読書ログ:暇と退屈の倫理学
30歳を越えたあたりから、少しだけ本を読むようになってきました。
特に自分の人生に影響を与えそうな本については、ちゃんと言語化してまとめたいなと思っています。
前回はこちら↓
今の仕事は好調だが、「アドレナリンの奴隷」ではない?
今回はこちらの本。「暇と退屈の倫理学」です。
最近仕事をする中で、漠然と次のようなことを考えていました。
生成AIの登場で仕事が劇的に変化している体感がある。人間がやることがどんどんなくなりそうだが、そうしたら人間は何をすることが幸せなんだろう。
最近仕事が楽しい!でも、30歳を超えているわけで、「仕事に100振りすることが、人生の幸福度を増すわけではない」ことには薄々気づいている。実はこの仕事の楽しさは、「アドレナリンの奴隷」なだけなのではないか?このまま続けていていいのか?
そんな中で、たまたま本屋さんに行ったときに「2022年 東大・京大で1番読まれた本」というラベルがついているこの本を見つけ、購入しました。
詳しくは下にまとめますが、「退屈における人間のゲームルール」について理解できる素敵な本でした!
この本で言ってたこと
※ちょっと難しくて、理解度70%くらいのお気持ちです
退屈するというのは、人間の能力が高度に発達してきたことの印
人間の大脳は、(想定外の出会いや都度の状況把握といった、刺激のたくさんある)遊動生活でやっていけるくらいには、発達している
しかし定住生活をするようになり、刺激が減って、能力を持て余してしまった
この能力の持て余しは、人間は文明の高度な発展に使ってきた
だけど、能力を持て余していること自体が、「退屈になる可能性」をもたらしている
この「退屈になる可能性」は、人間の能力に起因しているから振り払うことなどできない
振り払うことなどできないけど、人間は退屈からめっちゃ逃れようとする
ex 命を危険にさらすために、軍職を買って戦場に行く
ex. 狩りや賭け事
「退屈」の3つの形式
退屈には3つの形式があり、徐々に深くなっていく
第一形式:何かによって、退屈させられること
こういう状況のこと
電車の乗り換えで、田舎の駅で4時間も待っている。
携帯は使えなくて、周囲にも何もない。
とりあえず時刻表を眺めては、ふと時計をみると5分しか進んでいない。
期待している状況(電車が来る)に満たないことが、退屈を引き起こしている
「退屈していて暇がある」状況
第二形式:何かに際して、退屈すること
こういう状況のこと
妻の趣味のお笑いライブに付き合う
これは断ることもできたが、まあいいかと思って行き、真剣にライブをみる
おもしろいネタ、おもしろくないネタもあり、帰りにご飯を食べて帰る
家にたどり着き、「ああ、本当は退屈していたんだな」と気づく
時間を無駄にしていた、という後悔ではなく、「大変楽しんだけど、退屈だった」
これは、この一連が「暇つぶし」である
「退屈しているが、暇がない」状況
第三形式:「なんとなく退屈」
日常生活において「なんとなく退屈だ」という声が聞こえること
何もないただっ広い空間に、一人ぽつんと置かれているイメージ
第一形式は、気晴らしで退屈を追い返せる
第二形式では、行為全体が退屈を追い返すが、終わった後に「退屈」を感じる
第三形式では、抵抗できない。ただ感じる。逃れられない。考えてしまう
ここで、
第三形式の退屈を払いのけるために、第一形式と第二形式が存在している
第三形式を払いのけるために「決断をする」という選択肢があるが、それは第一形式=第三形式で、人はなにかの奴隷になることで「退屈になる可能性」から自由になろうとしているだけである
ex. なんとなく退屈だ(=第三形式)→仕事を頑張ろう→仕事の奴隷(=第一形式)
第二形式では、自分に向き合う態度もあり、「安定と均整」がある
人間のゲームルール
「人間であること」とは
概ね第二形式の退屈を生きること(退屈しているが、暇がない状況)
そして時たま、第三形式=第一形式に逃げて、また戻ってくること
つまり、
「人間であること」とは、退屈に向き合って生きていくこと
だから、人間であることはつらい
同時に、「動物になること」という可能性も存在している
人間は慣れることができる
一つのモノの見方(環世界)から離れて別のモノの見方(環世界)に、容易に移行することができる
ex. ダニの見方と人間の見方、ふつうの人間の見方と宇宙物理学者の見方
その慣れたモノの見方に何かの衝撃(不法侵入)があってモノの見方が崩れると、人はそれに支配されて、それについて思考することしかできなくなる
これを「動物になること」と呼ぶ
ゲームルールのポイント①:「人間であること」を楽しむ
贅沢をする、浪費をすることが大事!
