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演劇のラグジュアリー



10月6日(日)

7:00

演劇のチケットを買った。7000円。

演劇のチケットは確かに高いのだが、それだけのラグジュアリーがあるから高くても当然なのだ(と、いち観客として思う)、むしろ安いくらいだ。

『「またまた」やって生まれる「たまたま」』という演目を東京芸術劇場で発表させていただいたときに、アフタートークで詩人・伊藤比呂美さんと対談させてもらったが、そのときに、「眼の前にほんものの人間がいて、それが肉声で喋りだし、聞く人の鼓膜を直接響かせるようなコンテンツ(つまり、演劇のことだ)はこれからますます貴重になっていくであろうと考える」と、ぼくは言った。比呂美さんはひと言で応じた。「そりゃそうだ」

このエピソードを而立書房の編集長・倉田さんからの、取材を受けたときに話した。「だから、ぼくは演劇の将来に賭けているんです」



8:00

30分間の読書の後、30分間ノートブックに思念を書き綴ったら、なんとなく仕事をしたい気持ちが高まった。PCに向かって、送られてきた動画ファイルを確認しようとする。さて、やるか……と腰を上げたわけではない。自発的に、というわけでもないのだが、自然な流れで作業に取り組み始めた。これは心地よいことだった。

動画ファイルを開封しようとしたところで、iMacが強制再起動をした。

カーネルパニックという事象らしい。

ソフトウェアがファインダーを起動させようとしたことを引き金に、この事象が起こったように思われる。

手持ちのiMacは2017年製で最新のOSに対応できていない。そのせいでソフト(アプリ)との連携に不具合が生じているのだろうと予測する。

カーネルパニック?……いったい何のことやら……しかし、Linuxを少し勉強しているおかげで推察くらいはできるようになった。まだしばらくは2017年製iMacに頑張ってもらおうではないか。


 

10月7日(月)

17:00

『限りある時間の使い方』を読み終えた。読んでいるあいだに幾度となく味わうことのできたスロウな感覚は、ファストに進行していく現代都市での生活によって殺伐としたものになっていた自分の心をほぐしてくれた。

「何もやらないことをする」と言う人がいる。そんなことを言う人たちのことを、どこか馬鹿にしていた。今でもしているかもしれない。

何もしないなんて不可能だ。われわれは生きている限り、呼吸をし、何らかの姿勢をとっている。「何もしないことをする」を大真面目に考える人っていうのは、たぶん、何をしようにも懐疑的になってしまう人なのだろう。自分はこれをやった……けれどもこれよりもそれをやったほうが効率的だったのではないか?

効率なんて糞くらえだ。効率や合理性を気にすると、人はますます不幸になっていく。そんな気がしている。効率と合理の名のもとに、不幸を享受している貧相な顔つきと姿勢の人間を何人も見てきた。



かれらは何もしないことに耐えられない。「人間の不幸はすべて、ひとりで部屋でじっとしていられないことに由来する」と、哲学者ブレーズ・パスカルは言った。

有意義な人生を堪能するためには、効率と合理から距離を置いたところで、生活する必要がある。ときにはロウソクの灯りだけで過ごす夜も、なくてはならない。デューク・エリントンのレコードがかかっている。南向きの窓から採れる夕暮れの光は次第に暮れ泥んでいった。そんな空間で、ぼくはビーフンを食べていた。

ビーフンの具(桜エビと九条ネギ)ももはや見えないくらいに部屋の明度は低下していった。文章を無性に書きたいという気持ちに駆られたが、この明度では、自分がノートブックに記した文字もまともに見れまい。

諦めて、デューク・エリントンの音楽に耳を傾ける。空には星が、ちらほらと散らばっていた、かのように見えたが、実際は忙しなく往来を繰り返す旅客機の両翼に灯された明りだった。



10月8日(火)

7:00

俳優であり続けることは大変だと思った。そこには並大抵の努力、苦悩、ある種の不具がある。信念がないとできないことだ。

誰もが皆、俳優であると解釈することもできる。『コオロギ食べれる?』という作品の最後には「汝の俳優人になる」という『日本書紀』から海彦-山彦伝説からの一節を引いた。

誰もが俳優である。自分以外の誰かのために行動をするときには、ときとして自分を覆い隠す必要もある。それは本来の「私」ではないのかもしれない。「私」ではない「何か」を演じている。それは生物がする擬態とよく似ている。

東京の地下道を歩いているとき、大理石の壁に大きな蛾がとまっていることに気がついた。

立ち止まってしばらく眺めていた。ぼく以外の人たちは足早に地下道を通過していく。かれらにとってこの地下道は、目的地と目的地をつなぐただの中継線でしかないのかもしれない。停止しているのは、ぼくと、蛾が一匹、それだけだった。大理石にとまった蛾の羽根は白さを帯びていた。壁に擬態しようとしていた。

その羽根のうつくしさに見惚れていた。擬態対象の壁よりも、あなたの羽根はうつくしく、あなたはかえって目立ってしまっていますよ、と、ぼくは言いたがった。あなたは苦笑するだろうけれど。



8:00

またもや文章を書こうとするときに、これを書くことによって自分は何らかの目的を達成することができるのだろうか?

と、つまらないことばかりを考えてしまった。

書きたいものを書けばいい。言葉が自然と出てくるならば、自然にならえばいい。あらがってせき止めとなんてしなくていい。表現とは、そういうものじゃないか? これをすることによって自分にどんな得があるのかと考えだしたら純粋に表現することはできないようになってしまう。表現とは、「他者を表現すること」。だから、ぼくは、「自己表現者」には興味が湧かない。「自己表現者」はいつまでも世界の中心で愛を叫んでいればいい。ぼくは、世界の片隅にいる。いつだって、自分の居場所は隅っこだ。


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宮澤大和
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。