拝啓 山邊鈴様

私は先日、このツイートを拝見しました。私はこの一連のツイート群に対して、驚かざるを得ませんでした。正直、「狂ったWokeリベラルの戯言」のように思えました。しかし、私は貴女に「純粋さ」を感じざるを得なかったので、非常に興味を持ちました。私は、もともとは非常に左翼的な人間でしたが、今は非常に保守的になりました。それは、人間の理性の限界を感じたためでした。貴女が社会的包摂のために努力されていること、差別と闘っていることは存じ上げております。私が「社会正義」について非常に懐疑的な見方をしているのは、いくつかの「特権」や「差別」についての率直な疑問が存在するからです。それは以下の8つです。

1.被害者意識を平和的に表明できるということは、非常に特権的なことであるから、被害者意識を平和的に表明することを求める営みは、常に階級差別的矛盾を孕まざるを得ず、差別的/特権的構造を温存するのに役立っているのではないか?
2.平和的な表明は、言語化する能力が高い人々の声を相対的に大きくすることになるのではないか?これは、例えばやまゆり園事件のような「言語で意思表明できなければ生きるに値しない」という態度を生み出さないだろうか?
3.真に抑圧されている「被害者」は、「被害者」であることにさえ気づかないのではないか?
4.そもそも、誰が被害者であるかを決めるのか?「被害者」であるか誰かが決めなければならないとしたら、それは、階級差別ではないか?
5.古今東西、「無知」であるとされてきた人々は被支配階級であることが多く、「差別や特権」について無知であることを問題視することは階級差別的にならざるを得ないのではないか?
6.このツイートで示されているように、「声をあげている人をうるさいとか意識高いとか思いながら生きられる」のは特権ゆえであろうか?そういった言説を特権ゆえであるとみなすこと自体が、彼彼女らの声をなかったことにしている特権の構造ではないか?

7.これは上記の疑問と似ている疑問だ。被害者意識について啓蒙するということ自体が階級を生み出していないか?
8.これは少し異なる単純な疑問である。男性は特権階級であり生まれながらに抑圧/差別に加担しているのか。有害な男性性が有害であるという言説を振りまくことの権力性が軽視されているのはなぜか?

近代合理主義的、社会正義的「正しさ」は暴走し、意図しない結果を生み出しているのにも関わらず、知識階級の特権と怠惰によって「背教者」は「魔女狩り」に遭っている現実が存在するのではないかと私は感じております。私たちは、どのようにして知識による差別や「声」を上げることができない人々への差別を乗り越えることが出来るのでしょうか。貴重なお時間を頂きありがとうございます。この最後の問いと8つの疑問やその他のことでも、お返事をお待ちしております。拙い文章で失礼しました。                        敬具

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