短歌五十音(た)玉城徹『左岸だより』
このnoteは次の二部に分かれています。
1.玉城徹の歌集『左岸だより』の紹介(1400文字)
2.玉木徹の評論集概観(5300文字)
第2部はおまけです。気になるかたのみお読みください。
『左岸だより』
玉城徹(1924-2010)は歌人・評論家。北原白秋に私淑。第四歌集『われら地上に』で迢空賞を受賞。現在はいりの舎が彼の歌集・訳詩集を販売しています。『左岸だより』はその一冊で、2020年に発売されました。
玉城徹は晩年に小冊子「左岸だより」を発行していました。歌集『左岸だより』は「左岸だより」に発表されたすべての短歌をまとめ、いくつかのエッセイを付したものです。
「のろのろと」と「ひともとの」がリフレインのように響きます。「ひともとの」が「町」にかかっているように感じられ、小さな町に生きる老人の姿が浮かんでくる。
「春の日を聴くがごとく」という美しい比喩にはじまり、なめらかな韻律を通って「舗装の道に」に着地します。スミレが舗装の道に咲くのがすこし悲しい。
道が「わが前に伸ぶ」という感覚がおもしろいでです。梅雨さなか、足取り重く街に出ると、どこまでも伸びていく道がある。生まれるとは世界に投げ出されることでしょうか。
じぶんは働く人をこのような目で見れません。あわただしい生活のなかで、ひとりひとりの生きてきた時間を感じること。生きていくこととは世界のなかで伸びていくことでしょうか。
二羽の鳩にまどかな恋を見ているのでしょう。鳩がいるのが「遠き平面」というところに、安らかさへの思慕が感じられます。
「沼津」という字は暗いです。その上を高々とトンビが飛んでいる。無病息災をねがう七草粥を食べる日も、もはや昨日に過ぎてしまって……。
〈私〉の生活も「かすか」なのです。そのなかで友人の死のみが波を打ち、消えていきます。第三句・四句にふくらみを持ちつつ、下の句の余情も忘れられません。とてもバランスのいい歌です。
〈私〉は今日の歓談を亡き友人に語りはじめます。死者と「語りつつゆく」とは、〈私〉はどこに行くのでしょうか。
後半のエッセイでは、玉城徹が自身の第一歌集『馬の首』、第二歌集『樛木』について語っています。それぞれ一首ずつ引きましょう。
「貧しき道」に、神様のいたずらのような「白梅」が咲いています。日本では春をつかさどるのは佐保姫という女神です。白い梅だからそれほど華やぐわけではない。けれども、日本中が貧しい時期――たとえば敗戦後――に、白梅の開花は特別なものと感じられたのでしょう。とはいえ現実的な歌ではなく、どこか別世界のようです。
山鳩のボーッ、ボーッという低い声が乳飲み児のそばで響いています。目覚めた児はその声を聞いているのかどうか。明るい歌とも暗い歌ともいえず、写実的な歌でも幻想的な歌でもありません。あえて言えば生誕のほのぐらさを語るような歌です。この二首は間違いなく玉城の代表歌でしょう。
玉城徹の文業
玉城徹の主要な評論集は次の四冊です。
・『近代短歌の様式』短歌新聞社, 1974
・『昭和短歌まで その生成過程』同, 1991
・『近代短歌とその源流 白秋牧水まで』同, 1995
・『素描・二十世紀短歌』同, 2008
ほかに茂吉論・白秋論・子規論・人麻呂論・芭蕉論・西行論などがありますが、これには触れません。以下、一つずつ内容を紹介します。
『近代短歌の様式』
①冗語
冒頭の評論「近代の濾過」がもっとも興味深い見解を提出しています。主張は二つ。第一に、短歌らしさの源泉とは「冗語」であること。第二に、近代短歌の原理とは「内面的時間の統一」であることです。
短歌らしさとは短歌固有のポエジー、つまり歌情を指します。玉城によると、短歌の歌情とは「冗語」(歌の内容にかかわらず、その意味で無駄なことば)のもたらす「ふぜい」のことです。玉城は冗語として次の語を挙げます。
〈かも〉〈かな〉〈も〉〈けるかも〉〈けり〉〈をり〉〈ゐる〉〈たり〉〈り〉〈ぬ〉〈つ〉
そして次のように述べます。
丁寧に確認します。近代の文語において、〈かも〉〈かな〉〈も〉〈けるかも〉〈けり〉は主体の詠嘆を、〈をり〉〈ゐる〉は動作や状態の進行や継続を、〈たり〉〈り〉は状態の継続を、〈つ〉〈ぬ〉は状態の完了を意味します。
詠嘆の語が冗語というのは納得できそうです。たいして、〈をり〉から〈ぬ〉は主体の心情ではなく対象の状態をあらわすのですから、歌の内容にかかわり冗語とは言えないと思われるかもしれません。
しかし、これらの語は対象の状態が過去のことであったとする「き」「けり」や、対象の実在を推量する「む」「らむ」「けむ」のように、対象の現存(いまここに存在すること)をおびやかすことはありません。また、「べし」「まじ」のように主体の強い価値判断を示したり、「る」「らる」のように主体から対象に向けられるはずの関係性を反転させることはありません。このような意味で、「をり」~「つ」は「格別意味にかかわるようなはたらきを」しないと言えます。
