を離す。と、同時に宗の腰が折れて海に沈んでいった。

 勢いよく宗が水面に飛び出してきて、海水でびたびたになった髪をかき上げ、顔を手で拭った。

「難しい」

「すぐ慣れるよ」

「もう一回」

宗が今度は自分で後ろに倒れていく。篤弘はすかさず先ほどと同じように頭と腰の下に手を入れて支えた。宗が「いいよ」と言って、篤弘が手を離し、宗はまた沈んだ。それをあと三回繰り返した。

 五度沈んで、六度目の挑戦で、宗は海面に浮かんだ。

「あ、やった」

 宗は体に力が入らないように静かに呟いた。ちょうど日が沈み切る直前のことだった。

 わずかに残った太陽の光が水面を辿って宗の瞳を照らす。水の中でふわふわと浮かぶ宗の髪まで太陽の光が筋になって届いていた。髪が水に流されて揺れるたび、わずかに色を変え、ぷかぷかと浮かぶ宗の、水につかった顔や体を薄く覆っている産毛が金色に輝くのが見えた。

 美術館で芸術作品でも見ているようだ、と篤弘は思ったが、それはさすがに恥ずかしいと、即座に自分の考えを却下した。水中からもその姿を見てみたくなって静かに潜ってみたが、その瞬間宗が大きな泡を立てながら沈んできたので、篤弘は宗と同時に水面に顔を出した。

「今、なんかしようとした?」

宗が篤弘に向かって言うので、「ただ見てたかっただけだ」と弁解しようとしたが、それはそれでどうなんだと思い直し、ただ笑ってごまかした。

 日が沈んだ後、宗と篤弘は二人で海に浮かんでいた。宗はかなり上達し、水面に浮いたまま話ができるようになっていた。

「ここらへんで折り返すか」

 既に旅を始めて七日が経っていた。予定よりも移動した距離は短かったが、篤弘はこの旅にかなり満足していた。

「もう半分たったのかあ」

力の抜けた声で宗が返す。水の流れの音が耳に直接入り込んできて、遠くでBBQを楽しむ集団の声がかなりうすまって聞こえた。

 穏やかな波に揺られ、二人はゆらゆらと揺れた。 篤弘は、宗の手に触れたいと思った。ラッコは流されないために手をつなぐらしいとかなんとか、わけのわからないことを言って、手をつないでしまおうかと思った。ふざけて、なんだよ嫌なのかよ、俺たち今ゲイのカップルなんだろ、と笑いながら。

「そろそろ上がるか」

「そうだね」

言って、篤弘は宗が地に足をつけて立ち上がって、浜のほうへ向かい始めるのを見てから、自分は海の中に少しだけ沈んで、暗い海の中にわずかに見える滲んだ宗の後ろ姿を少しだけ見てから、地に足をつけて、砂を踏みしめて、宗の後をゆっくり追った。 篤弘は、この旅が永遠に続けばいいのにと思った。

 行きは比較的海沿いを通ったので、帰りは内陸を巡ることにした。自然公園や小さな動物園、有名な店ではなく地域に根差した食堂で食事をとった。たまにスマートホンで景色の写真を撮るついでに、お互いの写真も撮った。途中篤弘の自転車のチェーンが外れて四苦八苦していると、意外にも宗が器用に直して見せた。二人で手に黒いオイルの汚れを付けて、取り切れず、そのまま自転車のハンドルを黒くした。夜には、寝静まったころを見計らって、篤弘は寝返りを打って宗のほうを向いて、何分か宗の寝顔を眺めていた。 昼と夜を繰り返し、旅は終わった。

***

 旅から帰ってきても、宗は実家へは帰らないようだった。故郷から遠く離れて下宿している近辺を散策するのだという。 篤弘は、高校時代からの友人である加藤に久々に会うことにした。場所は実家近くのファミレスで、ここは高校時代にドリンクバーで何時間も粘って、他愛もない話をした場所だ。 先についた篤弘は四人掛けの席に腰かけ、加藤を待った。十分ほど待って加藤はやってきた。髪が茶髪になり、眼鏡はコンタクトになって、少し垢ぬけていた。

 「おう、久しぶり」

「あっちゃん!元気だったか?」

めちゃくちゃ焼けてるな!と言いながら加藤は対面の座席に座り、立ててあったメニューを手に取りテーブルの上に広げた。もうなんか頼んでる?と言いながら加藤は真っ先にデザートのページを開いた。高校時代から、加藤は白玉の乗ったキャラメルパフェを毎回食べていた。色とりどりの甘味が広がるページを一通り眺めてから、やっぱり加藤はキャラメル白玉パフェを指さした。

「お前は?」

「俺ハンバーグプレート」

「おっけー」

手慣れた様子で加藤が店員の呼び出しボタンを押し、キャラメル白玉パフェとハンバーグプレートのセットを頼んだ後、いつ出したのか、流れるようにドリンクバーのクーポンを二枚、店員に差し出した。

「大学どう?彼女できた?」

加藤はうきうきの表情でテーブルに肘をついて少し前に身を乗り出した。

「いや、できてない」

「俺、できたんだよ!ついに!」

加藤は恋多き男だったが、高校時代は終ぞ良縁には恵まれなかった。大学に入り、髪を染めて眼鏡をはずし、多少見た目が良くなったのが功を奏したらしい。もともと加藤は明るくいいやつだ、と篤弘はうなづいた。

「それでそんなに機嫌がよかったんだな?」

「そうなんだよ!ちっちゃくってさあ~、可愛いんだよ!」

写真見る?と、加藤は頼んでもいないのにスマートホンの画面を篤弘に見せる。ロック画面には付き合って間もない彼女とのツーショットが映し出されていた。

「ふっ、お前、めちゃくちゃ顔にやけてるな」

「そりゃにやけもするって~~」

ウフフ!と声を出して笑いながら、加藤は彼女とのなれそめを話し始めた。加藤は大学に入学し、意気揚々とサークル勧誘の人混みに突入し、派手なスポーツ系やアーティスティックな文科系がひしめく中、端のほうで長机と椅子に腰かけたままのオカルト研究会を見つけた。オカルト研究会と言っても、都市伝説、過去に起きた凶悪犯罪、カルト宗教、心霊現象、検索してはいけない言葉、マヤ文明、宇宙との交信…など、とにかくダーティーで眉唾のついたようなテーマについてあれこれ語りあう研究会だ。異様な雰囲気に誰も寄り付かない中、加藤は嬉々として入部した。そんな加藤を見て、後から入ってきたのが加藤の彼女だった。そこからあれよあれよという間に二人の仲は急接近し、今に至るというわけだ。

