現代川柳一日一句評 其の一

前回のエントリーでも書きましたが、「句評を書く」という行為は、他人の句を評する、ジャッジする、という行為ではなく、句をいろんな角度から「見る」行為なのではないかと思っています。
現代川柳の一句に向き合い、いろんな角度から観察し、記述する。見えないところは想像する(時に創造し)。触れられそうなら手で触れてみる。そういったイメージ、デッサンのような感覚。
現代川柳における句評とはそういうことなのではないかと、ふと思いました。せっかく「ふと」がやってきたので、これを私の句評の基準にしてみたいと思います。

話はそれますが、「代わりに読む人」という出版社から刊行された雑誌、『代わりに読む人0 創刊準備号』に、「dessin」と題したエッセイを掲載して頂いています。デッサンを通して感じたことや思いを巡らせたとこなど、生い立ちに関するちょっと赤裸々なことなどを、私、下刃屋子芥子の本体である、コバヤシタケシ(グラフィックデザイナー)が書いています。よろしければ読んでみてください(デザインもコバヤシが出がけています。ちょっと宣伝でした)。
それではやっていこうと思います。

「現代川柳一日一句評」第一回目は、私、下刃屋子芥子が現代川柳の世界に足を踏み入れるきっかけになった、川合大祐さんの『リバー・ワールド』より。一句選びました。そもそも私は、『リバー・ワールド』に衝撃を受け、偶然にも川合さんが同じく長野県内にお住まいであることを知り、「現代川柳を学ぼう」という講座に足を運び、リアル川合大祐さんに出会い、コメダ珈琲でお茶をし… ということがあって今の下刃屋子芥子がいます。
要は川合大祐さんの大ファンだということです。
しかしです。私は、「川合大祐さんの川柳でどの句が好きですか?」と聞かれても答えに詰まってしまいます。ほとんどの句を覚えていないのです。一体私は川合さんの川柳のどこに惹かれているのか? 実はそれが自分でもわかりません。言語化できない、ということかもしれません。
『リバー・ワールド』の一〇〇一句の激流に圧倒され、「ヤバイ流れだった…」というような全体的な印象に留まっているのかもしれません。はじめの衝撃を受け、それだけでも得体の知れない魂のようなものを感じ、何が起きているのか把握できないまま惹かれていたのかもしれません。

それとも、同業者として装幀に惹かれただけなのかも知れません。(そもそも、『リバー・ワールド』を知ったきっかけは、Twitterで当時フォローしていた「おねロリキメセク天皇」とかいう名前のアカウントの人が、「『リバー・ワールド』の装丁100点!」とツイートをしていて、「おねロリキメセク天皇」が100点と絶賛する装丁が同業者として気になり、検索したことでした。)
なにはともあれそのおかげで、今では「海馬川柳句会」や「川柳句会ビー面」に参加したり、フリーペーパーで句集を作ってみたり、同じ現代川柳に魅了された仲間ができ…今の下刃屋子芥子がいます。

さてさて、話が逸れ逸れですね。
ここで言いたかったことは、私は川合大祐さんの川柳から発せられる風圧のようなものに衝撃を受けただけであって、もう一歩先にある、句そのものを観察すること、句に迫ってみること、寄り添ってみること。もっと普通に言えば、「句を鑑賞すること」ができていなかった。ということです。
当たり前のことをしていなかった。ということになります。
これは後にも書きますが、私の性格に起因するところがあります。

「海馬川柳句会」や「川柳句会ビー面」に参加することで、自分以外の人が書いた句に選評を書く、ということ体験しました。「選評を書く」ということが、必然的に一句に向き合うことを求められ、より深く、色々な角度から句を観察することになります。
そんな経験を経て、句会では匿名の句に選評を書きますが、同じことを任意の句でやってみても面白いのではないか。(むしろみんなそうしていて、私がそうしていないだけなのでは…それが句を鑑賞するということなのでは…)ということに気付いたわけです。

