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私の混乱の存在と地図

 舞う雪が頬に触れ、はっとしたとき、彼は大きなあくびをしていた。光る車の流れは淡く、軽やかな白い粒は流動し、そのひとつひとつに哀しみを見た。黒いアスファルトの固さ、味気ない文明の成長はわたしたちを意固地にさせる。彼は地図を片手に、子どものように辺りを見渡し、そのつるつるした顔に満足げな表情を浮かべる。わたしは退屈し、そっと彼をにらみつける。
 彼が自分の家を見たいといったのは、彼の母の葬儀の日、ぽろぽろになったその骨を回収し終えたときだった。スーツに身をつつんだ彼の顔は赤らみ、ぎこちない佇まいはまるで子どもだった。冴子さん、今度、僕の家を見に行こう。母を喪った子どもの悲痛な囁きにわたしはゾッとし、黙って頷いたのだった。
 大通りから細い路地へと入り、僅かな電灯が二人の影をつくる。古い家が建ち並び、死んだようなその路地は埃っぽく、わたしたちのほかに歩く人はいなかった。寒さと侘しさで心の裏側に爪をたてられたような感覚に鳥肌を立て、彼の腕を掴もうと寄り添うが、彼の腕は地図をくるくる動かすのに夢中だった。時折、あっ、と声を上げたかと思うと、懐かしいなぁ、この道よく歩いたなぁと郷愁に耽る。わたしは、わたしの知らない彼のことを想像し、すこし寂しくなる。ざわざわとした感覚が沸き上がるのを気にしまいと、雪の舞う夜空を見上げ、はぁ、と息を吐く。白い息は僅かに漂い、戸惑いを持って消えた。
 わたしが彼を初めて見たとき、彼の横には女がいた。二回目に会ったときには、また別の女がいた。そして三回目にはわたしが彼の横にいたのだった。彼の幼げの残る顔は、女を虜にするようだった。わたしも例外に漏れず、彼を愛した。彼を愛する女は絶えず、彼はそのことをどう思っているのか、常に飄々とした彼の態度からは伺い知れなかった。あるいは、どうとでも思っていないようだった。
 見つけた!冴子さん、ここだよ!
 彼は急に立ち止まり、興奮した様子でわたしの肩を叩いた。そして、指をさしながら、ここが僕が産まれ育った家だよ、といった。彼のさしていたところには、家は無く、小さな駐車場があるだけだった。ただの駐車場じゃない、ここ。間違いないよ、ここが玄関で、こう階段を登って、左側に僕の部屋があったんだ。彼の表情がにわかに明るくなる。わたしは彼のさす方向は見ないで、彼の顔ばかり見る。彼は夢中になり、家を取り巻く思い出を語り始める。わたしはその話に興味はない。彼の表情をじっと見る。わたしには決して見せない顔。甘い痛みが全身を走った。彼の過去と、暗い、小さな駐車場に嫉妬のような感情を催し、わたしは少しだけ焦る。いつの間にか雪はやんでいた。冬の低い空は漫然と広がり、ただ哀しみのみがつのる。彼の持つ地図にははっきりとその家が記されていた。濡れたアスファルトに立つわたしの混乱はいつまでもふわふわと漂うのだろうか。駐車場の奥に潜む闇を、じっと見る。

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