また、玉城は枕詞や縁語も冗語に含めます。しかし、ここでは動詞に後接する一部の助詞・助動詞・補助動詞に注目するため、これらを一端脇に置くことにします。
冗語を含む近代短歌を一首引用しておきましょう。
長くなりました。ここから何が言えるでしょうか。島田幸典氏は砂子屋書房の月のコラムで、「冗語」の発想を現代短歌につなげています。注目したいのは、短歌の口語そのものを「一首に独特の〈気分〉をもたらす」「冗語の機能にきわめて近しい」ものとして捉えていることです。
しかし、これはやや性急でしょう。まず、発話の中の口語と地の文の口語を区別する必要があります。発話が何らかの気分をもたらすのは当然で、それを「冗語」と呼ぶことはできません。また、地の文においてもすべての口語が「気分」を表すわけではありません。
この歌には「気分」に当たるものはないと言っていいでしょう。
これらの歌で冗語と呼びうるのは「だった」「のだ」です。しかし、前者は歌全体が主体の体験として、後者は「君」への呼びかけとして詠まれており、特定の語に「気分」が集中しているとは決して言えません。
これは、現代語に〈かも〉〈かな〉〈も〉〈けるかも〉〈けり〉〈をり〉〈ゐる〉〈たり〉〈り〉〈ぬ〉〈つ〉と同じ機能を持つ言葉、つまり冗語が存在しないからではないでしょうか。たとえば詠嘆を「だなあ」と表現した場合、歌全体が発話体のモードになってしまいます。先に示した「だった」「のだ」でも同じことです。また、現代語の〈をり〉〈ゐる〉に当たる「ている」はもっとも冗語に近いと思われますが、そこに余情はほとんど感じられないでしょう。
筆者が言いたいのは次のようなことです。「鳳仙花紅く散りゐたりけり」は、「散りゐたり」と「けり」で叙景と叙情が区別されているように読める。しかし、「赤い鳳仙花が散っているなあ」とした場合、「赤い鳳仙花が散っている」までもが主体の認識として読めてこないでしょうか。前者は景に心情が添加されているように読めるが、後者は景の時点で主体の目線が感じられてしまうのではないか。
つまり、文語短歌の歌人が冗語に主体の気分を凝集させるのと同じように(それと同じ頻度で)、口語短歌の歌人は歌全体を主体の実感にしてしまうということです。もしこれが正しいとすれば、とても大切な理解だと思います。
②内面的時間の統一
玉城は近代短歌の原理を「内面的時間の統一」と表現します。分かりにくい表現です。すぐに「一首の短歌の各部分が、一瞬間に集中した感情(または感動)の表現に奉仕すること」と言いかえていますが、まだ分かりにくい。
玉城は別のところで「内部的な一瞬間に感情を集注しようと」することとも述べています。すこし分かりやすくなってきました。つまり、近代短歌は主体のひとかたまりの感情を提示するということです。裏を返せば、近代短歌からはひとかたまりの感情をもった主体の姿が浮かんでくるということです。
これは短歌における近代的自我の表れと言っていいでしょう。近代とは、前近代的な共同体から弾き出された個人が、自らの存在の根拠を共同体への帰属という存在(私は共同体のなかで……という存在である)から実利的な価値(私は……することができる)に求めるようになった時代を指します(参照)。この悩ましい個人の心境を近代的自我と呼ぶ。
与謝野晶子や斎藤茂吉、北原白秋の短歌をぼんやりと想起すれば、近代短歌のメインストリームが凝縮された自我の表現にあったことは納得できます。しかし、それと「内面的時間の統一」はすこし異なる。
「内面的時間の統一」は近代短歌のすべてを包み込む大前提のことです。白秋や茂吉は、短歌をさらに濃縮された表現として、つまり濃厚な自我に統制されたものとして深めていった。その圧縮の過程が近代短歌史と呼ばれるものだったのです。以降の評論で示される玉城の短歌史は、この近代短歌史の力学とその外部を探る営みと言えます。
『昭和短歌まで』
『昭和短歌まで』では大正後半期の短歌史があつかわれます。玉城は大正6年にはじまる『アララギ』の歌壇制覇を、島木赤彦の「政治的目的意識によって達成した事業」であり、それは「歌壇党派時代の開幕」だったと述べます。
「歌壇党派時代」とは、短歌の世界が主義主張をともにしたグループ同士の対立・競合として把握されるようになったということです。この事態を生み出したのが『アララギ』であり、その原因には島木赤彦の存在、そして『アララギ』によるイメージを凝集させる方法論の確立があり、背景には第一次世界大戦前後のインターナショナリズムからナショナリズムへの転換があったと玉城は言います。
この「歌壇党派時代」から逃れるために(あるいは党派時代の到来を把握できずに)、土岐善麿は結社「生活と芸術」を、前田夕暮は「詩歌」を、北原白秋は「紫煙草舎」を解散します。そして『日光』という反アララギの「連合」を結成するのですが、連合である以上、内部の主義主張の対立(=党派性)によって分裂するほかありませんでした。