「人間であること」を楽しむ、とは、「贅沢を取り戻す」こと
「贅沢を取り戻す」とは、消費ではなく浪費をすること
現代社会は、浪費ではなく、消費を求められる
消費とは、物ではなく観念を対象にしているから、際限がない
そのため、永遠に満足することがない
ex. 15時間も仕事をするのは、「忙しさ」という観念の消費
ex. Instagramのマウンティングは、「俺は労働に縛られずに好きなことをしているんだぞ」という、「余暇」という観念の消費
浪費とは、必要の限界を超えて「物をちゃんと受け取る」こと
「物を受け取る」には限界があるため、満足となりやすい
浪費するためには、準備や訓練がいる
「物を受け取る」とは「物を楽しむ」こと
「物を楽しむ」には準備や訓練が必要
楽しむことは容易じゃない。だから、消費社会が漬け込んでくる
訓練とは、細かく理解すること、解像度高く理解すること
ex. 食なら、複雑な味わいを口の中で選び分け、それを様々な感覚や部位で受け取る。これは訓練が必要。
ex. ワインなら、その産地がわかったり、味を感じること
訓練とかいうと、教養が必要そうだけど、身近なものでもなんでもよいぜ
服でも食でもいいし、犬でも猫でもOK
ゲームルールのポイント②:どのように「動物になること」をするか
「動物になること」は悪ではなく、どのように「動物になること」をするかがポイント
バッドケース:(何かの)奴隷になる
ただ単に、第三形式=第一形式に陥ること。つまり何かの奴隷になること
この場合は、実行に固執していて、楽しむことや想定外の思考をすることができない
グッドケース:想定外の変化を受け取れる「余裕」をもつ
目的に固執していないので、柔軟に色んな考えを受け取れることができる
ex. 食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何でできていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。
ex. 映画が好きでいつも映画を見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。これはいったい誰が作った映画なのか、なぜこんなに素晴らしいのかを考えるようになる。
結論:「人間であること」を楽しむことで、「動物になること」を待ち構えよう
こんなふうなのが良いのでは?
「人間であることを楽しむ」とは、
=退屈を時折感じつつも、物を享受し、楽しんでいる
=基本的には第二形式、ただ物を受け取る「余裕」がある状態のこと
その中で、「動物になること」
「余裕」を持ちつつ、思考する
+αとして、「動物になること」を待ち構えられると楽しい
前提、「動物になろうなろう」とすると、奴隷になっている
あくまでも「動物になること」は、偶発的なことに意味がある
自分が「動物になること」が発生する瞬間を知り、そうなりやすい場に身を置く機会を増やそう
ex. 美術が好きなら美術館、ご飯が好きならレストランへ
そのために
物を楽しめる、訓練をしよう
自分が「動物になること」が発生する瞬間を知り、そうなりやすい場に身を置く機会を増やそう
第三形式=第一形式に陥っていないかを、定期的に点検しよう
思ったこと
①自分の「好きなこと」は、企業に作り出されていない?
