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私の心の中の朝加圭一郎と伊吹藍

 2020年9月4日に最終回を迎えたドラマ「MIU 404」は、新型コロナの影響でさまざまな危機に晒され、現場は苦労の連続だったという。そんなトラブルさえも追い風にした痛快なラストは、私たちの人生と彼らの物語が地続きであることを示してくれた。
 放送が終わった後も、私の生きる世界は志摩や伊吹を、4機捜に関係する人々を含んだ愛おしい場所であるという実感に包まれている。そして、物語から受け取ったものを自分の一部にして日々は続いてゆく。自分が物語を、エンターテインメントを愛するタイプの人間でよかったと心底思う。

 実写作品でここまでハマったのは「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」以来久しぶりだった。私は特撮に明るいわけではないが、この作品はニチアサの放送時間変更があった際の最初の戦隊ものだったので、遅く起きた日曜の朝になんとなく見始めた。爆ハマりであった。
 とくに警察側の主人公・朝加圭一郎が大好きで、一見まっすぐすぎて頑固に見える彼が、なかなかちゃんと他者を尊重し、バランスのいい精神を保っていることに痺れた。
 敵の罠に嵌り、自分の望んだ未来の幻覚に閉じ込められた朝加圭一郎が見た夢は、「平和すぎて警察である自分の役割が全くない」という世界だった。バチバチに痺れた。ありがちな「自分がカッコよく活躍するヒーロー願望」など彼には微塵もなく、ただただ世界の平和を望み、そこに生きる人たちを愛していた。私は「朝加圭一郎! 一生ついていく!!」と奥歯を噛みしめながら心に誓った。

 私は若い頃にうっかりブラック企業に勤めてしまいメンタルがナメクジ以下になってしまったことがあって以来、無駄に他人と触れ合わず、よく行くお店でも顔を覚えられたら二度と行かなくなるような、とにかく他者との余計なかかわりを避ける陰気な性格になりつつあった。
 電車で席を譲るのすら「どうしようどうしよう、譲りたいけどウザがられるかも、断られるかも、そしたらちょっと傷つくかも……」と無駄にオドオドするだけで終わってしまうような臆病な人間だった。30過ぎてもそんなんだった。当時は病気がちで思うように働けず、貧困の中で完全に腐りつつあった。
 ルパパトに深い感銘を受けたのち、またもややってきた席を譲るシーン。狭い都電に杖をついた方が乗り込んできた。その瞬間、「こんなとき朝加圭一郎なら絶対に迷わない、自分のしたことを誇りに思えど、傷つきなんかするものか」と思った。私が「もうすぐ降りるんで~!」と席を立ちながら話しかけると、相手はありがとうと喜んで座ってくれた。その人のほうが先に降りていったのだが、降りる前に笑顔で私に手を振ってくれた。その土地に住んでいたのは短い間だったが、とても印象に残るいい思い出を貰ったと思う。
 あれ以来、電車で席を譲る事に躊躇はなくなったし、街中で車いすの方などを見かけると何かお手伝いすることがないか自分から探すようになった。まだまだ「助けが必要かもしれない」というアンテナは低く、こういうのって常に「心の筋肉」を鍛えてないと、体が咄嗟に動かなかったりするなと実感する。朝加圭一郎みたいな人になるまでの道程は長いが、自分から動けばいつだって朝加圭一郎が遠くからサムアップを送ってくれる、そんな気がして生きている。

 「MIU 404」の主人公である伊吹藍も、朝加圭一郎とはまた違った形で強烈な光を放っていた。常に人当りと機嫌がよく、どんな人にも属性を気にせず気軽に話し、己の中の「善」に忠実に生きていた伊吹。ヤンキーから更生した過去があり、手が出るのが早いなど危うい一面もありつつ、そういう陰の面を「自分の意思」と「信頼している人達の協力」でなんとか抑え込み、ハッピーに生きようとしているように私には見えた(コントロールはまだ全然できていないようだが)。久々にドッカンドッカン痺れた。彼が腐らずにやってきたという10年間、まっすぐで不器用ゆえに上手くいかない事は多くとも、きっと田舎町でいい人間関係を築けていたのではないだろうかと、彼の奥多摩時代に思いを馳せずにはいられない。

 私はご近所付き合いというものがこれまで苦手だった。だからこそ都会での一人暮らしを選んでいるといっても過言ではなかった。だが、心の中の伊吹藍はとても感じがよくおしゃべりだ。実は私もおしゃべりである。そんな自分を無理に抑え込んでいることが、だんだん馬鹿らしくなってきた。
 この夏、私は今までろくにしゃべったことがなかった大家さんに自分から話しかけるようになった。一階のお店に勤めるぶっきらぼうなお兄さんに大声で「おはようございます!」と挨拶するようになった。近所の喫茶店の常連になった。すべて「伊吹だったらこうするだろうな」「伊吹だったらこういうの素直に喜ぶんだろうな」等と思ってやり始めたことだった。別に会社でもないし礼儀正しさなんか求められていないのだ、私が楽しく喋っていれば、相手にだってちょっとくらいは楽しい気持ちが伝わっているかもしれない。
 そんなふうに他人を恐れずフランクに誰とでも喋れるようになっただけでも収穫なのに、なんか知らないうちに近所で食料をくれる人が増えた。
 心の中の伊吹が、1話みたいに謎握手をしてくれながら「ウェ~イ! やったじゃ~ん、今度出張に行ったらお土産買ってこなきゃね」と話しかけてくれたような気がした。そうか、私はいい大人にもかかわらず他人が怖かったのだ。少しずつでもその恐怖が薄れてきているのは、私にとって大きな変化だった。どこへも遊びに行けない2020年の夏、「MIU 404」が私にくれたギフトは楽しい金曜の夜だけではなかった。

 自分が傷つくのを極端に恐れて何も行動できなかったのは、かつて自分がよく知らない人に傷つけられて残った古傷があったからだった。朝加圭一郎も伊吹藍も、そんな傷にいちいち痛みを感じるこよとりも、断然楽になれる方法を教えてくれた。傷を癒してくれたのではなく、他者の痛みを理解するための傷に変えてくれたように思う。

 いま現在こう思っているとしても、きっとまた人が怖くなることや、他人にどうしても優しくできないときが来るだろう。でも、それでもいいという事にした。伊吹藍役の綾野剛さんのインタビューを見て、私は自分の浮き沈みすら「人間らしい自分の個性」だと思うことにした。

月のように満ちたり欠けたり変化するタイプではなく、どこから見ても同じように見える太陽みたいな人。昇るか沈むかだけ。

綾野剛インタビュー|TBSテレビ:金曜ドラマ『MIU404』

 こんなふうにフィクションのキャラクターが自分のなかに生きていて、その影響を自分の表面に出してみることは、私の生活に根付いた「表現」の一つなのではないか…と、ふと思い至った。そのきっかけのひとつは、先日「星野源のANN」で星野さんが話していたアドリブについて、下記のような感想を抱いたからでもある。

 役者が行う「芝居」とはまた違った形で、個人のイマジネーションに棲んでいる愛しいキャラクターたちは、我々の生活と一体化した「表現」の羅針盤となり、これからもずっと生き続けていくのだろう。
 物語が終わったって寂しくない。そう思いながら続編を熱望しつつ「MIU 404」のグッズをポチる自分がいる。オタクの人生は毎日毎日始まり続けるのであった。

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