 加藤は性格も明るく人当たり自体には全く問題がなかったが、その趣味が人から理解されなかった。そのため高校時代は、「明るくて面白いけど、趣味がキモイ」という理由で女子から振られまくっていたのだ。趣味を理解し、同じ趣味を持った女性が現れれば恋が成就する、というのはある意味当然の結果だったのかもしれない。

 加藤は篤弘に向かってこれは水族館に行った時で、これはお弁当作ってくれた時の!とエピソードを次々と紹介しながらカメラロールを遡っていく。この時こんなことを彼女が言った、それに俺がこう返したら、彼女が可愛く笑った。その繰り返しにいい加減うんざりしてきた頃に、ハンバーグプレートのセットが運ばれてきた。加藤に目配せをされて、カトラリーケースから箸を取る。軽く手を合わせて、ハンバーグを箸で小さく割り、少し息を吹きかけて冷ましてから口に入れる。すかさずライスも箸でわしっと掴んでそのまま口に入れた。久々のファミレスのハンバーグに舌鼓を打っていると、加藤のところにもキャラメル白玉パフェが運ばれてきた。加藤はスマートホンで写真を撮ってから、一緒に運ばれてきた柄の長いスプーンでパフェを食べ始めた。しばし無言になる。加藤はパフェを、最初から最後までアイスを溶かさずに食べたい人間だった。そのため、加藤とファミレスに来ると、互いに無言で食事をかきこむ時間がしばしば生まれるのだ。

 二人がそれぞれの食事を食べ終えたのは、ほぼ同時だった。水を一気に煽って一息ついたところで、で?と加藤が話を切り出す。

「そっちはどうなんだよ。サークルとか…友達できたか?」

加藤は明るい口調ながらも、どこか心配そうな面持ちで言った。

 篤弘は、高校時代一匹狼で、浮いているわけではないが、特別親しくしているのは加藤くらいのものだった。不愛想な態度が、周りを近寄りがたくさせた。

「一人、仲良くしてるやつがいる。先週までそいつと自転車で旅行してたんだ」

「へえーっ!!」

加藤は目を見開いて喜んだ。

「写真とかないの?」

「ある、旅行の時のが…」

言いながらスマートホンのカメラロールをさかのぼる。風景ばかりがおさめられた一覧をくまなく見ていると、ぽつぽつと宗の写真が表れ始めた。一番よく撮れていると思う写真を選んで、スマートホンを加藤に向けてテーブルに置く。

「こいつ」

「へえ、なかなかイケメン」

「だろ」

やっぱりみんなこいつの顔がよく見えるんだ、と篤弘は笑った。

 篤弘は恋を自覚してからというもの、自分が下している宗への評価が、果たして本当に客観的な判断をもって行われているのか、疑問に思っていた。加藤の一言で、自分の宗に対しての評価の妥当性の証明を得たと思った。

「イケメンって意外と平均的な顔って言うよな。既視感あるし」

「確かに、芸能人でたまに似てる顔とかいるしな」

加藤は写真の中の宗をしげしげと眺めながら、イケメンでしかも優しそうな感じするな、と言った。

「確かにそうだな。ああ、二歳年上なんだよ」

「え?浪人?」

「受験自体は今回が初めてらしい。中学だったか高校だったかでなんかあったんだと」

「へえ、苦労してんのかな」

「さあ」

それから篤弘は加藤に対して、宗のことを話した。第一印象は落ち着いていると思ったが、意外とガキっぽいところや、間抜けなところがあること。北国の出身だからカナヅチであること。女性にモテるが、あまり興味がないのかいつも自分と一緒にいること。旅の道中で起こったこと。

 次から次に話題が出てきて、篤弘は一旦水を飲んだ。途端、頭が冷えて、これでは先ほどの加藤と同じではないかと気まずく思い、加藤のほうを見やると、加藤はにやにやと嬉しそうに笑っていた。

「そんなに仲のいいやつができるなんて、あっちゃ~ん」

頬杖をつきながら加藤が粘っこい声で言う。

「次は彼女だな」

「うるせえな」

俺にとっては同じようなもんだ、と篤弘は心の中で思った。そして絶対にかなわない恋であることを思い出して、少し気分が沈んだ。 それから二人は高校時代のように他愛のないことを話して、二時間ほど過ごし、加藤がバイトだというのでその日は解散した。

 篤弘は夏休みはそのまま免許取得のための合宿で、旅行以降宗に会うことはなかった。

***

 夏休み明け、水曜の二限から授業が始まった。久々に宗に会うと、少し肌の色が戻ってはいたものの、夏休み前よりは焼けていた。案の定、女子学生から「宗くん焼けたね」と話しかけられていた。

 宗のところに行くと、宗に話しかけていた女子は篤弘の方を見て、「本田くん比べものにならないくらい黒くなってるじゃん」と大声で笑った。それまで得意な顔をしていた宗は、少しムッとした顔をした。

 後期では、工学部、理工学部合同の総合講義が用意されている。年によって内容は様々で、今年の内容はまだシラバスにも載っていない。篤弘は宗の隣の席に並んで座り、夏休みの間のことを話した。

「加藤ってやつがいて、そいつがお前にも会ってみたいってさ」

「へえ、嬉しいな」

宗はにこやかに答えた。そのうち、担当の教員が入ってきて、マイクを手に取り、講義の説明を始めた。

 「今年の総合学習は、チーム開発です。幼稚園に通う子供たちが喜ぶおもちゃを自分たちで設計し、開発、動作テストを行い、最後には実際に幼稚園に行って、子供たちと一緒におもちゃを使って遊んでもらいます」

