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言葉と芸術と。

なにが好きなのかなって相変わらずぐるぐるしてて、就活生になりきれない。好きなことを仕事にするのは幻想だ、これからは個の時代だ、素直に言うことを聞く人材は平成でおわり。いろんなことが言われてて、コロナでゲームが変わったようにみえて、なんだかわからないなってずっとずっと。

暇だから悩むのだろうから予定をいれたらよいのだけど、どうしても急いで就活するのがうまくいかなくて立ち止まりたいっていう声に甘えて遠回りしちゃった夏休みをnoteに書き落としてみるか。という試み。私がすきだと思っていた書くことが怖くなって、芸術に憧れて、結局回帰したよっていうお話です。

好きなことはなんですか?書くことが好きです。なぜですか?自分にとって一番言いたいことを言える方法だから。言いたいこと全部書き終えるまで待ってもらえる伝え方だから。書き言葉は一度紡がれたら残るし、見返せるし、必要な時が来るまでそこで読み手が現れるまで待っていてくれる。そして捉え方が映像より自由。文字になった言葉は一見無差別で相手が目の前にいない分、内容を自分の中に取り込んで咀嚼する余地がある。そんな風に思います。

嫌いなことはなんですか?言葉の限界と怖さを感じるとき。しばらくnoteもTwitterも書きたいなあと思いながら書けないときが続いてた。なぜですか?書くことが、発信することが、やっぱり怖くなったから。もともと大勢の前でなにかを言ったりするのに抵抗感があった。誤解されることが怖くて、失うよりは意見を言わないほうにメリットを感じていた。最近、書き言葉が書いた人・書かれた状況・背景・文脈を離れて、思いもよらぬ形で届いちゃうのを何度も見て。そして言葉の威力を知っている分、ストレートすぎる言葉の暴力を見るのに耐えられなくなって。「ペンは剣より強し」で、言葉は使うのは無料で一瞬なのに、相手の心を無限に永遠にえぐれる。撃たれる覚悟のないやつが撃つ資格ないっていうよ。うん、撃たれる覚悟も勇気もそれだけして伝えたいこともなかったもの。

書くことを仕事にすることはやめよう、趣味でふわふわ言葉遊びする次元で楽しめたらいいや。そう思ったらnoteがうまくまとまらなくなって書いても公開しなくなった。でも今まで書くことが一つの自己表現で得意なことだと信じていたのにそれをあきらめたら、逃げたら自分に何が残るんだろう。

それでも言葉の直線的な怖さから逃げたくなって、デザインとか音楽とかネコとか、「考えるな、感じろ」でいいものに魅力を感じるようになった。咀嚼する必要なく感じるままに。たまたまデザイン系の仕事をする機会もあって、その可能性に惹かれるものがあった。インフォグラフィックとか、ビュジュアライズデータとか、ノンデザイナー向けの本とかかじったり。デザインを専門で勉強してきたわけじゃないけど現実逃避かつ無限の可能性だけを感じて。

そんなときたまたま横浜トリエンナーレ展をやっていて、芸術とかで感じるままに癒されたいなって思って、最近投稿してないインスタ映えるかなとかすごく軽薄な気持ちで訪れてしまった。想像以上に精神がガリガリ削られた。横トリの作品は現代アート大集合で大きな5つのテーマがあって、なにか強い想いが作品にも紹介文にも溢れていた。感じるままに見て、思いつくままに自分の体験と重ねて、未知の世界を想像していたら途中で心の受け取り量が想定値を超えてもう見るのが苦しくなった。

わかりやすい話し方って相手の知っている情報量にあわせて情報を提供する、情報の構造の箱を見せることが大切だっていう。例えば、大事なことは3つです、みたいな。横トリの作品は真逆だった。わかりにくい。思いもかけない方向からぶん殴ってくるし、一瞬で大量の情報が流れこんできたり、つい引き込まれて自爆したり、情報の取得が制御不可能。見終わったあとは異様に疲れていて、なにに疲れているのかもよくわからなくて、表現の自由って難しいなとかあたりさわりないこといってパンケーキを食べた。直後は1200円も払って私は一体なにを見たんだろうって思った。でもひっかかっているものも多くてそれが言葉になかなかならなくて、ちょくちょく思いついたことをメモしてみていた。正直アートを甘くみてたなって思ったし、言葉があることのありがたみを認識した。感じたものを認知するのに言葉は欠かせないし、認知しないと私にとっては価値にならないように感じる。もちろん感じたものを言葉にするなかで絶対に落ちる思いとかまだ見えていないことがたくさんたくさんあるんだけど、それをポイする方法とか基準にそれぞれの自分らしさがでるのかなって自己完結した。

現代アートの見えないものを本能的に気づかせる、揺さぶる力。コロナで家にばっかりいてどんどん狭くなっていた自分の世界に飛び込んできたいろんな世界。美術館という圧倒的安全性の保たれた場所で秘境や普通ではない状況にズームアップした世界に出会う。それは本当に出会うことじゃない。でもきっともし同じ場所に私が行ったとしても気づかないであろうもの、まだみえていないものを芸術家はみせてくれる。一寸先の世界を、警告だったり、記録だったり、形にする。きっと文字でみても納得できないけど、芸術なら本能に訴えられるから、あ、無理だってなるのかもしれない。でも目を背けられない。感じた瞬間にそれは自分の中の種になって根を生やし始める。もう凡人には制御できない。

デザイン、芸術をリスペクトして、自分でもやってみようかとUI/UXお試し講座に手をだした。名刺をつくった。自分らしさを表す名刺。ふんわりしたイメージを具体的なデザインに落とし込むところが全然わからなかった。感じたことを言葉にするほうが生まれてこのかたずっとやっているから楽だった。Cocodaでたくさん個人デザイナーさんの作品をみて、あ、私とは全然次元が違うぞ、と思った。はじめかけた就活では人と比べてばかりだったけど、比べるということは無意識に自分も同じ舞台にたてているらしい。諦める、無理だと思うときはよっぽどがんばらないと届かない。届くとも思えない。本当にデザインをしてる人はかっこいい。その人らしさがにじみでるところがたくさんあるから。にじみだしかたを知らない私には今は手がだせない。私は自分らしさの発露をやっぱり文章でやりたくなった。

結局まわりまわって言葉と書くことに帰ってきた。言語化はエゴでしかないかもしれないけど、言葉にしないと、口にしないと就活では、社会では通用しないのだと思う。そして私は感じたことがうまく言葉にできた瞬間がすきだ。自分の気持ちをうまく言葉で制御してコントロールできた瞬間がすきだ。今noteを書いているときも好きだ。だからこそ就活でESで落ちてうまく言葉で伝えられなかったと思うときは苦しいけれど、もう少しだけ言葉から逃げないで、私のここちよく感じられる方法で言葉に向き合ってみようかなと思う。言葉をやさしく使えるところ、攻撃しない言葉の在り方を探してみようって。ようやく前に進めそう。

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