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死は平等だけれどそれ以上に永遠と続く『日常』も平等すぎるし終わりが見えないこともまた平等。

自分の中の二律背反した感情はいつになったら一つになるのだろうとおもいつつ、二律背反の感情を認める自分に酔っている節があるからきっと変わらず生きていくんだろうなともおもってしまう。
なんならそれでいいやと諦めてしまっているし、そういう自分が好きそうで、そういう自分を嫌いになってしまう。
そして嫌いと言っている自分が実は一番自分を守りたくて大好きだと知っているし、結局そこが気色悪い。

結局自分の思考を文字にしたらどんだけ浅はかなものか知るのが怖いし、うまく言語化できるほどの語彙も持ち合わせていないから変に綴らない方がいいのだけれど、ほぼ毎日自分のしょうもない持論に浸りたくなるし、結局文字にしたくなる。文字にしたくても、簡単にナタ切りすることを恐れてしまうから、伝えることも表現することも怖いのかもしれないけれど。ハリボテでそれっぽい言葉を並べている。でもそれでもその衝動が抑えられなくなって、noteを開いて、書いて下書きにしてを繰り返した後、2ヶ月いや、1ヶ月半に一回かな、更新したくなる。

単語や言い回しをそれらしくすることで希薄な人生や考えを取り繕っているなあと思うし、実際そうだからおもしろい。

このブログ、ここまで同じ内容を繰り返してるのアホらしい。それに満足している自分もバカらしい。

ほら結局自分を否定することでまた、満足している。

私の自意識の満たし方、えぐいな。


冬が始まったなあと感じる夜と、まだ夏がもがいている秋を感じる昼を過ごす毎日に、そんな気候もあってか否か、気に留めなくてもいいことを気に留めて、ない体力使って熱が下がらない1週間。喘息もステロイド使っても、吸入器使っても、鳴りを潜めてくれないから、おもしろい。
わたし、人間頑張ってるなあ意外と。

思考の正常化もいいけれど、自分の正当化もいいけれど、もっと素直に、ふらふらと生きられたら、ナ。
自分以外の誰かになりたいと思って生きるなんて本当に体力と時間の無駄だから、結局目指しすらしないんだろうけれど。

無数の「あってもなくてもよいもの」が集まり、その外形を人型にかたどって「人間」というものが存在している。
結局どうせ私もいらない存在だから、明日、何なら今死んでも何も変わらないし、世界は回るので、こんな思考してる時間も、文字に起こしている時間も、なくて良いものなの。人間だから、人間のふりだけで終わりたくないから、まぁ踠こうかなとか思っちゃうんだけど。

結局、いつまで経っても人に期待して、自分に期待して、未来に期待して、過去の自分の価値を肯定するために、汚くめんどくさくだるく生きている人間なのです。

そんな10月、もうそろそろ神帰月に挨拶の準備。

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