講義室が一気にざわついた。篤紘はなんとなしに宗のほうを見た。宗は全ての感情が抜け落ちたような顔していた。

「おい、どうした?」

「俺、この授業受けない」

「は?必修だぞ」

「来年受けるよ」

それだけ言って、宗は足元に置いてあったバックパックを強引に引き上げると、席を立って講義室を出ていった。周りにいた学生が「え?」「宗くん子供嫌い?」などと小さく声を上げるも、講師は気にすることもなく、講義は滞りなく進んでいった。篤紘はその場に取り残されたまま、宗の不可解な反応に呆然としているだけだった。

 昼休み、篤紘は宗が食堂に一人でいるのを見つけて駆け寄った。

「お前さっきどうしたんだよ…」

「……」

宗は黙りこくったままだ。

「子供そんなに嫌いなのか?」

「…うん」

やっと一度頷くと、宗はつぶやく。

「小さい子は、どうしても駄目なんだ」

「そうか…」

篤弘には弟がいる。だから小さな子供の扱いには慣れている。宗はどちらかというと受け身なタイプに見えたから、子供に振り回されるのは案外苦手なのかもしれないと、篤弘は解釈した。

「まあ、毎年内容は違うらしいから。去年サボって落とした先輩が同じグループにいたけど、その人が一年のときは飛行機作って、長い距離飛ばしたチームに加点だったって」

だから、子供が嫌なら来年まで待てばいい、と篤弘は宗に声をかけた。宗は今度は声に出さずに頷いた。

 少し経つと宗の顔色も戻り、一緒に昼食をとった。

 篤弘は、宗の家族のこと、大学以前の友人のこと、なぜ二年遅れて大学に入学したのか、何も詳しいことを知らなかった。宗の変な癖や、慣れると無邪気な一面を見せること、肌が焼けづらいこと、肉よりも魚を好むことは知っているのに、いたって普遍的な情報は何一つ開示されていないことに気づいた。

 高校を卒業して二年間はいったい何をしていたのか。働いていたのか、それとも家にいたのか。

 篤弘は宗について何も知らない。

「お前、兄弟とかいるのか?」

知りたかったので、聞いた。ただ宗のことを知りたかった。

「兄弟いない。一人っ子」

「ふうん」

なんとなくわかる気がした。人と距離をとっているくせに懐くとずっと後をついてくるところとか、甘えられる人がずっとそばにいた人間に多い気がした。

「高校のときの友達とか、面白いやついた?」

「高校行ってない。高卒認定受けて、大学受験した」

「え」

篤弘が思わず声を上げたのを、宗は横目で見て目を伏せた。

「病気とか?」

「そういうんじゃないけど」

「なんで?」

「色々あって」

「色々ってなんだよ」

「色々は色々だよ」

「言えないようなことなのか?」

「なんでそうなるの?」

篤弘の胸に苛立ちが募っていく。制服代や教科書代が払えなかったとか、中学時代に素行が悪く高校受験をしなかったとか、考えうることはいくらでもあったが、篤弘はそんなことで宗を軽蔑しない自信があった。苦労したんだなと肩を叩いてやりたいのに、何も言わない宗に、自分が軽んじられているような気がした。

「いいだろ、別に」

宗も同じく、苛立っているようだった。これまで終始穏やかだった宗が初めて見せる顔だった。

「言いたくないんだ」

篤弘は、小さな声で言いながらそっとこちらを見つめてくる宗に対して、「なんてずるいやつなんだ」と心の底から思った。しおらしく言えばこちらが折れると思っている。そして自分はその思惑通りに折れるのだ。一人っ子らしい手口だ、と篤弘はため息をついた。

「わかったよ…。ずけずけ聞いて悪かった」

宗は少し笑って、いいよ、とだけ言った。秘密くらい誰にでもある。自分にだって、知られたくないことなど山のようにある。それが宗にとっては高校に行かなかった理由だ。篤弘はそう納得して、それから普段通りに過ごした。

 九月が終わり、少し肌寒くなってきたころ、加藤から「あの友達に俺も会いたい」とメッセージが来た。宗に伝えると、嬉しそうに頷いた。日曜日に、篤弘と加藤がいつも使うファミレスで落ち合うことにした。篤弘と加藤は大体ファミレスで遅めの昼食をとり、その場でこれからどう過ごすかを決めるので、今回もそうなるだろうと宗に言い、宗は了承した。

 そして予定の日曜日、篤弘は宗を連れて例のファミレスに向かった。店内を見ると、珍しく加藤が先に来ていて、メニューも何も眺めず、テーブルの天板を見つめてぼんやりとしていた。

「おう、珍しいな」

「あっちゃん」

加藤がパッと顔を上げ、篤弘を呼んだあと、斜め後ろにいる宗を見やって、叫んだ。

「お、おぉ~~~!!!やはりイケメン!」

「バカ、なんでそんな声デカいんだ」

「初めまして」

宗がにこやかに挨拶をすると、加藤も「はじめましてぇ!!」と絶叫した。篤弘が思わず加藤の頭を叩くと、パスン、と小気味のいい音が出た。篤弘と宗が加藤の対面の座席に座る。何か頼んだか?と篤弘が尋ねると、加藤はブンブンと大げさに首を横に振った。いつものパフェでいいか?と篤弘が言うと、加藤は大きく一度頷き、その動作に宗が小さく笑った。

「えーと、内田さんはご出身はどちらですか?」

「岩手です。ため口でいいよ。年上だけど同級生だから」

「あっ!?あー、はい、わかりました!!」

「ため口でいいっつってんだろ」

まるでお見合いのような質問が続く。

「兄弟はいるの?どこに住んでたの?岩手のどこ?」

「兄弟はいないよ。住んでたのは、言ってもたぶんわからないと思うけど、10月には雪が降るよ」

「へぇ~~~!!!!」

「お前、なんか緊張してんのか?」

「してないしてない!!」

やたらとオーバーなリアクションをする加藤に対して、篤弘が呆れて声をかける。

 その時、注文していたパフェと、宗の和定食、篤弘のステーキプレートが席に届いた。篤弘が「じゃあ、一旦食うか」と声をかけ、「うん」と宗が返事をする。加藤はパフェ用のスプーンを手に取りながら、尚も宗に質問をし続ける。