先にも書いたように、「句評を書く」行為がデッサンであるならば、それは川柳を書くための練習、力にもなるはずです。

複写終え茄子の図像に茄子の文字 川合大祐

前置きが長くなりました。それでは「現代川柳一日一句評」第一回目、最初の一句です(この調子で一日一句は既に無理でしょう)。

複写終え茄子の図像に茄子の文字

『リバー・ワールド』川合大祐 より

なぜこの句を選んだかというと、ぱっとページを開いた時に飛び込んできたのがこの句だったからです。なぜそうしたかは、これまでの前置きを読んで頂けたらお察し頂けるかと存じます。
そして、この句にインスピレーションを感じました。この句の評を書いてみたいと。その句が元々好きだから句評を書くのではなく、その句をもっと好きになりたいから句評を書く。記述することを通して観察する。
句評=デッサン。

しいて言えば、私は家庭菜園で野菜を育てるのが趣味で(野菜を育てる=土や畑という小さな生態系を育てるということで非常に奥深く…)、ちょうど茄子の収穫がはじまり、より多くの大きな茄子を収穫するにはどうすれば良いかと毎日畑の茄子を観察しており、頭の中が茄子やそのほかの野菜(土や虫や微生物、周囲の雑草…)でいっぱいだからです。茄子を選びたかった。それに「良い句だな」と感じたからです。

私はこの句のどこにインスピレーションを感じたのでしょうか。
句を分解してみようと思います。まずは定型詩の区切りで、わけてみます。

複写終え 茄子の図像に 茄子の文字

きれいな五七五です。
茄子が二つも出てきます。嬉しいですね。

説明的に意味として読み取ってみると、
「茄子の図像」に「茄子の文字」があったと。
そのことに「複写を終え」て気がついた。
意味で説明的に完結させようとすると、大切な何かを取りこぼしているような気がしてきます。それはとてももったいないことです。
もっと観察してみましょう。

これは私個人の性格に起因することなのですが、
言葉を言葉としてそのまま読んでしまう。
言葉を読んで、そのまま終わってしまう、と言った方が良いのか。
言葉を読んでも、「そうなんだ」と素通りしてしまうところがあります。
よく言えば素直なんです。
「茄子の図像なんですね。」
「茄子の文字なんですね。」
と普通に聞き流してしまう。言葉通りに。まず深読みしない。
騙されやすいタイプかもしれません。口論は苦手ですし、何か言われれば、「それもそうかもしれない」と思ってしまいます。
芯がない。よく言えば柔軟? 
筋が通っていない、と捉えられる可能性もあるかもしれません。
しかし、常に筋が通っている人なんていないのではないかと思います。
人は常に、色々な可能性に揺れているもの、私はそう思いたいです。

また話が逸れそうですが、私は何かを素通りしたことに気が付きました。
「茄子の図像」とは?「茄子の文字」とは?
ここでまず止まりますよね、本来は。
おかしさに気づくのが遅いんですよね。
おかしさを聞き流してしまう、というか。

そうです。「茄子の図像」「茄子の文字」という語はおかしな言葉だ。
なかなか日常で目にする言葉ではありません。
「茄子が二つも出てきます。嬉しいですね。」じゃないんですね。
おかしな言葉が二つ出てきています。

一方で、「複写終え」は「複写を終えた」という普通の意味の言葉ですよね。多分。それで良いのかな…何かとりこぼしてはいないだろうか。

「複写終え」という語自体は、おかしな言葉ではありせん。
しかし「複写」という言葉には何かひっかかるものがあります。

私は、「コピー機で複写する」「一眼レフカメラで図鑑を複写する」という二つの映像が浮かびました。後者はひと昔前のグラフィックデザイン業界では時々行われていた複写の方法です。なので、後者はとりあえず置いておいて、前者の「複写」の映像を手元に置いておきつつ…。

複写=コピー、原本(オリジナル)をもとに、写し撮り、複製する。

「複写」という行為そのものに、なにか不思議な感覚があります。
コピー機でコピーを取ることは、現代では珍しいことではありません。
いつの時代かは特定できませんが、100年前、何百年前の世界では、「複写」という行為は非日常的な行為だったのではないでしょうか。根拠を示すことをここではしませんが、想像することはできます。それはきっと魔術的な行為だったはず。
「写真を撮られると魂を抜かれる」という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。何百年も前の人間からしてみたら、自分が写真に写されるということは、現代で感じる感覚とは全く異なる、異次元の体験だったのではないでしょうか。
また、文書や絵画を複写することは、何百年前の世界でも可能だったでしょうが、それには結構な時間を、時には膨大な時間を要したはずです。
それが現代では一瞬で複製が可能な世界になりました。

