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東叡山寛永寺 根本中堂

所在地:東京都台東区上野桜木1丁目14-11
創建:寛永2年(1625)慈眼大師天海大僧正
主旨:天台宗
秘仏本尊:薬師瑠璃光如来
訪問日:2024年2月17日


江戸時代、今の上野公園のほとんどが、寛永寺の境内でした。
江戸一番の面積を持ち、不忍池も、1200本の桜も、もともとは寛永寺境内にあり、江戸庶民の観光地として賑わっていたのです。

絵師:一立斎広重「上野東叡山全図」
国立国会図書館デジタルコレクション

寛永寺は寛永2年(1625)年、江戸城の北東にあたる鬼門に、徳川将軍家を守るための祈祷寺として建立されました。
「東叡山(とうえいざん)」とも呼ばれているのは、京都御所の鬼門にある比叡山延暦寺をモデルにしているからです。

江戸時代、寛永寺の本堂「中堂」は、現在の上野公園の噴水広場あたりにありました。

出典:Google map

江戸時代の様子。

絵師:勝春朗「東叡山中堂之図」
国立国会図書館デジタルコレクション

幕末の上野戦争※で焼失し、明治12年に、上野公園の外、東京国立博物館の北側に再建されました。

出典:Google map


筆者撮影

上野寛永寺は芝増上寺とならぶ徳川歴代将軍の菩提寺で、霊廟には4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定、6人の将軍が埋葬されています。

鳥羽・伏見の戦いで敗北した15代慶喜が、恭順の意を示すため、自ら謹慎していたのは、有名な話。


優美な灯籠。葵の御紋が彫られています。

筆者撮影


※上野戦争

慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに負け、朝廷に恭順を示した徳川慶喜ですが、旧幕臣たちは納得できません。
不満分子17人で慶喜ファンクラブを結成し、さすがに17人では心許ないと、幕臣・渋沢成一郎(渋沢栄一のいとこ)をリーダーに、本当は御家人だけど自称旗本の天野八郎をサブリーダーに担ぎ上げました。
たちまち規模が拡大し1000人を超えたので、「彰義隊」と名乗り、徳川家に申請して、オフィシャルファンクラブになるのでした。

彰義隊の名目は、徳川慶喜を護衛することだったので、慶喜が謹慎している上野を拠点に活動します。
寛永寺のトップは皇族・輪王寺宮公現法親王で、”彰義隊は朝敵ではない”とアピールするために、錦の御旗としたのでした。

やがて彰義隊の中で仲間割れが起こります。
慶喜の意思を尊重しよう、戦わないようにしよう、という穏健派の渋沢成一郎派と、薩長を潰そうと血気盛んな天野八郎派。

そんな中、ついに無血開城が行われ、慶喜は水戸へ謹慎になりました。
彰義隊は、もう上野にいる必要がありません。
渋沢派は上野を出ましたが、天野派は残り、無血開城に不満をもった脱藩浪士たちが、彰義隊にどんどん加わります。
彼ら元武士たちは新政府になったら失業しますから、自分たちにとって死活問題だった、というのもあったと思います。
また江戸庶民は徳川お膝元なので、新政府が気に入らない。
かてて加えて、彰義隊をバックアップしていた寛永寺は徳川家の菩提寺ですからお金持ちで、1万石をゆうに超えていたと言います。
潤沢な資金から鉄砲などの武器を支援していたようです。

こうして彰義隊は、新政府を脅かすほどに拡大していきます。

そこで5月15日、長州藩・大村益次郎の指揮で討伐を開始します。
大村益次郎といえば、頭が良すぎて前頭葉が発達しすぎたと言われる(私見)軍神。

大村益次郎
出典:wikipedia


寛永寺の支援によって、彰義隊もけっこうな数の鉄砲を持っていたため、銃撃戦は互角だったのではないかと言われています。
かくなるうえは佐賀藩のアームストロング砲を使おうじゃないか。
しかしアームストロング砲は、船を撃破するためのものです。
これを人に使うのはどうなの?
と佐賀藩はしぶります。

出典:wikipedia

アームストロング砲は、飛距離が3キロ。
本郷台地にあった加賀藩邸の敷地内(現在の東大赤門)から、不忍池を超えて飛んで寛永寺境内に届きます。

出典:安藤優一郎『江戸のいちばん長い日』


彰義隊が持つ四斤山砲では太刀打ちできません。
呆然としているその隙に、東征軍は黒門を突破し、寛永寺の堂塔伽藍につぎつぎ火を放ちます。
こうして寛永寺は炎上したのでした。

焼け野原になった寛永寺境内

出典:wikipedia

そんなわけで1日足らずで政府軍の完全勝利に終わりました。
武力を頼みに生きてきた武士が、一朝一夕に結成された新政府軍にあっけなく負けたことは、たいそうなショックだったでしょう。
西洋式兵器の圧倒的強さを見せつけられ、つまり近代化が一気に進むきっかけとなった事件です。

戦火にみまわれた寛永寺の敷地は、こうして新政府の管理下に置かれました。

筆者撮影

<拡大>

徳川家康が幕府を開いていて以来、江戸が戦場になったことは一度もありませんでした。
無血開城といいますが、その影で、これほどの血が流れていたのですね。
戦死者の正確な数はわかりませんが、200名以上と言われています。

彰義隊の遺体は、政府の命で収容が許されず、境内やその周辺に放置されていたそうです。

合掌。


カバー写真:筆者撮影

<参考資料>

東叡山寛永寺公式webサイト
https://kaneiji.jp/#gsc.tab=0

安藤優一郎著『江戸のいちばん長い日 彰義隊始末記』2018年 文春新書

国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1308032

国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1302538

東京藝術大学のギャラリー「藝大アートプラザ」Webマガジン
https://artplaza.geidai.ac.jp/sights/10643/

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