「今二十歳ってことは、何年生まれになるの?誕生日いつ?」

加藤はパフェのてっぺんのアイスを少しスプーンですくっただけで、口に運ばずひたすら宗に言葉を投げかけた。

「2002年の四月三日だよ」

「へえ!早いんだ!」

「そう、ふふ」

加藤はスプーンに載ったままだったアイスをやっと口に運んだ。その後も質問攻めは続き、結局加藤はどろどろになったアイスやらクリームやらが混ざったフレークを最後に一気に掻きこんでいた。加藤は三千円を財布から出すと極めて明るい口調で言った。

「これ!今日俺の奢りだから、残ったらジュースでも買って」

「は?おい、もう行くのか?」

「うん、ごめん、彼女に呼ばれてるから。さそったのにごめんてことで、お詫びの奢り」

加藤はあわただしく席を立つと、「じゃ」と言ってそのまま店から出て行ってしまった。

 テーブルには加藤の残した水の入ったコップが汗をかいて水たまりを作っている。結局一口も口をつけず、宗に質問ばかりをして、嵐のように去っていった。

「まああいつ、お前の写真見てイケメンだって騒いでたから、色々知りたかったんだろ」

なんとなく検討を付けて、篤弘は加藤が座っていた座席に移動した。

「これからどうする?まだ時間あるし、どっかぶらぶらするか?」

「そうだなあ…」

宗が少し考え始めたとき、篤弘のスマートホンに加藤からのメッセージの着信があった。忘れ物か?と思い、メッセージアプリを開くと、短く「内田くんと別れたら連絡くれ」とあった。その後、「この連絡は内田くんには内緒で」と続いていた。

 不可解に思いながらも、「わかった」とだけ返事をして、篤弘はポケットにスマートホンをしまい、その後の時間を有意義に宗と過ごすために、周りにある建物や施設を思い浮かべた。

 篤弘と宗が別れたのは二十一時を回ったころだった。まず映画に行き、次に喫茶店でダラダラと映画の感想を言い合い、それにも飽きてゲームセンターでいくつかの筐体で遊んだ。普段ならここからさらに夕食をとって、宗の家に泊まりでもするだろうが、明日は一限から授業があるため、日付を超えるまで遊ぶのはまずいと、早めの解散となった。

 篤弘は加藤との約束を思い出し、「今別れた」とメッセージを送った。二分後に既読がつき、「ファミレスにいるからすぐ来て」と返事が来た。

 「なんでだよ」とぶつぶつ文句を言いながらファミレスに戻ると、入り口に加藤が立っていた。昼間とは打って変わって神妙な面持ちをしている。「ちょっと歩こう」加藤が篤弘に言った。拒否してはいけないような気がして、篤弘はうなずく。

 十分ほど無言のまま歩いて、公園にたどり着いた。街頭があるものの暗く、異様な雰囲気を醸し出している。加藤がベンチに座ったので、篤弘も人一人分隙間を開けて隣に座る。

「…おい、なんだよ。どうした」

篤弘が無言に耐え切れなくなって加藤に尋ねた。加藤は昼間とは打って変わって静かな様子で呟いた。

「内田くん、内田くんじゃないぞ」

「は?」

「内田くんて名前じゃない。内田くんて名前じゃないっていうか、もともと内田くんじゃない」

加藤が言葉を変えて何度も同じことを言う。しかし篤弘は理解ができなかった。加藤は続けて言った。

「親が離婚して、母親の旧姓の内田になってる。もともとは和泉宗だよ」

だからなんなんだ、と篤弘は言いかけた。しかしその前に一つ疑問がわいた。今日の怒涛の問答の中に、親が離婚しているかどうかは含まれていなかった。

 なぜ加藤が宗の旧姓をしっているのだろう。篤弘は言い知れない不気味さを感じた。嫌な予感がした。

「これっ…!!」

加藤が震える手でスマートホンを操作し、ある画面を開いて篤弘に差し出した。

「…中学生男子、幼児殺害事件…?」

意味が理解できなかった。正確には、なぜ加藤がこの画面を見せてきたのかわからなかった。

 加藤は泣き出しそうな声で言った。

「俺ッ、見たことあったんだよ。あいつの顔。どこかで見たことあると思って、そしたら、六年前にあいつ、五歳の男の子レイプして殺してるんだよ!!」

必死の形相で喚く加藤に、篤弘は「一旦落ち着け」とだけ言って、加藤が渡したスマートホンの画面を食い入るように見た。「殺人犯の顔」という見出しで、体操服を着た中学生の男子の画像が表示されている。

 見間違えるはずもない。そこにいたのは、少し幼くなった宗だった。

 2016年の十二月、岩手の降り積もった雪の中から、五歳の男の子の死体が発見された。雪に冷やされて腐敗が少なく、証拠も残っていた。 逮捕されたのは中学二年生の男子生徒だった。被害者の男の子と男子生徒は近所に住んでいて、普段から仲が良く、よく男子生徒が男の子と遊んであげているのを近所の住人が多数目撃していた。 男子生徒はあるとき男の子をレイプし、首を絞めて殺害したことが、男の子の体内に残った男子生徒の体液と、首の圧迫痕から明らかになっているーーー

 一通り事件の概要を読んで、何かの間違いではないかと記事を疑った。加藤にスマートホンを返し、今度は自分のスマートホンで「和泉宗」と検索した。 同じ記事がTOPに表示され、次いで他にもアフィリエイト目的であろう似たようなWEBサイトが並んで表示された。