なので、「複写が日常になっている現代のほうがおかしい」と捉えることもできます。そう、現代のこの世界の方がおかしい。
「複写」という言葉は現実のおかしさを象徴する言葉なのかもしれません。
原本(現実?)を複写する。「複写」という言葉を観察してみるだけで、世界が歪んだ手触りを持ちはじめました。

アニメやSF小説や映画でよくある設定で、「主人公が意識不明になり、意識を取り戻したら自分を複製したAIロボットが存在し、そのAIを破壊しなければ世界が終わるので、AIを破壊しにいく。そこで主人公は、AIだと教えられた対象のほうがオリジナルであり、自分の方が複製されたAIだった。」というものがあると思うのですが(出典は例えば、Netflixオリジナルアニメの『A.I.C.O Incarnation』)
自分自身がオリジナルである確信が持てなくなるような…
「複写」という言葉にはそのような異次元性があるような気がしてきました。「写つす」という言葉が異次元を内包しているようにも思えます。

「複写」という語の考察を経て、「茄子の図像」「茄子の文字」に戻ってみたいと思いますが、ここまででわかったこと。
「茄子の図像」「茄子の文字」というおかしな語に気を取られていましたが、「茄子の図像に茄子の文字」よりも、「複写」という語の方が相当ヤバい。
つまり、この句「複写終え茄子の図像に茄子の文字」の魅力、いスピレーションを支えているの語は「茄子」ではなく「複写」の方なのではないか。
「複写」の語に既にヤバさが詰まっている。
ヤバさが漂っている語。「複写」。

「複写で終え」ではじまるこの句は、上五の時点で既にヤバかったのである。深遠なインスピレーションのブラックホールをいきなり打ち込んできている、とてもヤバい句なのだ。問題は「複写で終え」のヤバさをどのように川柳に落とし込み、提示するかだ。そこでやっと待ちに待った「茄子の図像」「茄子の文字」が召喚される。

何を複写したのかは不明であるが、何かを複写した。その主体の存在、作中主体はこの句の中に存在している(その時点でヤバいし、それが現代川柳だ)。そして気がついた。「茄子の図像に茄子の文字」の存在に。
茄子の図像、図像呼ぶからには何かしらの書物に印刷された図像であり、それは聖書や、由緒正しい百科事典、はたまた魔術書の類…? それとも機密文書だろうか。そこに印刷された「茄子の図像」の複写。その中にある「茄子の文字」。「茄子の図像」そのものに「茄子」の文字が書かれているのだろうか(前述のような理由で私はまずそのように解釈しがちである)。「茄子の図像」のキャプションとして「茄子」と印刷されているのだろうか。
印刷… これもまた複製技術である。この世にある書物の大半は複製物である。この世に一点しか存在しない書物もあるかも知れないが、書物とはそれ自体が「複製品」である。という成り立ちを持つ。

どんどん迷い込んでいる。既にわけがわかなくなってきた。
ただ評を書く前と違うのは、私は非常に興奮しているということだ。
「複写終え茄子の図像に茄子の文字」
という一句の迷宮、多層の世界に迷い込んでいる。
たしかに私はこの句に触れた。
「茄子の図像」「茄子の文字」を川柳の世界に存在たらしめる、
「印刷(図像)」「複写」という魔術的行為によって。それを行う何者かによって。無限に増殖する茄子すべてに茄子の文字が刻印されていくかのような…。そうではないかもしれない。

この体験は現代川柳でしかできないのではないだろうか。
この辺で良いのではないだろうか。
茄子が鈴なりである。私の畑の茄子も無限に増殖させるべく世話をしていきたい(プロ農家のように上手に育てれば一本の茄子の木から100本以上収穫できるらしいです…)

「複写終え茄子の図像に茄子の文字」

今回は、この句のヤバさを身を持って体験することができたと思う。
私は満足です。
いや〜格別におもしろかった!
そしてこの句がとても好きになりました。
好きな句が一つ増えたことを嬉しく思います。

最後までお付き合い頂きありがとうございました。
それではまた次回(一日一句はさすがに無理でしょう…)。


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