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育休がなかった時代のお話

今週の朝ドラ#虎に翼を見ていて、数年前に書き散らしてたものをノートにまとめておこうと思った。自分は80年代男女雇用機会均等法が施行される直前に就職し、90年代育児休業法が全企業に義務化される直前に子供を産んだ、間の悪い人間である。子育てしながら正社員で働いているのは公務員かシングルマザーくらい。そんな中で自分が仕事を続けられたのは、95年の「おうちでインターネット」というインフラが整いつつある年に、たまたまネット関連企業で働いていたという偶然がもたらしたものに過ぎない。

2021年。世の中はコロナですっかり変わり、オットも息子も、毎日家でPCに向かいながら在宅勤務をするのが日常となっていた。そんなある日、テレビでプロジェクトXの再放送をやっていた。1995年のWindows 95の発売で、それまで家庭での普及率が1割に満たなかったPCが普及し、家でインターネットに繋ぐということが一般化したといういつものよくある話。

ぼんやりと見ていて、思い出したことがある。
まさに我が家がネットに繋がったのはその頃だった。

バブル崩壊で務めていたIT企業が93年に日本から撤退し、94年に再就職した会社は、米国のリアルタイムOSと開発ツールの日本法人だった。再就職するや否や不妊だったはずの私はどういうわけだか妊娠した。環境が変わるとよくあることらしい。新規の分野の仕事で学ばないといけないことが山ほどあるというのに、産休とかありえないんだけど・・・(もちろん育休なんてもんは存在しなかった)

何とか辞めずに続ける方法はないだろうか?
すでに業務のほとんどはメールだったし、電話とメールさえあれば家でも仕事ができそうな気がした。それには家にネットを引く必要がある。まだ光回線や常時接続なるものはなく、64KbpsのISDN回線で従量制だったと思うが、おうちでインターネットは夢物語ではなく実現していた。

当時32才だった私は、社長に申し出た。「家にネット回線さえ引いてくれたら、産前6週産後8週を在宅勤務で乗り切りたい。産休扱いで健康保険組合から6割の手当をもらうので、給料は無給でよいがいかがか?」と。

産休どころか育休までもオットがとっても驚かれない昨今では考えられない話かも知れないが、当時公務員以外で女が要職について、妊娠して産休をとって仕事を続けるというのは大変まれなケースだった。

事実その小さな外資系の企業でさえも、私とほぼ同時期に妊娠した営業職の女性は辞職に追い込まれていた。「妊娠しても出産しても変わらず戦力になる」ことを証明しない限り、自分の居場所を確保するのは難しいように思えた。そこで自分なりに考えた提案が上記のようなものだった。

結果会社から承諾が出た。

「家で会社のネットワークに入る」

テレワーク日常化の今でこそあたりまえの事であるが、四半世紀前の当時は米国の親会社でも一般的ではなかったように思う。小さなITベンチャーだからこそ、みんな喜んで協力してくれた(いや単純に面白かったんだと思うが)。MAC派だった技術者たちに押されて、Color Classic II(Performa 275)を買った。一人のエンジニアが自宅まで来てくれて、しちめんどくさい設定を全部やってくれた。ピーヒョロヒョロという接続音とともに会社のメールと共有ファイルやDBにアクセスできて、14週間に及ぶ私の在宅勤務はつつがなく進行した。オンライン会議システムこそまだなかったけれど、日々の業務が滞ることはなかった。

そうして生まれた赤ん坊は、今や在宅勤務のサラリーマンになった。
コロナという難題とともに、定年間近のオットも入社数年の息子も、日々あたりまえのように在宅勤務するようになった。当時と違うのはVPNでセキュリティが保たれた1Gbpsの高速回線に常時接続されていて、メールや電話よりチャットとビデオ会議の方が良く使われているようだ、ということくらい。

こんな日が来ることはもちろん予想したことはなかった。
四半世紀前、「ネットさえあれば家でもできるんじゃないか?」と考えた自分と、それを否定することなく、「そうか、やってみるか」と言ってくれた当時の社長と同僚達に、今更ながら心からの拍手と感謝を送りたい。そんな気持ちになったことを、虎に翼を見ていて思い出した。

「あたりまえに仕事が続けられる世界線に」

90年代の自分は何故仕事を続けようと思ったのだろうか?
仕事は好きだったけれど、別に高い志を持ってキャリアウーマンになりたかったわけではない。金銭的に困窮していたわけでもない。寅子のように、女性弁護士のパイオニアとか、そんな大それた使命があったわけでもない。

ただ自分には条件が揃っていた。私の住んでいた団地の1階には区立保育園があった。エレベーター下りたら保育園。当時の区立保育園の中で、ゼロ歳児保育を受け入れるところはとても少なかった。なのにそこはゼロ歳児を3人まで受け入れてくれる枠が空いていた。当時は8時間保育。朝8時に預けたら午後4時にお迎え。通勤1時間無理に決まってる。しかし徒歩5分の私の実家には、迎えに行ってくれるじいじとばあばがいた。ある?こんな恵まれた環境。当時多くの女性たちが仕事を続けることをあきらめて子供を産んでいた。そんな中、自分には続けられる環境がある。これを僥倖と呼ばすしてなんと呼ぶ?僥倖に恵まれながらここで仕事をやめたら、続けたくても辞めざるを得なかった同志たちに申し訳ないんじゃないのか?続けられるだけ続けるべきなんじゃないか?そんな考えがめぐり、自分は仕事を続ける道を選んだ。

それから約30年。2025年の改正で300人以上の企業は男性の育休取得率を開示義務化。3歳までテレワーク努力義務。時短勤務6時間。6歳まで残業免除。小3まで看護休暇。手を変え品を変え、なんとかして子を産み育ててもらい少子化を改善しようという涙ぐましい努力が続けられている。それでも一人の人間をつくるというこの一大事。仕事の片手間でできることではなく、並大抵でない努力が必要であることに今もなお変わりはないのだと思う。迷うことなく、当たり前に誰もが仕事を続けられる世界線に。ゴールや正解はたぶんないのだろう。


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