 和泉宗の顔写真、性格、黒歴史、ペドフェリアの実体、現在の姿ーーー。色とりどりの見出しが躍る。

 ぐらぐらと目の前が揺れた。

「…こんなの嘘だ」

「あっちゃん、気持ちはわかるけどもう関わらないほうがいい」

「あいつがこんなことするはずない」

「あっちゃん」

「加藤、心配してくれたのは嬉しい。でも絶対おかしい。間違ってる」

「あっちゃん、内田くん嘘ついてるんだよ」

「そんなの…」

「二年遅れて大学に来た理由、詳しく教えてもらったことあるか?」

「……」

「色々あったって、言ってたんだろ。詳しくは聞いたのか?」

 その話はつい先日詳しく聞き出そうとして、宗が頑として口を割らなかった話題だ。篤弘は押し黙って、少しして上を向いて息を吐いた。

「…絶対何かの間違いだ」

 篤弘には確信があった。人を殺した人間が、あんなふうに笑うものか。

「…話はそれだけか?」

「あっちゃん、よく考えろよ…」

「明日早いから、俺はもう帰る」

「もう会うのやめろよ!!かかわるの!!」

痛切な声で加藤が絶叫した。夜の公園の木々に止まり眠っていたであろう鳥たちが、その声に反応して一斉に飛び立つ。

「…そのサイトが間違ってるんだよ」

一言だけを残して、篤弘は公園を後にした。 加藤はその後姿をたた呆然と見つめていた。

***

 次の日の一限、宗は篤弘を見つけるといつものように隣の席に座った。

「昨日の映画、俺一作目見たことなかったからネットで見たよ。一作目からの伏線色々張ってあったのに気づいて面白かった」

にこやかに笑う宗を見て、篤弘は「やはり宗が殺人犯であるわけがない」と確信を強めた。そのうえで聞いた。

「お前、子供苦手なのか?」

「え?」

「子供」

その答えは昨日既に宗から聞いている。しかし、篤弘はどうしても宗の口から同じ答えを聞きたかった。

「うん…。あ、昨日置いてったこと怒ってる?」

「いや、いい。なんでもないんだ」

そっか、とほっとした様子の宗を見て、篤弘も笑った。

 ほら見ろ、殺人犯がこんな風に人の反応を気にしたりするか。

 笑いながら宗を見つめて、宗が「なに?」とまた笑う。「いいや?」と返して、また平和な一日が始まった。

 十月に入ったが温暖化の影響で残暑が厳しい。もう少し涼しくなったらキャンプにでも行こうと二人で話した。また自転車で?と宗が笑うが、レンタカー借りよう、と篤弘が言って、近いうちにキャンプ用品を見に行くことになった。 宗はこうして約束をすると喜ぶ。宗が喜んでいるのを見て篤弘も心の中で喜んだ。 宗の頬を触りたいと篤弘は思った。あの自転車で関東を回った旅の夜のように、海でやった背浮きの練習のように、宗の体に触れて、それで宗に無邪気に笑ってほしいと思った。実行するつもりはなかったが、くすぶっていた思いがどんどん増幅していくのを感じていた。

 加藤と話している宗は落ち着いていて、穏やかで、甘えたところなど一つもなく、年上然としていた。

 自分と話しているときは、まるで同い年か、それ以下のような無邪気なふるまいをすることがある。確実に他の人間より気を許されている自信があった。今度ふざけて頬でもつねってみようか、と悪ふざけの予定を立てた。 それから篤弘は、宗に関する虚偽の情報が書かれたWEBページの削除申請に奔走した。検索エンジンの専用フォームを使い、肖像権の侵害、名誉棄損を理由に次々と検索非表示の申請を行った。

 毎日「和泉宗」のページを見た。写真は何種類かあって、どれも遠足や運動会のスナップ写真のようだった。誰かが掲示板か何かに宗の写真を「殺人鬼だ」と晒して、それをみんなが転載している。嘘の情報に踊らされ、無実の人間の名誉を傷つけている。あまりに滑稽で、馬鹿な奴らだと篤弘はWEBサイトの作成者をあざ笑った。

 しかし、検索エンジンから数日後に削除申請に対する返事が来ると、篤弘のインターネットの清掃活動は一気に停滞した。すべて「サイトの管理者に削除申請を依頼すること」という素気無い回答だったのだ。

 篤弘は憤慨した。

 仕方がないので、一軒一軒WEBサイトを回り、問い合わせフォームを設置しているサイトは問い合わせフォームから、それがない場合は隅に記載のあったフリーメールのアドレスから削除依頼を行った。

 お断りの返事があればいいほうで、ほとんどの依頼は無視された。それでもあきらめず、篤弘は何度もメールを送り続けた。 WEBサイトの記事は一向に消えなかった。

 篤弘は絶望した。

 そんな中、キャンプの日程と、向かうキャンプ場やら、色々な手配のために一度宗の家に集まることになった。篤弘はいまだにWEBサイトの削除申請を続けていた。一件だけ、検索画面から消えた記事があったのだ。返事はなかったが、あまりにしつこく削除申請が来るので、管理者が折れたものと思われた。篤弘は今の手法の有効性を確信した。

 「このキャンプ場は森に落ちてる枝、拾っていいんだって。でもこっちは有料だけど薪が用意してるから、一長一短かな」

宗がキャンプ場のWEBページを見比べながら篤弘に話しかける。互いにベッドに並んで座り、ノートパソコンで近くのキャンプ場のWEBページを眺めていた。既にキャンプ用のグッズがいくつか宗の部屋には置いてあり、テントはレンタルする予定だ。

