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応仁の乱

応仁の乱(1467年~1477年)の概要
室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争となり、幕府勢力が東西に分かれて争う戦乱に発展、さらに各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。

明応2年(1493年)の享徳の乱、明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。

11年に渡る戦乱は、西軍が解体されたことで収束したが、主要な戦場となった京都全域は甚大な被害を受けて荒廃した。

応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁は僅か3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある。

応仁の乱が起きた原因
①畠山氏の家督争い:畠山氏は将軍の補佐役である管領になる事の出来る身分であった。畠山義就と畠山政長の家督争いです。

畠山氏の家督争いの背景
義就の父であるり家督を持っていた畠山持国は、6第鎌倉将軍足利義教の命令に背いたため、家督を外され河内国に隠居させられました。家督は持国の弟の持永が持つことになりました。

しかし嘉吉元年(1441年)に足利義教は赤松満祐に暗殺されてしまいました。それにより持国は京都に帰ることになり、再び持国が家督を持つことになりました。

持国は初めは弟の持富に家督を譲ることを考えていたが、義就に譲ることにした。持富はそのことに異議を唱えることはなかったそうで、2年後に死去している。その後、義就ではなく持富の息子、弥三郎が家督を継ぐべきだと神保越中守などは主張した。争いの中で、弥三郎は細川勝元を頼りました。細川勝元は三管領のライバルである畠山氏の力を弱めるために弥三郎に協力した。勝元は山名宗全とも手を組みました。弥三郎は細川勝元の部下に匿われました。

対する持国は8代将軍足利義政に接触し、弥三郎討伐令をもらいました。

争った結果弥三郎派が勝ちました。家督は弥三郎が持つことになりました。