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2040年 ある青年のつぶやき(5)

 2025年以前から、滋賀県より西側は、自民党や維新の会が強かったので、地震と原発事故の後の混乱がある程度落ち着いたら、北九州政府は、教育の制度を、元の中央政府がやっていたとおりに近い、保守的な形にもどした。学校に登校することが第一であり、決められた指導要領に従った講義式授業が主であった。しかし、東北から北海道は、人口増加があったものの、基本人口密度が低い。学校を統廃合して広域化し、スクールバスなどの制度を維持するにもコストがかかる。結果、ホームスクーリングをそのまま残す方が、コストが低く抑えられると見た北海道政府は、その方法を残すと決めた。もちろん、学校に登校できるような都市部はできる範囲で学校が維持されているが、子ども自身が保護者と話し合って選択できるのだ。教育内容についても、学校と教師個人への裁量権を広げ、子どもや保護者の希望や参加も含めることにした。オンラインの授業整備にも力を入れた。横並びの金太郎飴みたいな、どの地域も同じような教育はやめることにした。しかし、日本が置かれた情勢に鑑み、外国語と数学、特に統計や会計を重視するのと、個々人に合った内容をとりいれることが、最重要方針になった。英語はもちろん必須。そのほかに、中国語教育も盛んだが、ロシアが近いこともあってロシア語教育もさかんだ。一方で、物作りやアート、新規起業に関する法律や社会のニーズを掴む方法、インターネット上の膨大なデータをどう分析しまとめるかなどのマーケティング、社会の幸福を追求する哲学をベースに、社会学、政治学なども学校や教師によっては、重要視するようになった。農林水産業と連携をとった環境学や生物学、化学なども試行するようになった。

 初めは、混乱や反対が多かったようだ。高校や大学の受験はどうするだの、北九州政府との違いはどうするだの、インターネット上でも実際の議会の場でも、一般人の間でも、侃侃諤諤ものすごかったらしい。ただ、その時の北海道政府は、それまでの日本中央政府の失敗の一因は、教育の画一化にあったことをあげた。当時の「東日本大震災、福一原発事故、コロナ感染症の失敗、今回の地震での混乱での、科学や統計、記録の軽視、改竄、古い利権構造温存などが、結局は、政治家、霞ヶ関のエリート官僚、企業ジャーナリストの一種のエリートパニックだった。そして、それは、教育の失敗によるところが少なくなかった。人々の幸福のためになるような、産業や学術、生き方そのものを創出するような教育をしていきたい。」と主張した。

 そんな教育が10年ほど続くと、不思議なもので、各自が違っていても気にならなくなった。正確にいうと、違っているのが当たり前で、違った教育を受けた、興味関心の違う人間同士が出会うと、よく話し合うようになった。違うことが前提で、違うもの同士が自分の得意なことや学んだことを伝え合い教え合うのが、普通のことになった。興味と知識と技術があれば、小中高校生でも、大学や高専の授業に参加できるし、社会人が休職して大学や大学院で学ぶのも増えてきた。法人税は、世界の潮流に乗って高くしたが、大学や大学院進学のための休職を認める企業や法人には、その人数による減税措置が取られる。

 北海道、東北地方の産業は、第一に農業、食糧生産だ。地震と原発事故の後、日銀バズーカが破綻。円の信用が世界的に落ち、円安が進んだ。以前のように、何でも海外から輸入するのは、難しくなっていった。輸入食料はものすごく値段が高く、一部の富裕層のものになってしまった。地震の次の年、北海道と東北は、それまでの中央政府の政策を無視して、なるべくたくさんの食糧生産・保管をすることにした。徐々に来るであろう食料不足に備えるためだ。巨大な倉庫や冷蔵庫を持つ会社が、協力し、それが、大正解になった。それでなくても、関東や中部、東海地方では、放射能の影響で農業ができなくなったのだから、食料の値段が高騰するのは目に見えていた。 

 その後、北海道は、農業への新規参入をしやすくする様々な政策を取った。食料増産で得た収入で、企業に北海道債を買ってもらって資金を作った。まず、北海道農業についての知識と技術を学ぶ農業学校制度だ。北海道の気候風土、それにあった作物、生育方法、現農薬法、自然農法、などを学びながら、実際に作業をする学校を各支庁に作った。酪農や発酵学に特化した学校も、北大の協力を得て作った。そして、農業を企業化し、収入を上げるために、生産、出荷だけでなく、生産したものの製品化にも力を入れるよう奨励した。少ない品種の大量生産ではなく、コンパニオンプランツなどの組み合わせや、出荷時期をずらすために違う品種を作る技術や畑作と畜産との小規模混合生産など、さまざまな経営方法が奨励された。生産に伴って出る有機廃棄物の発酵処理、堆肥化、発酵熱の活用、なども行われるようになった。また、生産、出荷管理、天候予測、価格予測と設定などに、データ分析も学ぶようになった。企業化すれば、雇用も生まれる。被雇用者には、米、小麦粉、大豆などの農産品を何%か割り引いて買えるバウチャー制度があって、小規模だったら、それを利用した副業も認めらる。その制度を利用して、豆腐屋をやったりパン屋や農民レストランをやったりする者も現れた。このような努力で、国内の観光地としての価値が、さらに高まったのは間違いない。

 また、僕の両親のように、自分たちの食べる作物だけを作るという条件で、一定の広さの畑を所有できる制度も作られた。そうすれば、農業への新規参入の敷居も低くなる。実際に、そういう家庭菜園的なものを経て、農業法人を起業するひとも少なくない。

(これはフィクションです)

 

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