「うーん、そうだな」

篤弘は生返事をしながらも、宗の情報が書かれた悪質なWEBサイトの削除申請にいそしんでいる。

「どっちでもいいなら、俺枝拾いたい」

「いいんじゃないか」

「何見てんの?」

ぐ、と宗が身を乗り出して篤弘の手元のスマートホンの画面を覗き見た。あ、と思った時には遅かった。そこには「殺人鬼の名前は和泉宗」の文字が躍っていた。

「いや、」

「なんでそんなの見てんの?」

篤弘が意味のない弁解をしようとしたのに被せるように、宗が固い声で言う。

 見れば、宗は顔面蒼白だった。

「なんて書いてあるの?」

宗は同じ声で篤弘に言った。がらんどうな目をしていた。

「いや…」

「……」

宗は篤弘を見つめたまま動かない。篤弘は声を詰まらせながら宗に向かって言った。

「たまたま、見つけて…削除申請をして回ってる…」

「なんで?なんのために?」

「お前が困るだろうって、思って…」

「困る?なんで?」

宗が表情を変えないまま篤弘に詰問する。こんな宗は見たことがなかった。篤弘は戸惑った。

「嘘書かれて、顔まで晒されて、こんなん、ひどいだろ…」

「…俺のこと信じるの?」

宗の目に、パ、と光が灯った気がした。

「…そりゃそうだろ。じゃなきゃこのページ見つけた時点で、縁切ってる」

「…そうかあ」

「友達、だろ」

「……」

言って、さすがに臭かったか、と篤弘は恥ずかしくなった。

 宗は篤弘のほうを向いたまま、体を前に傾けて篤弘に近づいた。そのまま篤弘の首に腕を回し、篤弘の頬と自分の頬を密着させた。

 宗の温度と自分の温度が頬の上で溶け合い、しみ込んでいくのを感じて、篤弘の心臓は急速に体中に血を巡らせた。

「うん、そうか、そうだね、篤弘は信じてくれるんだね」

ぎゅぅ、と腕の力を強めて、宗は左手で篤弘の後頭部を撫でた。いいこ、と耳元で呟いて、篤弘のこめかみに自分のこめかみを摺り寄せた。篤弘はようやく自分が置かれている状況を理解して、宗の腰にぎこちなく手を回した。

 時間がゆったりと流れていく。

 その二人の様子を、棚に飾られたエンライガーのフィギュアが静かに見つめていた。

***

 キャンプは十一月の初めの土日に行った。夏休みのうちに取得した自動車免許が早速に役に立ち、レンタカーに荷物を積んで、敷地をキャンプ場として開放している山に向かった。 

「俺、友達が運転する車に乗ったの初めて」

「そうか」

目をきらめかせながら、宗がお菓子の袋を開ける。宗が篤弘に食べる?と言ったが、運転に集中するために断った。こぼすなよ、と言うとわかってるよ、と宗が返事をした。

「一時間半か、運転よろしく」

「おー」

篤弘はこのキャンプを楽しみにしていた。幼い子供のころのように、楽しみすぎて昨日あまり眠れず、レンタカーショップに歩くまでの道のりで眠気覚ましのガムを買うほどだった。 長いようで短い道のりを超え、キャンプ場にやってきた。車を止め、荷室のドアを開ける。タープとテントは、道のりの途中にあったキャンプ場の受付で借りた。早速テントを立てるため、テントに同封されている説明書を読みながら、力を合わせて設営を行う。30分ほどかけて、二人用のテントを一つ立てることができた。

 他にテントはない。今日は二人の貸し切りだった。

 タープは荷室のドアにひっかけて、柱を二本立てて帆を張るだけで済んだ。キャンプ用の椅子に腰を掛け、一息つくと、宗が言った。

「枝、拾ってこようかな。料理用に」

「おお、いいな。じゃあ俺は、器具とか食材の準備しとくから、行ってこい。迷うなよ」

「スマホ持ってるからたぶん大丈夫」

宗は椅子から立ち上がり、木が生い茂る林に入っていった。

 その間に宗は、キャンプ用のコンロとテーブルを設置する。家でたれに付け込んだ鶏肉と、煮て食べる袋めんに、コンビで買ったカット野菜を出す。着火剤をコンロの中に入れ、しばしぼーっとする。

 先日、宗に抱きしめられた。宗はきっとあの記事や、自分の顔写真が出回っていることを知っていたのだろう。それで、問い詰めるような真似をしてきた。篤弘は、あの一件以降も、ネット記事の削除申請を行っていた。あれからさらに一件、記事が消えた。わずかな収益を生み出す記事よりも、しつこいクレームに対応するほうが先決と考えたのだろう。しかし、以前消えた記事も、今回消えた記事も、どちらも検索順位はかなり下方の記事で、上位サイトの記事はまだ残っていた。しかも、日々新たな記事が投稿され続けている。

 どうしたものか、と篤弘は悩んだ。

 「信じてくれるんだね」と宗は言った。

 そりゃあ、信じるさ。俺はお前が好きなんだから。お前がやっていないことを、俺が信じるわけにはいかないんだ。

 篤弘は一人考えながら、青々と晴れた空を眺める。

 先日宗に抱きしめられ、頬を摺り寄せられたころ、抱き返しても拒絶されなかったことが、篤弘に自信を与えていた。少なくとも、体に触れ、触れさせてもいい相手だと、宗は思っているということだ。きっと、あの記事を信じず、宗を信じたことが信頼を勝ち取った。宗から軽く肩を叩かれるなど、カジュアルなボディータッチはこれまでにもあったが、あそこまで濃密に、互いの存在を確かめ合うようなスキンシップはなかった。まるで自分から離れることを拒むかのように、一体化してしまうのではないかと思うほどの長い間、お互い抱きしめ合っていた。あの時間は一生忘れられないだろうと篤弘は思った。

 ぐるぐると似たようなことを考えていた。気が付くとあたりは薄暗くなっていた。ランタンを荷室から出し、電源を付ける。ぼうっと、柔らかい光が広がった。

 その時、遠くからおーいとこちらを呼ぶ声がした。見ると、持って行ったブルーシートの袋いっぱいに枯れ枝を詰め込んだ宗がいた。

 「遅くなってごめん。意外と入るから、ついいっぱい拾ってしまった」

笑いながら、がさっと音を立てて、枯れ枝入りの袋を地面に置いた。

「ご苦労」

「火、起こそう!腹減った」

言いながら宗が枝をガサガサと袋から取り出す。篤弘はチャッカマンでコンロの中の着火剤に火をつけた。まんべんなく火が回ったのを見て、「入れていいぞ」と言うと、宗が枝を空気が入るようにコンロの中に重ねていった。