こうした動向のなかで、専門歌人の短歌は「技術主義」(芸術的ではなく、写実的な「うまい」短歌を目指すこと)に進み、行きづまったと玉城は言います。そして、玉城はその外部に清新な歌人を見出します。特筆すべきは画家・詩人の村山槐多と農村指導者・宗教思想家・詩人の宮沢賢治です。島木赤彦の歌と比べるかたちで彼らの歌を引用します。
賢治の歌は難解ですが、それが特徴なのだと玉城は言います。賢治の父親は質屋です。舎監とは宿舎の監督のことです。宿舎の学生が「銀の時計」を担保に金を借りた。学生は金を返済できず、時計は父のものになった。そして、父はその時計をつけて宿舎の前に立っている。
賢治の「存在様式」を踏まえなければ、「などて」という問いを理解することができない。そしてそれゆえに、この歌は非常に個性的な表現となっています。
『近代短歌とその源流』
『近代短歌とその源流』では『昭和短歌まで』よりも前、明治末期~昭和初期(=二十世紀初頭)に活躍した北原白秋と若山牧水があつかわれます。
本書には大森静佳氏の解説があります。大森氏によると、玉城は対立軸として捉えられがちな『アララギ』と『明星』を「自我の詩」としてひとまとめにし、「「自我」の近代短歌 VS 「自我」解放の白秋・牧水」という新たな対立軸を示したといいます。しかし、この把握はやや不十分です。
作者に似た主体がおらず、幻想的な世界観の歌です。また、風景と主体がするどく対置されているわけではなく、どこか混じりあっているような印象を受けます。玉城は白秋の成果を、短歌形式において「抒情的言語と虚構とを結びつけた点」にあったと言います。
つぎに、玉城は牧水と白秋・茂吉を比較します。白秋・茂吉の歌は一人の自己を設定し、その自己が捉える自然を、感情を凝縮させて詠んでいる。なるほど、上の歌も「病める児」という自己の表現と捉えられますし、表現が凝縮されています。
この歌には凝縮された感情などなければ、そもそも感情があるかさえあやしい。心が動いたその瞬間にとどまり、それ以上先に進もうとしない。悪くいえば散漫な、よくいえば素直な心情が感じられます。
玉城は白秋・牧水を「写生のヘゲモニーに対する長い抵抗」として捉えます。アララギ派の写生主義とは、現実に生きる個人の自我を、自然と対面するかたちで、凝縮された表現で描き出すものでした。そして、白秋は現実に生きる自我からの解放を、牧水は深々と心を動かす自我からの解放をもたらした。
つまり、対立構図ではなく中心とその外部という捉えかたなのです。玉城は外部こそが普遍性を持っており、日本「詩歌」史に接続される成果だと語ろうとしている。なお、この構図はアララギが覇権を握ったわずかな期間に限られていました。また、玉城はこの外部に斎藤茂吉を含めたいようです。
『素描・二十世紀短歌』
『素描・二十世紀短歌』は江戸期から大正中期までの短歌史があつかわれます。これは、玉城の捉える「近代短歌」=「二十世紀短歌」の範囲がおよそ1900年から1920年だからです。江戸期はその前史として語られます。
これまで割愛してきましたが、玉城はくりかえし近代文学史には二つの波があると語っていました。短歌においては、一つ目の波は正岡子規と与謝野鉄幹の登場、二つ目の波は前田夕暮・若山牧水・石川啄木・北原白秋・中村憲吉らの登場です。この二つの波に挟まれた範囲が1900-20年ごろに当たります。
近代短歌の二つ目の波はすでに触れました。一つ目の波についても語られていますが、子規・鉄火の私情に深入りする内容のため割愛します。ここでは茂吉についての記述を引いておきます。
最後に、これまでとりあげた歌人を系譜別に整理します。→は必ずしも影響関係を示すわけではありません。
1.落合直文→与謝野鉄幹→与謝野晶子→吉井勇→北原白秋→石川啄木
2.正岡子規→伊藤左千夫→島木赤彦→斎藤茂吉
3.尾上柴舟・金子薫園→若山牧水・前田夕暮・土岐善麿
次回予告
「短歌五十音」では、初夏みどり、桜庭紀子、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉の4人のメンバーが週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。
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お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれば嬉しいです。
次回は中森温泉さんが千種創一『千夜曳獏』を紹介します。
短歌五十音メンバー
初夏みどり
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桜庭紀子
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ぽっぷこーんじぇる
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中森温泉
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