本文中に、ざっくりいうと以下のような話があります。
豊か(お金と時間がある)なら、本来やりたかったこと(好きなこと)をやるはず。
しかし実態として(現在)は、企業が企業の都合の良いように、「好きなこと」を作り出している
それは、広告を出している人から操作を受けていて、本当にやりたいことではないだろう
最近、体系的にマーケティングを勉強しており、(広告に限らず様々なところで)マーケティング的な企業努力を感じます。だからこそ、上記の話にすごく納得感がありました。
例えば何気なく買った野菜生活。購入直前でCMを見たわけではありません。でも、カゴメの発信するマーケティング活動には必ず触れています。
自分の日々の買い物のうちどれくらいが、本当に「自分が購買した」と言い切れるかというと、不安になってきます。
②気晴らしをするために、「アドレナリンの奴隷」になる
これが、冒頭で触れた「アドレナリンの奴隷」のことなのだと思います。たしかに自分も、暇であることに気付きたくないために熱中を求めている瞬間があります。
例えば、土曜日の朝にカフェで仕事をし、スッキリした後家でダラダラしちゃう。そんな夜は、「あれ、暇つぶしに仕事をしている?」なんて考えてしまいます。
その原因は、「退屈」ということなんでしょうね。けど人間である以上は、これは避けられないようです。
③「物を受け取る余裕がある状態で思考をする」というのは趣味、あるいはエフェクチュエーション的な事業運営に近いのでは?
先日、カフェで隣の人が話していることが耳に入ってきました。
「起業」というものとの向き合い方を学生に説明するとき、「趣味とは違う」という言い方が最も伝わる。
趣味でパン屋をやる場合は、好きにやればよい。たとえ潰れたとしても、気にしなくて良い。
一方、出資を受けてパン屋をやる場合には、目標達成するための計画を示す必要がある。そこには戦略が必要で、必死にやる必要がある。
ふむふむ。たしかに、趣味でパン屋をやる場合は説明責任を果たす必要がない。そして自由であり、その分物を受け取る余裕があるよな、とも思いました。
また、先日、エフェクチュエーションに関するセミナーを受けました。
これに当てはめて考えると、コーゼーション的な事業経営では、第三形式=第一形式になっていそう。
一方で、エフェクチュエーション的な事業経営をするには、物を受け取る余裕が必要なようです。レモネードの原則(災い転じて福となす、的な考え方)は、まさにそういう話なのかもと思いました。
また講義の中で、エフェクチュエーションは後天的に獲得可能であるという話がありました。
エフェクチュエーションの感覚を掴むっていうのは、思い切った行動をして、想定どおりではなくて違うことだけど、「でもいいかんじ!」と解釈できるということ。それがゆえに、想定通りの結果を返すことに価値を感じるヒトや、失敗したときにそこから学びへと転化できないようなヒトは、後天的な感覚の獲得が難しい。
これも、物を受け取る余裕があるかどうか、に紐づく話なのではないかと考えました。
④作者の結論には納得感があるし、今の自分の状態は、かなり正解に近いかも
作者の結論に対しては、僕も納得感があります。
そして、今の僕の状況は、かなり幸せ(というか正しい退屈との向き合い方)なのかも、と思いました。
その上で、より自分の人生を良くするために、以下の2つができるかもしれないと思いました。
A:もっと様々な物を楽しめる訓練をすると、人生が楽しくなる可能性が高まりそう
これまでは仕事や、仕事の中の原理の理解みたいなことを楽しんでいた
他にどんな訓練をするといいのかは、別で考える必要がありそう
仕事ではなく、家族などの方向に向いているものがいいかも
B:「第三形式=第一形式に陥っていない」ように、しないといけない
これはこだわりをなくす、固執しないということでもある
ちょっと仏教にも近い感じがする
定期的に見直せるような、そういう仕組みを作っていかないといけない
おわりに
少しむずかしい本だったので、こうやってnoteにまとめる中で再解釈がたくさん進みました!
で、こうやってみると、前回の感想と似たような部分があることに気づきました。
自分の人生や、その中での仕事の立ち位置を考えている期間が続いているのですが、もしかしたらもう少しで答えに至ることができるかもしれません。
引き続き、色んな本を読んでいきたいと思います!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?