「火強いかな」

「ラーメンだし、気にしなくていいだろ」

言いながら、コンロに網を乗せ、その上に二つステンレスの取っ手付きのボウルを置く。横の隙間に、家で下ごしらえをしてきた鶏肉を置いた。

「味噌と塩、どっちがいい?」

「味噌」

「おっけー」

宗はペットボトルからボウルにそれぞれ水を注いだ。

「外でラーメン食べるの、めちゃくちゃうまそう」

「だな」

ボウルの水が沸騰したのを見て、宗がそれぞれのボウルに袋めんを入れる。少し煮込んだ後に、カット野菜も半分ずつ投入した。ぐつぐつと煮込みながら、篤弘が割りばしで鶏肉を返す。端なので少し火力が弱いらしい。ラーメンを煮込み終わったら中心に移動させようと篤弘は思った。

「そろそろかな」

コンビニで買った二つ入りの生卵を一つずつボウルに割入れる。そこからきっかり二十秒煮込んで、宗が「食べよう」と言った。

 新しく割りばしを二膳出し、二人でステンレスボウルの取っ手を持って綿をすすった。少し冷えてきた夕暮れ時、外で食べているだけなのになぜこんなにもうまく感じるのか、篤弘は不思議だった。鶏肉を中心に移動させて、また返す。肉を一つ、肉用に取って置いた箸で半分に割ると、中がまだ少し生だった。

 二人は勢いよくラーメンを食べ終え、香ばしく焼きあがった鶏肉にも手を付けた。炭の匂いが香ばしく、漬けておいたたれもいい風味を出していた。

「うまい」

宗が言った。そうだな、と篤弘も言った。一通り食べ終えると、あたりは真っ暗になっていた。ランタンの光と、焚火の優しい光が調和して、あたりは穏やかな雰囲気がただよっていた。

「星、まだ少ししか見えないなあ」

「明かりを消せばもっと見えるかも」

「じゃあ、寝る前に見よう」

宗が上を見上げながら言った。二人で食後のコーヒーを淹れ、静かに時間が流れるのを堪能した。

 篤弘は、意を決して言った。

「こないだの…」

「こないだ?」

「俺は、お前を信じてるから」

あぁ、と宗がつぶやいた。

 あの日のことだ。今日、その話も出来たらと思っていた。隠れてこそこそ勝手なことをしてすまない、嫌な思いをさせたことを改めて謝りたかった。嫌な思い出を蒸し返すことになってしまうが、やはり本人から直接話を聞いたほうが、記事の削除もより円滑に進むのではと思ったのだ。

「あれ、なんでお前の写真が使われてるんだろうな。実名報道がないからって、誰かの嫌がらせじゃないのか」

宗から返事はない。

 数秒の沈黙の後、宗がつぶやいた。

「信じてくれて、ありがとう」

コーヒーの水面を見つめながら、宗がゆっくりと言った。篤弘は、当然だ、と言おうとしたが、その言葉をかき消すようにさらに宗が続けた。

「でも」

少し視線を上げ、宗が一つ息を吐いた。まだ息が白くなるような季節ではない。しかし、篤弘には、何か空気の流れのようなものが見えた気がした。

「あれ本当だよ」

聞いて、一瞬、白い靄が篤弘の周りやキャンプ場一帯を覆いつくしたような気がした。それから徐々に、心拍数が上がり、それなのに、体温が下がっていくように感じた。頭から徐々に血の気が失せていく。

 「違うだろ」

やっと発した一言は、情けないほどに震えていた。

 笑ってくれ。冗談だと言ってくれ。そしたら、冗談でもそういうことを言うのはやめろって叱り飛ばして、それでその後笑ってやるから。

 篤弘は自分の手が震えていることに気づいた。

「本当なんだ」

「お前、なんで」

息が苦しい。呼吸をどうやっていたのか思い出せない。それでもまだ縋りたかった。

「冗談だろ?」

宗の目には何も映っていない。

 どんどん、宗の言葉が現実味を帯びていく。

 エンライガーは宗が中学生の時に流行ったヒーロー番組だ。宗の部屋に飾られていたフィギュアは、てっきり同年代の友人からもらったものだと思っていた。被害者の五歳の男の子と、何らかの関係があるとしたら。女性に興味を示さなかったのは、自分が優先されていたのではなかったのだとしたら。幼稚園に行く講義を放棄したのは、何らかの衝動を抑えるためだとしたら。あの記事に書いてあることがすべて、本当だとしたら―――。

 ぞっとして、目を見開き宗を見た。

 宗は目を閉じていた。

「幼稚園行かないのはそれが原因か?」

支離滅裂になりながらも宗には伝わったようだった。

「そうだね」

「後悔してるんだな!?」

叫んだ。そうあってほしいと思った。せめて、取り返しがつかないのなら、一生悔いろ。

 無邪気に笑う宗の顔が脳を揺さぶった。吐き気がした。

 「後悔、そうだよね…」

宗はもう、取り繕う気はないようだった。もともと嘘をつくのが下手な質なのか、そういえば、質問に答えないことはあっても、それとわかるような嘘をつかれたことはないな、と篤弘の頭に残った冷静な部分がつぶやいた。だから加藤の質問にもすべて馬鹿正直に答えて、こんなにすんなり特定されるのだ。色々質問されて嬉しそうな顔しやがって。お前は馬鹿だ。 篤弘はもう、大声で泣きたい気分だった。声を上げて地面に突っ伏して泣きわめきたかった。しかし、なけなしの理性がそれを拒んだ。

「後悔は、ないかな」

「…は?」

信じられなかった。篤弘は、目の前に座るこいつは、昨日までの宗とは別人なのではないかと思った。いつの間にか宗の皮が剥がれて、そっくりそのままの声やしぐさを持つ人間がその皮をかぶって、この場所にやってきたのではないか。ほら、現に宗の目はがらんどうで、いつもの無駄にきらきらした、篤弘の心をつかんで離さないあの目ではなかった。

「後悔してない。後悔したら、全部嘘になる」

「お前、頭おかしいのか」

取り繕わず、率直に言った。言葉をきれいに飾る余裕などもはやなかった。

「頭おかしいのかよ」

繰り返し言う。篤弘の目から流れた涙は、空気に冷やされてすぐに冷たくなって、頬を伝っていく。一度流れ出した涙はもう止まらなかった。

「信じてくれてありがとうって、言ったろうが」

「うん、嬉しかった」

「嘘ついたのかよ」

「嘘じゃないよ」

「殺したんだろ、五歳の子供、レイプして」

「…レイプじゃないよ」

宗がゆっくりと篤弘の目を見た。がらんどうの瞳に、焚火の光が灯る。

「合意だった」

「五歳の子供だぞ」

「嫌がらなかった」

「殺したんだろ」

「…そうだよ」

篤弘の手は尚も震えていた。

「敦と俺は、恋人同士だったから…」

「あつし…?」

嫌な予感がした。

「あつしは俺を信じて、体を預けてくれた。死ぬことについても、説明をして、パパとママに会えなくなる、でも俺とずっと一緒だって説明した。少し痛いけどすぐにその痛いのもなくなるって。そしたらあつしはいいよって」

抱きしめられた時、宗は「いいこ」と言って篤弘の頭を撫でた。あれは、まさか。

「お前、まさか名前が似てるから俺とつるんでたのか?」

「……」

「それだけで…?」

篤弘は絶望した。今全身を裂かれても、痛みなど微塵も感じないだろうと思った。

「あつしは俺のこと愛してくれてたし、俺も愛してた。俺は、あつしとのあの一回があれば、もう生きていけると思った」

「殺す必要ないだろ」

必死の思いで反論する。しかしその思いも無駄に終わった。

「俺は人を窒息させないと興奮ができないから。一度だけでよかった。一度だけ愛した人と、そうできればよかった。そしたら俺はもう、それだけで、後の人生全部孤独でもどれだけ痛い目にあっても、あの子のこと忘れないで生きていけると思ったから。全部覚悟してやった」

篤弘は宗が何を言っているのか、まるで分らなかった。急に違う星の生物と話しているような、そんな気分だった。宗の言葉が脳をすり抜けていく。

 本当は「篤弘」ではなく「あつし」と呼びたかったのだろうか。

 その思いが時間をかけて、働かない頭をやっと巡った瞬間、篤弘は宗につかみかかっていた。

「後悔してるって言え!!」

馬乗りになって宗の胸倉をつかみ、あらん限りの力で揺さぶった。

「後悔してるって、子供の未来を奪って、悪いことをしたって言え…!!!」

揺さぶられながら、宗は篤弘の腕を掴み、なんとか揺さぶりを止めようとする。しかし元々体格差のある宗と篤弘では、力の差は歴然だった。

「後悔したら、あつしが死んだ意味がなくなる!!絶対に後悔なんかしない、俺は絶対しない!!!」

宗の叫びを聞いて、その時篤弘の脳内を占めたのは「諦め」だった。馬乗りになったまま、胸倉からゆっくりと手を離す。

 嘘でもいいから言ってほしかった。明らかに嘘だとわかっていても、その言葉があれば許そうと思いさえした。

 もう宗の鼻に皴の寄った笑顔は見れないな、と篤弘は思った。

 上がった息を整える宗を見て、篤弘は静かに決意し、宗の首元に手をかけた。

 宗が暴れ、抵抗したが、篤弘は首を圧迫し続けた。次第に宗の顔が赤黒くなっていく。口の端から泡を吹いて、白目をむき始める。抵抗する力が次第に弱まっていく。

「俺がお前の分まで後悔してやる」

まだ宗がじたばたと体を動かしているのを感じながら、篤弘は耳元でささやいた。

「その子と同じように死ねばいい」

腕を掴む宗の手の力が抜けて、ついに宗は体を動かさなくなった。そのままずっと馬乗りで首を絞めた。人を殺したことがなかったから、念には念をと思った。大体一分、動かなくなった宗の首を絞めて、首から手を離す。手の痕がくっきりとついていた。

 篤弘は宗の体から降りて、テーブルの上に置いてあったポケットティッシュを手に取り、口から流れた泡を丁寧に拭いてやった。

 その後、唇に指で触れ、頬を両手で包み込んだ。まだ温度の残る頬は、柔らかかった。「…こんな風に触れたかったんじゃ、なかったんだけどな」

 篤弘は空を見上げ、先ほどより星がよく見えることに気づいた。もう少し後にあの事件の話を切り出せば、今頃「星がきれいだ」なんて二人で言い合う思い出ができていたのだろうか。

 篤弘はスマートホンで110番に電話した。

***

「詳しくありがとうございます。よくわかりました」

 江藤は逐一メモを取りながら、被疑者の話を聞いた。まさか恋情が絡んでいるとは。事前に聞いておいてよかったと思った。今の話をもとに、刑が軽くなるよう、最大限努めていくわけだ。被害者の前科を知り、反省の色が見えず、本人は正義のつもりで鉄槌を下した。被害者の狂気を前面に押し出せば、裁判官の心象もだいぶ変わるかもしれない。江藤はメモを取ったノートをめくって考えた。

「…率直に聞きますが、被害者の内田宗を殺したこと、後悔していますか?」

裁判に必要な重要な材料である。江藤はそのために聞いた。被疑者がしきりに「後悔してほしかった」と言っていたのも印象に残っていた。

「それが――」

被疑者は息を吸い、そして吐いた。少し目線を上げ、呆然と言う。

「意外と後悔、しないもんなんですね。殺さなきゃよかったとは、あまり思ってないです」

江藤は愕然とした。裁判ではこのような発言は慎むよう、きつく言って聞かせなければならない。それと同時に、理由が気になった。「お前の分まで後悔してやる」と言ったのに、何か心境の変化があったのだろうか、と。

「…それはなぜ?」

江藤が聞くと、被疑者は江藤の目を見て言った。江藤は目を見てぞっとした。瞳に何も映っていない、がらんどうな目だった。

「最後にあいつが見たのが俺だったので。そのまま人生が終わったなら、最後には俺のことを考えて逝ったことになる」

江藤はなるほど、と思った。

 恋情殺人を起こすような人間は、きっと同じ穴のむじななのだ。

#創作大賞2023
#恋愛小説部門


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